――家にはサッカーが出来る設備をつくりましたか?
「リビングルームに野球ほどの小さいボール、硬いボール、軟らかいボール、スポンジみたいなボールなど5つくらい転がしていたくらいです。大きいボールでリフティング出来たら、小さいボールで出来るように、足の感覚を養うためにいろんなボールを使うことが大切なんです」
――仕事の合間を縫っては練習に付き合ったりしたのですか?
「学校のグラウンドへ行って、『校長先生に(使用する)許可をもらってきなさい』とよく息子を職員室へ行かせたもんです。練習時間は学校が終わってから7時半くらいまで。コーンを置いて、グネグネしてドリブルさせて、僕がタイムを計る。遅くて正確には誰でも出来るからタイムだけは気にしていた。持ち味の足も無駄になってしまうし」
――練習時間はどれくらいですか?
「土、日はあざみ野FCで一日中練習し、平日は週1、2回1時間半くらいクーバー・コーチングというサッカー教室で練習。その後は公園で練習。雨の日は車を移動させて屋根つきの4台ほど置ける広さの駐車場で練習させた」
――奥さんのサポートは大きかったですか?
「妻なしではここまでこられないよね。食事は出来るだけ手を加えていたものを食べさせていた。でも嫌いなものは残させる。僕も息子もニンジンが嫌いでね。無理やり食べさせるとかえってストレスになる。食事の時間も苦痛になる。栄養は他のもので補えるし」
――学校との両立はどうしていたのですか。
「あるとき宿題をやらなくなることがあった。宿題はサッカーの練習から帰ると夜10時前くらいになる。宿題は先生との約束ごとでしょう。僕はやれないことは約束するなという考え。つまりウソをついてはダメ。先生に出来ないと言ってきなさい。そうしたら堂々と学校に行ける。3人とも先生に言ったら大輔の先生だけ『分かった。ただ出来る時にはやりなさい』と言われたそうです。なので僕もそれなら出来る時にやりなさいと」
――先生は怒ったのではないですか?
「でもおまえの夢は何だって聞いたら『サッカー選手だ』と。そしたらサッカーを中心にものを考えなさいと。学校は義務教育だから行かなきゃいけない。それにある程度知識がないと生きていけない。でも勉強はサッカーが終わってからでも出来る。僕が今から東大に入ろうと思って勉強したら入れるかもしれないじゃない。サッカー選手にはなれないけど」
――練習以外ではどのような指導を?
「ジダン、バッジオ、ロナウドとか一流の選手のテクニックをビデオで見せてあげた。50本はあるね。僕は自分でやって見せて教えることは出来ない。でも見て覚えることは大事。ビデオで世界の一流プレイヤーを見ていたから、Jリーグを見せても意味あるのかなあと思って日本の試合はあまり見せなかったな」
――私生活面ではどんなアドバイスをしていますか?
「私生活がダメな人はいい選手になれない。例えば試合の前の日だけ早く寝てもコンディションは保てない。インタビューでも『きょうはさ、絶対勝ちたかったよね』と『~さ』とか『~ね』とか言う選手がいる。そういうインタビューが僕は大嫌い。子供たちにはインタビューの時にはしっかり話をしなさいとよく言ってます」
――長男は高校3年生の時に風間(八宏)氏の息子とセビリアFC(スペイン)のユースチームに2週間留学しましたね?
「プレーの仕方も、体のでかさも、意識も違う。刺激を持って帰ってくるよね。次男もオランダのユトレヒトに行く時は文化と言葉を早く覚えろと。野球界でも、活躍している外国人選手は言葉も覚えるし、文化も取り入れる。また向こうでは突っ張れと。彼らは自分の意見がしっかりしている分、自分が悪くても謝らない。というのは認めたら自分の責任になるから。謝らないといけないというのは日本人的感覚だし、彼らは謝らなくても(謝らないことを悪いと)思わないからね。まあ、でも行く時は親に相談なんて全くなかったんだけどね」 (おわり)
▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。
~日刊ゲンダイ 2011年8月8日付掲載~
2011年8月27日土曜日
【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(中)
――競技は違いますが野球もサッカーも共通する点があるのではないですか?
「どの競技でもスポーツの基本は一緒。個々の選手がベストな状態でプレーすることがチームワークで、仲がいいことじゃない。ある試合で、フォワードの息子がセンタリングされたボールをゴール前で空振りしたことがあった。足に当てれば入るのに。チームメートがしんどい思いをしてパスをしたのに、おまえが下手だとチームワークはガタガタだよと。もっと練習して得点することがチームワークだと話をした。技術は僕が勉強するのではなく子供が勉強すること。だから大人は精神的なものを教える」
――プロとしての考え方はいかがですか?
「僕の父親はサラリーマンで事務系。だから僕はプロ意識はなかったかも知れないが、子供たちにプロの考え方を植えつけることは出来たと思う。例えば給料のうち生活費は半分で十分だとする。余った半分は貯金でしょう? 僕はそれを全部使い切れと言います。そのおカネが大金だと思うとそれ以上のおカネは稼がなくなる。チマチマするな。自然と貯まるようになって初めてプロだ。そういう感覚はプロとして持っておかないといけない」
――高木さんはプロになれと積極的に勧められたのですか?
「高校に進学するときの高校選びの時とかに家族会議を開いた。高校サッカーもあるし(Jリーグの)ユースもある。サッカーをやめることも留学する道もある。それぞれのいい面、悪い面をいろいろ説明して自分で選びなさいと。選択肢は広くしてあげないとね。別にプロにならなくてもいいと言ってました。大人になってやりたいことが見つかれば別なことをやればいい」
――それでも結局、プロに進みましたね。
「長男は最初だから、どこの高校に行くか、このまま契約してプロに行くか、相当悩んだ。サッカーの早慶戦を見に行ったりしていた」
――最後は子どもに決めさせたのですね。
「プロになったからといって(親が)喜ぶわけではない。おまえの人生だし、自分の好きな道を選べと。この高校に行って大学に行かないと一流企業に行けないよ、と言って子供を追い込むことをしたくなかった。よく子供の教育のことで、麻布高から東大に行ってというのがよくありますよね。そういうのは教育ではないんです。でないと決定することができない子になる。何でも親に聞いてくるようなね」
――髪の毛の色ひとつも子供に決めさせるそうですね。
「次男が小学校4年のとき、髪の毛を染めたいと言ってきた。いいよと言った。試合になるとなぜか自分のファウルでないのにファウルにされる。大人を見たら(髪を染めている)おまえの方は悪い子に見えるし、髪の毛の色で人は判断しがちだ。身なりで損をしてはおまえが損だよと教えた。やらせてみないとわからないことってあるでしょう。世の中で難しいことは決定すること。決定の作業は責任を伴うから大変だけれどもとても大切なこと。その決定する力を小さい時から植えつけたかった」
――サッカー評論家の風間(八宏)氏と親交が深いと聞きました。
「ええ。息子のことも気に掛けてくれていたので、昔、息子が点が取れないんですよねえと話したら、『それは(親が)点を取れとか言ってるからですよ。子供は親が見に来てくれたらうれしいし、親の顔を見てプレーするようになる。だから言わない方がいいよ』とアドバイスをもらった」
――風間氏から技術面も教えてもらったのですか?
「僕が中心になってサッカーチームの保護者らとチームをつくったんです。風間さんもチームにいたので教えてもらいました。親が子供と同じポジションを守るのですが、これが難しくてね。ボールが1個ずれただけでボールが蹴れないわけだから。それからは何であそこで蹴れなかったんだ、と息子たちに言うのをやめました」 (つづく)
▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。
~日刊ゲンダイ 2011年8月6日付掲載~
「どの競技でもスポーツの基本は一緒。個々の選手がベストな状態でプレーすることがチームワークで、仲がいいことじゃない。ある試合で、フォワードの息子がセンタリングされたボールをゴール前で空振りしたことがあった。足に当てれば入るのに。チームメートがしんどい思いをしてパスをしたのに、おまえが下手だとチームワークはガタガタだよと。もっと練習して得点することがチームワークだと話をした。技術は僕が勉強するのではなく子供が勉強すること。だから大人は精神的なものを教える」
――プロとしての考え方はいかがですか?
「僕の父親はサラリーマンで事務系。だから僕はプロ意識はなかったかも知れないが、子供たちにプロの考え方を植えつけることは出来たと思う。例えば給料のうち生活費は半分で十分だとする。余った半分は貯金でしょう? 僕はそれを全部使い切れと言います。そのおカネが大金だと思うとそれ以上のおカネは稼がなくなる。チマチマするな。自然と貯まるようになって初めてプロだ。そういう感覚はプロとして持っておかないといけない」
――高木さんはプロになれと積極的に勧められたのですか?
「高校に進学するときの高校選びの時とかに家族会議を開いた。高校サッカーもあるし(Jリーグの)ユースもある。サッカーをやめることも留学する道もある。それぞれのいい面、悪い面をいろいろ説明して自分で選びなさいと。選択肢は広くしてあげないとね。別にプロにならなくてもいいと言ってました。大人になってやりたいことが見つかれば別なことをやればいい」
――それでも結局、プロに進みましたね。
「長男は最初だから、どこの高校に行くか、このまま契約してプロに行くか、相当悩んだ。サッカーの早慶戦を見に行ったりしていた」
――最後は子どもに決めさせたのですね。
「プロになったからといって(親が)喜ぶわけではない。おまえの人生だし、自分の好きな道を選べと。この高校に行って大学に行かないと一流企業に行けないよ、と言って子供を追い込むことをしたくなかった。よく子供の教育のことで、麻布高から東大に行ってというのがよくありますよね。そういうのは教育ではないんです。でないと決定することができない子になる。何でも親に聞いてくるようなね」
――髪の毛の色ひとつも子供に決めさせるそうですね。
「次男が小学校4年のとき、髪の毛を染めたいと言ってきた。いいよと言った。試合になるとなぜか自分のファウルでないのにファウルにされる。大人を見たら(髪を染めている)おまえの方は悪い子に見えるし、髪の毛の色で人は判断しがちだ。身なりで損をしてはおまえが損だよと教えた。やらせてみないとわからないことってあるでしょう。世の中で難しいことは決定すること。決定の作業は責任を伴うから大変だけれどもとても大切なこと。その決定する力を小さい時から植えつけたかった」
――サッカー評論家の風間(八宏)氏と親交が深いと聞きました。
「ええ。息子のことも気に掛けてくれていたので、昔、息子が点が取れないんですよねえと話したら、『それは(親が)点を取れとか言ってるからですよ。子供は親が見に来てくれたらうれしいし、親の顔を見てプレーするようになる。だから言わない方がいいよ』とアドバイスをもらった」
――風間氏から技術面も教えてもらったのですか?
「僕が中心になってサッカーチームの保護者らとチームをつくったんです。風間さんもチームにいたので教えてもらいました。親が子供と同じポジションを守るのですが、これが難しくてね。ボールが1個ずれただけでボールが蹴れないわけだから。それからは何であそこで蹴れなかったんだ、と息子たちに言うのをやめました」 (つづく)
▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。
~日刊ゲンダイ 2011年8月6日付掲載~
2011年8月11日木曜日
【日本サッカーを世界のものさしで測る】(05) アメリカでサッカーの常識を覆された
広山望の所属するUSL(ユナイテッドサッカーリーグ=独立リーグ)には、他国にはない試合運営方法がある。「試合中に5人の選手が交代可能」「時に2日連続の試合を行う」「シーズンは半年」――。こうしたリーグ方式に最初、広山も戸惑った。「先発と合わせて最大16人の選手を使えるのでどんどん人が代わる。こんなに交代してもいいのかな、なんて思っていると最後に代わった選手が得点を入れて試合を決めたりする。面白いですよ」。選手交代枠5人は、連戦を乗り切るための方策である。
移動にも工夫を凝らす。ワシントンの南150キロにあるリッチモンドからフロリダまで移動する場合、選手は専用バスに乗って十数時間かけて移動する。そのバスにはベッドがあり、ぐっすり眠ることができる「バスは、大げさにいうとホテルみたいに大きいんです。前の方ではサッカーの試合映像が流れているし、移動中に選手同士のコミュニケーションもとれる。確かにバスで移動すれば経費も削減できるし、快適なので選手も肉体的、精神的にも楽になる。ボクは15年ぐらいプロでやってきていますが、アメリカは、いい意味で常識を覆してくれる。こういう経験が今のボクには必要だったのかな、と思ってます」
USLでは、下部組織の育成に力を入れているのも特徴だ。「アカデミー」と呼ばれる16歳以下と18歳以下のチームは全国リーグに参戦中だ。他にも4歳以下のチームから子どものレベルに合わせて多くのチームが組織されている。広山たちプロの契約選手は、こうした育成組織で指導を任されることもある。他クラブと比べ、リッチモンドには女子選手の数が多い。休日のピッチにはスポンサー企業のテントが立ち、親子連れも集まってくる。スクールや下部組織を含めたサッカーが《産業》としてアメリカに根付きつつあるのだ。
その一方で日本はといえば――。Jリーグが発足してもうすぐ20年になる。ドイツのスポーツクラブを参考に組織をつくり、どんどんチームを増やしていった。プロリーグを定着させた功績については評価できるが、クラブ増でレベルダウンを招き、選手は安い給料にあえいでいる。日本経済の地盤沈下とともにスポンサー企業は減り、子どもたちはサッカーに対して夢を抱けなくなっている。日本サッカーは、既成概念を捨てて新たな発想に取り組む時期にきている。そのヒントは、サッカー先進国・欧州のモデルケースにとらわれることなく、柔軟な発想でリーグを運営するアメリカにもある気がするのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太) =おわり
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~
移動にも工夫を凝らす。ワシントンの南150キロにあるリッチモンドからフロリダまで移動する場合、選手は専用バスに乗って十数時間かけて移動する。そのバスにはベッドがあり、ぐっすり眠ることができる「バスは、大げさにいうとホテルみたいに大きいんです。前の方ではサッカーの試合映像が流れているし、移動中に選手同士のコミュニケーションもとれる。確かにバスで移動すれば経費も削減できるし、快適なので選手も肉体的、精神的にも楽になる。ボクは15年ぐらいプロでやってきていますが、アメリカは、いい意味で常識を覆してくれる。こういう経験が今のボクには必要だったのかな、と思ってます」
USLでは、下部組織の育成に力を入れているのも特徴だ。「アカデミー」と呼ばれる16歳以下と18歳以下のチームは全国リーグに参戦中だ。他にも4歳以下のチームから子どものレベルに合わせて多くのチームが組織されている。広山たちプロの契約選手は、こうした育成組織で指導を任されることもある。他クラブと比べ、リッチモンドには女子選手の数が多い。休日のピッチにはスポンサー企業のテントが立ち、親子連れも集まってくる。スクールや下部組織を含めたサッカーが《産業》としてアメリカに根付きつつあるのだ。
その一方で日本はといえば――。Jリーグが発足してもうすぐ20年になる。ドイツのスポーツクラブを参考に組織をつくり、どんどんチームを増やしていった。プロリーグを定着させた功績については評価できるが、クラブ増でレベルダウンを招き、選手は安い給料にあえいでいる。日本経済の地盤沈下とともにスポンサー企業は減り、子どもたちはサッカーに対して夢を抱けなくなっている。日本サッカーは、既成概念を捨てて新たな発想に取り組む時期にきている。そのヒントは、サッカー先進国・欧州のモデルケースにとらわれることなく、柔軟な発想でリーグを運営するアメリカにもある気がするのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太) =おわり
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~
【日本サッカーを世界のものさしで測る】(04) アメリカ独立リーグは選手が大人だ
6月のキリンカップに来日したペルー代表のことを某テレビ局は「格下」と表現していた。コパ・アメリカ(南米選手権)が好例だ。開催国アルゼンチンがボリビアに続いてコロンビアと引き分け、ブラジルは初戦でベネズエラとドローに終わった。南米には楽に勝てる国なんてない。一部のサッカー中継のアナウンサーや解説者は聞くに堪えないし、日本のスポーツメディアの常識と世界の常識は、いまだに大きくズレている。
ペルー同様、日本で軽んじられている国のひとつにアメリカがある。アメリカは、野球やアメフトなど4大メジャースポーツのイメージが強いが、近年、サッカーも飛躍的に力をつけてきている。W杯には6大会連続で出場し、02年はベスト8に、10年にはベスト16に入っている。
アメリカには元イングランド代表MFベッカムや、元フランス代表FWアンリがプレーしているMLS(メジャーリーグサッカー)というプロリーグがある。広山望がプレーするリッチモンド・キッカーズは、下部組織に相当するUSL(独立リーグ)に所属している。MLSとUSLの交流は盛んで選手の移籍も多い。先日、リッチモンドはUSオープンカップでMLSのコロンバス・クルーに勝利した。そのレベルは決して低くない。
「(リッチモンドの)チーム戦術を比べたら、J1のクラブには劣ると思います。ただ、個人のフィジカル、個人技は非常に高いし、伸びしろもすごくあると思います」。リッチモンドにはブラジル人やドイツ人、あとウガンダやシエラレオネなどアフリカ諸国の代表級選手も所属している。彼らはアメリカの大学を経由してチームに加わっている。これはUSLの特徴である。
「他国リーグと比べると選手が人間としてしっかりしているし、何よりも大人という感じが一番しますね。(年俸が高くないので)サッカーだけやっていればいい――というわけにはいかないことも関係しているかも知れませんが。あくまでメーンはサッカーですが、USLには、社会といろいろなつながりを持っている選手が多いですね」。Jリーグの高卒選手はプロ入り後、数年で解雇される例が多い。かねて社会経験のない元Jリーガーのセカンドキャリアが問題になっているが、アメリカでは「大学を経由する」ことで解決しようとしている。
日本サッカーが、急速に力をつけたことは事実である。しかし、J2は経営が揺れているクラブもあるし、選手は低年俸に喘いでいる。選手の社会教育も十分とはいえない。“格下”アメリカから学ぶべき点はある。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月9日付掲載~
ペルー同様、日本で軽んじられている国のひとつにアメリカがある。アメリカは、野球やアメフトなど4大メジャースポーツのイメージが強いが、近年、サッカーも飛躍的に力をつけてきている。W杯には6大会連続で出場し、02年はベスト8に、10年にはベスト16に入っている。
アメリカには元イングランド代表MFベッカムや、元フランス代表FWアンリがプレーしているMLS(メジャーリーグサッカー)というプロリーグがある。広山望がプレーするリッチモンド・キッカーズは、下部組織に相当するUSL(独立リーグ)に所属している。MLSとUSLの交流は盛んで選手の移籍も多い。先日、リッチモンドはUSオープンカップでMLSのコロンバス・クルーに勝利した。そのレベルは決して低くない。
「(リッチモンドの)チーム戦術を比べたら、J1のクラブには劣ると思います。ただ、個人のフィジカル、個人技は非常に高いし、伸びしろもすごくあると思います」。リッチモンドにはブラジル人やドイツ人、あとウガンダやシエラレオネなどアフリカ諸国の代表級選手も所属している。彼らはアメリカの大学を経由してチームに加わっている。これはUSLの特徴である。
「他国リーグと比べると選手が人間としてしっかりしているし、何よりも大人という感じが一番しますね。(年俸が高くないので)サッカーだけやっていればいい――というわけにはいかないことも関係しているかも知れませんが。あくまでメーンはサッカーですが、USLには、社会といろいろなつながりを持っている選手が多いですね」。Jリーグの高卒選手はプロ入り後、数年で解雇される例が多い。かねて社会経験のない元Jリーガーのセカンドキャリアが問題になっているが、アメリカでは「大学を経由する」ことで解決しようとしている。
日本サッカーが、急速に力をつけたことは事実である。しかし、J2は経営が揺れているクラブもあるし、選手は低年俸に喘いでいる。選手の社会教育も十分とはいえない。“格下”アメリカから学ぶべき点はある。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月9日付掲載~
【日本サッカーを世界のものさしで測る】(03) プレーに先入観を持たれ、それが自分を縛ってしまう
広山望がアメリカ行きを考えたのは、昨年11月のことだった。所属していたJ2草津から「契約延長を行わない」と通告されたからである。10年シーズン、背番号10の広山は38試合中29試合に出場していた。「試合に多く出ているとか、出ていないとか、契約とは関係ないんじゃないですか? チームとして何らかの刺激を与えるために、こうした通告はあるかもしれないという予感はありました」。広山はこう冷静に振り返るが、実に厳しい現実である。この時、彼は33歳になっていた。明らかに年齢によって断行された“リストラ”だった。
選手の節制、栄養学の進化、フィジカルトレーニングの効率化などにより、世界的に選手寿命は伸びている。日本代表監督だったジーコは、マスコミに対して「30歳以上の選手を安易にベテランと呼ばないでくれ」と頼んだことがあった。にもかかわらず、日本では選手を年齢で区切ることが少なくない。
08年シーズン末、東京Vが2度目のJ2降格の憂き目にあい、チーム予算を減らすために自動的に「高額年俸」と「30歳以上」の選手と契約しなかったことがあった。選手の価値を測るにはピッチ内外で多くの変数が存在する。経験や頭脳で加齢によって衰える瞬発力は、それなりに補うことができる。クラブの経営側が、選手の価値を目利きすることができないから、手軽に年齢で区切ろうとするのだ。
草津を離れることになった広山は、知人を介してアメリカのサッカー関係者に自分のプレーを集めたDVDを渡してもらった。その中で練習参加に招待されたのが、独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズだった。アメリカでの3日間の練習参加の後、1人だけ幹部に呼ばれて契約したいと言われた。「Jリーグで何年もやっていると、自分のプレーイメージに先入観を持たれてしまう。また、そのイメージを耳にすることで自分自身が縛られてしまうこともある。それに対して、アメリカ人に思ってもいなかったプレーを褒められると、選手として生き返ったような感覚がしましたね」
日本には、有望な若手選手が多く生まれてきている。そんな若手が、経験値の高い選手と一緒にプレーすれば学ぶことはゴマンとある。日本のサッカー界は、広山に限った話ではなく、有為な人材を数多く無駄にしていると思う。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月8日付掲載~
選手の節制、栄養学の進化、フィジカルトレーニングの効率化などにより、世界的に選手寿命は伸びている。日本代表監督だったジーコは、マスコミに対して「30歳以上の選手を安易にベテランと呼ばないでくれ」と頼んだことがあった。にもかかわらず、日本では選手を年齢で区切ることが少なくない。
08年シーズン末、東京Vが2度目のJ2降格の憂き目にあい、チーム予算を減らすために自動的に「高額年俸」と「30歳以上」の選手と契約しなかったことがあった。選手の価値を測るにはピッチ内外で多くの変数が存在する。経験や頭脳で加齢によって衰える瞬発力は、それなりに補うことができる。クラブの経営側が、選手の価値を目利きすることができないから、手軽に年齢で区切ろうとするのだ。
草津を離れることになった広山は、知人を介してアメリカのサッカー関係者に自分のプレーを集めたDVDを渡してもらった。その中で練習参加に招待されたのが、独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズだった。アメリカでの3日間の練習参加の後、1人だけ幹部に呼ばれて契約したいと言われた。「Jリーグで何年もやっていると、自分のプレーイメージに先入観を持たれてしまう。また、そのイメージを耳にすることで自分自身が縛られてしまうこともある。それに対して、アメリカ人に思ってもいなかったプレーを褒められると、選手として生き返ったような感覚がしましたね」
日本には、有望な若手選手が多く生まれてきている。そんな若手が、経験値の高い選手と一緒にプレーすれば学ぶことはゴマンとある。日本のサッカー界は、広山に限った話ではなく、有為な人材を数多く無駄にしていると思う。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月8日付掲載~
【日本サッカーを世界のものさしで測る】(02) 欧州では本田圭はどうしても取りたい選手ではない
広山望は、早くから将来を嘱望される選手だった。20歳以下の日本代表として97年世界ユース選手権でベスト8入りしている。この時のメンバーには中村俊、柳沢、宮本恒らがいた。広山は背番号8をつけていた。
若手選手は、ちょっとしたことがきっかけでサッカー人生が変わる。広山がC大阪でプレーしていた時代、ユースチーム所属の柿谷曜一朗が、トップの練習の参加していた。「あの年代では抜群にうまかったですよ。でも、C大阪ではうまくいかなかった。うまい選手が、そのまま代表などに駆け上がっていくわけではないのです。もちろん柿谷も徳島(J2)で頑張っているので、また挽回するかもしれませんけど」。06年に16歳でプロになり、07年U-17W杯に出場した柿谷は、09年シーズン途中で徳島に出された。
柿谷をはじき飛ばしたのは、1学年上で07年にレギュラーを獲得した香川真司である。後に独ドルトムントで大活躍する香川と広山は、C大阪では“入れ違い”だった。「ボクがC大阪を離れた翌06年、香川が入団してきた。その頃から凄い選手だったけど正直、あそこまで行くとは思っていなかった。いいチームに行きましたね」。広山は、ポルトガルとフランスではチームの方向性とかみ合わず、なかなか出場機会に恵まれなかった。助っ人外国人選手がチームに馴染むかどうか、それには監督や選手たちの受け入れようとする度量の広さが関わってくる。それがドルトムントにはあった。
さらに広山は、自身の経験から国外のクラブでは、突出した“何か”が必要になる、と言う。「たとえば本田圭は非常にいい選手だし、チームを前に進める力があります。欧州のトップチームでも十分に通用すると思います。ただ、どうしても本田を取りたいか、というと話は別、本田圭のようなバランスの取れた選手は世界中にいる。やはり機動力のある香川やインテルの長友の方が、欧州では評価されやすいと思います」。もちろん、本田圭にも強力な武器はある。「何よりも魅力はあのフリーキックです。彼が蹴れば得点の可能性は高まるし、アシストも増えていく。欲しいチームは多くあると思いますよ」
日本サッカー界は、往々にしてバランスの取れた選手を育成することに目が向きがちである。しかし、世界で認められるのはそうではない――。広山自身、サッカー選手としては線が細い。それでも欧米各国から評価されたのは、サイドでのスピーディーなドリブルだった。突出した個性があれば、世界で光ることは出来るのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月6日付掲載~
若手選手は、ちょっとしたことがきっかけでサッカー人生が変わる。広山がC大阪でプレーしていた時代、ユースチーム所属の柿谷曜一朗が、トップの練習の参加していた。「あの年代では抜群にうまかったですよ。でも、C大阪ではうまくいかなかった。うまい選手が、そのまま代表などに駆け上がっていくわけではないのです。もちろん柿谷も徳島(J2)で頑張っているので、また挽回するかもしれませんけど」。06年に16歳でプロになり、07年U-17W杯に出場した柿谷は、09年シーズン途中で徳島に出された。
柿谷をはじき飛ばしたのは、1学年上で07年にレギュラーを獲得した香川真司である。後に独ドルトムントで大活躍する香川と広山は、C大阪では“入れ違い”だった。「ボクがC大阪を離れた翌06年、香川が入団してきた。その頃から凄い選手だったけど正直、あそこまで行くとは思っていなかった。いいチームに行きましたね」。広山は、ポルトガルとフランスではチームの方向性とかみ合わず、なかなか出場機会に恵まれなかった。助っ人外国人選手がチームに馴染むかどうか、それには監督や選手たちの受け入れようとする度量の広さが関わってくる。それがドルトムントにはあった。
さらに広山は、自身の経験から国外のクラブでは、突出した“何か”が必要になる、と言う。「たとえば本田圭は非常にいい選手だし、チームを前に進める力があります。欧州のトップチームでも十分に通用すると思います。ただ、どうしても本田を取りたいか、というと話は別、本田圭のようなバランスの取れた選手は世界中にいる。やはり機動力のある香川やインテルの長友の方が、欧州では評価されやすいと思います」。もちろん、本田圭にも強力な武器はある。「何よりも魅力はあのフリーキックです。彼が蹴れば得点の可能性は高まるし、アシストも増えていく。欲しいチームは多くあると思いますよ」
日本サッカー界は、往々にしてバランスの取れた選手を育成することに目が向きがちである。しかし、世界で認められるのはそうではない――。広山自身、サッカー選手としては線が細い。それでも欧米各国から評価されたのは、サイドでのスピーディーなドリブルだった。突出した個性があれば、世界で光ることは出来るのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月6日付掲載~
2011年8月6日土曜日
【日本サッカーを世界のものさしで測る】(01) 長友が海外で成功すると誰が思ったか
日本、パラグアイ、ブラジル、ポルトガル、フランス、そしてアメリカ――。今年4月、元日本代表MFの広山望は、海外5ヵ国目となるアメリカの独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズに移籍した。34歳の広山はこれまで欧州と南米、両大陸の1部リーグでプレーしている。同じ経験をしているのは三浦和(横浜FC)や高原直泰(清水)ら数少ない選手だけである。
広山の経歴には「日本人初」という冠が多い。パラグアイのセロ・ポルテーニョ時代、日本人として初めて南米クラブ王者決定戦・リベルタドーレス杯に出場した。ポルトガルとフランスでは、両国とも1部リーグでプレーした最初の日本人選手だった。今でこそ、多くの日本人選手が当たり前のように欧州でプレーしているが、そうした礎を築いた日本人プレーヤーのひとりなのである。
広山は、2001年にパラグアイでプレーするようになった時から、ずっと日本と国外との「評価の違い」を感じていた。そのいい例が、世界でも有数のビッグクラブのインテルに所属する長友である――と指摘する。「長友のような選手が認められ、成功したことは本当に良かった。しかしながら、彼がイタリアに行く前、Jリーグでプレーする若手の中で誰が海外で通用するか?と意見を求めたとしたら、多分、名前は挙がらなかったと思います。そういう選手が日本とは違った評価を受け、日本人の思っていた以上のレベルのクラブにまで行った」
つまり広山の言いたいことはこうなのだ。日本のメディアを含めたサッカー関係者は、技術が高くて一見、華麗なプレーをする選手を軽々しく“天才”と褒め称える。そして“天才”と呼ばれた選手の多くが大成せず、ツブれてきた。一方、長友のように基本に忠実で正確なプレーが持ち味の選手は、日本では軽んじられる傾向があった。日本のメディアや関係者の多くは、長友の力を見極めた上での評価ではなく、超名門クラブのインテルに移籍したからこそ、こぞって持ち上げているだけなのだ。
「(16~18歳の)ユース年代の選手も、それまで年代別の日本代表に入っていなくても、自分に自信があれば、どんどん海外に行けばいいと思います。長友の例で分かるように、日本国内での評価は、あまりアテにならない。それに振り回されなくてもいいと思います」。広山は、これまで元アルゼンチン代表FWリケルメ、元ブラジル代表MFジュニーニョ・ペルナンブカーノといった本物の天才と対戦してきた。本物の天才は、うまいだけではない。例外なく「強さ」を持っている。その部分も、日本人はいまだに目をつぶりがちである。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月5日付掲載~
広山の経歴には「日本人初」という冠が多い。パラグアイのセロ・ポルテーニョ時代、日本人として初めて南米クラブ王者決定戦・リベルタドーレス杯に出場した。ポルトガルとフランスでは、両国とも1部リーグでプレーした最初の日本人選手だった。今でこそ、多くの日本人選手が当たり前のように欧州でプレーしているが、そうした礎を築いた日本人プレーヤーのひとりなのである。
広山は、2001年にパラグアイでプレーするようになった時から、ずっと日本と国外との「評価の違い」を感じていた。そのいい例が、世界でも有数のビッグクラブのインテルに所属する長友である――と指摘する。「長友のような選手が認められ、成功したことは本当に良かった。しかしながら、彼がイタリアに行く前、Jリーグでプレーする若手の中で誰が海外で通用するか?と意見を求めたとしたら、多分、名前は挙がらなかったと思います。そういう選手が日本とは違った評価を受け、日本人の思っていた以上のレベルのクラブにまで行った」
つまり広山の言いたいことはこうなのだ。日本のメディアを含めたサッカー関係者は、技術が高くて一見、華麗なプレーをする選手を軽々しく“天才”と褒め称える。そして“天才”と呼ばれた選手の多くが大成せず、ツブれてきた。一方、長友のように基本に忠実で正確なプレーが持ち味の選手は、日本では軽んじられる傾向があった。日本のメディアや関係者の多くは、長友の力を見極めた上での評価ではなく、超名門クラブのインテルに移籍したからこそ、こぞって持ち上げているだけなのだ。
「(16~18歳の)ユース年代の選手も、それまで年代別の日本代表に入っていなくても、自分に自信があれば、どんどん海外に行けばいいと思います。長友の例で分かるように、日本国内での評価は、あまりアテにならない。それに振り回されなくてもいいと思います」。広山は、これまで元アルゼンチン代表FWリケルメ、元ブラジル代表MFジュニーニョ・ペルナンブカーノといった本物の天才と対戦してきた。本物の天才は、うまいだけではない。例外なく「強さ」を持っている。その部分も、日本人はいまだに目をつぶりがちである。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)
ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。
~日刊ゲンダイ 2011年7月5日付掲載~
2011年7月9日土曜日
【特別寄稿】「なでしこジャパン」に2つの重大不安 鈴木良平・初代日本女子代表監督
女子W杯準々決勝で日本代表が開催国ドイツと対戦する(日本時間10日午前3時半開始)。1次リーグ2勝1敗の女子代表は「持ち味」を発揮できないまま、これから強豪ばかりと戦う。
彼女たちの持ち味とは「速いパスワークでボールを回して相手ゴールに迫る」。しかし、1次リーグ1試合目のニュージーランド戦では、相手の肉弾戦に真っ向から勝負して大苦戦。3戦目は対戦したイングランドと同じ戦法、ロングボール合戦を挑んで0-2の敗戦となった。持ち味を出そうとするのではなく、相手に合わせた戦い方に終始したからなのだ。
原因はハッキリしている。フォーメーションに問題がある。女子代表の布陣は、「2トップを置いて両サイドにFW大野とMF宮間をワイドに配置」「守備的MFに沢と阪口」となっている。2トップと守備的MFの間に大きなスペースが生まれ、速いパスワークでボールを回そうにも選手同士の距離が開き過ぎ、効果的なパス回しができないでいる。たとえば、2トップを「1トップとトップ下」にすれば両サイド、守備的MFとの距離感も格段に良くなる。トップ下はFW川澄やMF岩渕でもいいし、サイドから宮間を持っていってもいい。
佐々木監督の選手交代にも疑問がある。イングランド戦の後半30分、守備的MFの阪口をベンチに戻した。目を疑ってしまった。この日の阪口はボール奪取、キープ、パス、位置取りなど完璧な出来栄えだった。MF岩渕と代えるべきは沢だった。イングランド相手に何もできず、ミスも目立った沢をなぜ交代させないのか? 佐々木監督が「大黒柱の沢は何があってもフル出場させる」と思い込んでいるとするならば――。そうでないことを祈るばかりだ。 (ドイツサッカー協会公認S級コーチ)
~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~
彼女たちの持ち味とは「速いパスワークでボールを回して相手ゴールに迫る」。しかし、1次リーグ1試合目のニュージーランド戦では、相手の肉弾戦に真っ向から勝負して大苦戦。3戦目は対戦したイングランドと同じ戦法、ロングボール合戦を挑んで0-2の敗戦となった。持ち味を出そうとするのではなく、相手に合わせた戦い方に終始したからなのだ。
原因はハッキリしている。フォーメーションに問題がある。女子代表の布陣は、「2トップを置いて両サイドにFW大野とMF宮間をワイドに配置」「守備的MFに沢と阪口」となっている。2トップと守備的MFの間に大きなスペースが生まれ、速いパスワークでボールを回そうにも選手同士の距離が開き過ぎ、効果的なパス回しができないでいる。たとえば、2トップを「1トップとトップ下」にすれば両サイド、守備的MFとの距離感も格段に良くなる。トップ下はFW川澄やMF岩渕でもいいし、サイドから宮間を持っていってもいい。
佐々木監督の選手交代にも疑問がある。イングランド戦の後半30分、守備的MFの阪口をベンチに戻した。目を疑ってしまった。この日の阪口はボール奪取、キープ、パス、位置取りなど完璧な出来栄えだった。MF岩渕と代えるべきは沢だった。イングランド相手に何もできず、ミスも目立った沢をなぜ交代させないのか? 佐々木監督が「大黒柱の沢は何があってもフル出場させる」と思い込んでいるとするならば――。そうでないことを祈るばかりだ。 (ドイツサッカー協会公認S級コーチ)
~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~
2011年7月8日金曜日
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(14) カズさんは僕の名前を知らなかった(笑)
プロ4年目の2000年にトルシエ監督からシドニー五輪代表に呼ばれ、日本代表にも召集されました。当時の日本代表にはカズさん(三浦和良、横浜FC)やゴンさん(中山雅史、札幌)といったスター選手が名を連ねていました。
こんなエピソードがあります。ボール回しの練習中に選手は「パスを回す相手の名前を呼ぶ」のがトルシエ流でした。皆が名前を呼び合う中、カズさんはボクにパスを出す時に「キーパー!」と声を出していました。本人に確認したわけではないのですが、多分、ボクの名前を知らなかったのではないでしょうか(笑)。
01年6月、ブラジル戦で代表デビューを果たしました。ジーコ監督と岡田監督からも代表に呼ばれました。しかし、02年日韓、06年ドイツ、昨年の10年南ア大会とW杯とは無縁でした。
●干されて逃したW杯出場
09年、浦和はフィンケ監督体制になりました。この年、ボクは23試合に出場しましたが、勝ち試合の次の試合の先発から外されたり、理不尽な扱いを受けました。フィンケは「選手に影響力がある」「自己主張をする選手」を排除する傾向にありました。09年オフに名古屋に移籍した闘莉王やボクは、どうも目障りな存在だったようです。
10年シーズンは完全に干され、試合に出られないボクは、当然のことながら6月に開幕した南アW杯メンバーから外れました。当時、岡田監督から「浦和で試合に出られないものなのか?」と何度か言われました。W杯本大会直前に第1GKのナラさん(楢崎正剛、名古屋)に代わって第2GKのエイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)が正GKに抜擢されました。
フィンケが成績不振を理由に09年限りで浦和を辞め、10年もボクが浦和の正GKとしてプレーし、そして第2GKとして日本代表の一員だったとしたら……。南アW杯期間中にボクは出場機会を求めて湘南に期限付きで移籍しました。1シーズン終了後に現役を引退することになりました。
第二の人生をどう送るのか? ボクは政治の道を志しました。全国的な傾向ですが、埼玉でも20~40歳台の投票率が非常に低く、政治に無関心な人が少なくありません。ボクという人間を通して政治に関心を持っていただきたい。サッカー選手としてボクを育ててくれた地元・埼玉に恩返しをしたい。そういう思いから4月の統一地方選・埼玉県議選に出馬しました。次点でしたが、ボクの名前を書いてくれた9704人の期待、熱くサポートしてくれた協力者の熱意を一時も忘れてはいけない。そう思っています。ご愛読ありがとうございました。 (おわり)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年7月2日付掲載~
こんなエピソードがあります。ボール回しの練習中に選手は「パスを回す相手の名前を呼ぶ」のがトルシエ流でした。皆が名前を呼び合う中、カズさんはボクにパスを出す時に「キーパー!」と声を出していました。本人に確認したわけではないのですが、多分、ボクの名前を知らなかったのではないでしょうか(笑)。
01年6月、ブラジル戦で代表デビューを果たしました。ジーコ監督と岡田監督からも代表に呼ばれました。しかし、02年日韓、06年ドイツ、昨年の10年南ア大会とW杯とは無縁でした。
●干されて逃したW杯出場
09年、浦和はフィンケ監督体制になりました。この年、ボクは23試合に出場しましたが、勝ち試合の次の試合の先発から外されたり、理不尽な扱いを受けました。フィンケは「選手に影響力がある」「自己主張をする選手」を排除する傾向にありました。09年オフに名古屋に移籍した闘莉王やボクは、どうも目障りな存在だったようです。
10年シーズンは完全に干され、試合に出られないボクは、当然のことながら6月に開幕した南アW杯メンバーから外れました。当時、岡田監督から「浦和で試合に出られないものなのか?」と何度か言われました。W杯本大会直前に第1GKのナラさん(楢崎正剛、名古屋)に代わって第2GKのエイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)が正GKに抜擢されました。
フィンケが成績不振を理由に09年限りで浦和を辞め、10年もボクが浦和の正GKとしてプレーし、そして第2GKとして日本代表の一員だったとしたら……。南アW杯期間中にボクは出場機会を求めて湘南に期限付きで移籍しました。1シーズン終了後に現役を引退することになりました。
第二の人生をどう送るのか? ボクは政治の道を志しました。全国的な傾向ですが、埼玉でも20~40歳台の投票率が非常に低く、政治に無関心な人が少なくありません。ボクという人間を通して政治に関心を持っていただきたい。サッカー選手としてボクを育ててくれた地元・埼玉に恩返しをしたい。そういう思いから4月の統一地方選・埼玉県議選に出馬しました。次点でしたが、ボクの名前を書いてくれた9704人の期待、熱くサポートしてくれた協力者の熱意を一時も忘れてはいけない。そう思っています。ご愛読ありがとうございました。 (おわり)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年7月2日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(13) 「おまえはバカか!」…小嶺先生に怒鳴られたPK事件
中学から高校に進む際、地元の大先輩ナラさん(楢崎正剛=名古屋)が2年生に在学していた奈良育英高に行くつもりでした。ある日、サッカー部の顧問からいきなり「小嶺先生が今日、おまえの自宅を訪問される」と言われました。
「小嶺先生って……あの国見高の小嶺先生!?」 ひとりでいらっしゃった小嶺先生は、両親と酒を飲みながら「国見高は公立。半年前には住民票を移さないと」「今のうちに国見中に転校するという手もある」など話が進んでいきます。ボクは「あれっ? 国見高に行くことに決まったの?」と、キツネにつままれた状態でしたが、悪い気はしませんでした。サッカー名門高の有名監督から直々に誘われたわけですからね。
そうそう、小嶺先生は「来年からウチは坊主(頭)じゃない」と言ってました。長崎に着いて最初にやったことは……やはりバリカンで丸坊主にされてしまいました(笑)。サッカー部は寮生活でした。練習が終わっても気の休まる時間はありません。
1年生は「ご飯3杯ルール」にも苦しめられました。「朝、昼、晩と全部員がご飯を最低3杯ずつ食べる」のがサッカー部の掟。3年生は茶碗で、2年生は丼で、そして1年生はラーメン丼で3杯、必ず食べさせられました。一度、父母会から「毎食ラーメン丼3杯は食わせ過ぎ」と抗議が来ました。「食わせない」ならいざ知らず、食わせ過ぎで文句を言われても「小嶺監督も立つ瀬ないよなぁ~」とボクはクビをかしげたものです。
高校サッカー界の名伯楽、小嶺先生は「データ収集力&解析力」にもたけていました。3年生で出場した高校サッカー選手権2回戦、丸岡高戦は0-0からPK合戦にもつれました。小嶺先生から「相手がPKを蹴る前にオレを見ろ」という指示が出ました。ベンチ前の小嶺先生が「右手を上」に上げるとボールは右上隅に、「左手を下」にするとボールは左下隅に飛んできました。
方向も高さもドンピシャ。3本連続でPKを止めたボクが、勝利の立役者として記者に囲まれました。「すべて小嶺先生の指示通り。完璧でした」。後で大声でどやしつけられました。「おまえはバカか! 種明かしをしたら、次から指示が出せないじゃないかっ!」。3回戦の静岡学園戦もPK合戦。5-6で敗れて準決勝に進めませんでした。実は静学戦でボクはPKのキッカーも務めたのですが、モノの見事に外してしまいました。
高校選手権の思い出はPKを止めても怒られ、外してはガッカリしたことに尽きます。あそこで勝っていたら、憧れの国立競技場に行けたのですから――。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年7月1日付掲載~
「小嶺先生って……あの国見高の小嶺先生!?」 ひとりでいらっしゃった小嶺先生は、両親と酒を飲みながら「国見高は公立。半年前には住民票を移さないと」「今のうちに国見中に転校するという手もある」など話が進んでいきます。ボクは「あれっ? 国見高に行くことに決まったの?」と、キツネにつままれた状態でしたが、悪い気はしませんでした。サッカー名門高の有名監督から直々に誘われたわけですからね。
そうそう、小嶺先生は「来年からウチは坊主(頭)じゃない」と言ってました。長崎に着いて最初にやったことは……やはりバリカンで丸坊主にされてしまいました(笑)。サッカー部は寮生活でした。練習が終わっても気の休まる時間はありません。
1年生は「ご飯3杯ルール」にも苦しめられました。「朝、昼、晩と全部員がご飯を最低3杯ずつ食べる」のがサッカー部の掟。3年生は茶碗で、2年生は丼で、そして1年生はラーメン丼で3杯、必ず食べさせられました。一度、父母会から「毎食ラーメン丼3杯は食わせ過ぎ」と抗議が来ました。「食わせない」ならいざ知らず、食わせ過ぎで文句を言われても「小嶺監督も立つ瀬ないよなぁ~」とボクはクビをかしげたものです。
高校サッカー界の名伯楽、小嶺先生は「データ収集力&解析力」にもたけていました。3年生で出場した高校サッカー選手権2回戦、丸岡高戦は0-0からPK合戦にもつれました。小嶺先生から「相手がPKを蹴る前にオレを見ろ」という指示が出ました。ベンチ前の小嶺先生が「右手を上」に上げるとボールは右上隅に、「左手を下」にするとボールは左下隅に飛んできました。
方向も高さもドンピシャ。3本連続でPKを止めたボクが、勝利の立役者として記者に囲まれました。「すべて小嶺先生の指示通り。完璧でした」。後で大声でどやしつけられました。「おまえはバカか! 種明かしをしたら、次から指示が出せないじゃないかっ!」。3回戦の静岡学園戦もPK合戦。5-6で敗れて準決勝に進めませんでした。実は静学戦でボクはPKのキッカーも務めたのですが、モノの見事に外してしまいました。
高校選手権の思い出はPKを止めても怒られ、外してはガッカリしたことに尽きます。あそこで勝っていたら、憧れの国立競技場に行けたのですから――。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年7月1日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(12) 長友・本田・岡崎…日本代表の若かりし頃
今をときめくインテル所属の長友(佑都)だけど……アイツがFC東京でプレーした頃、実は良く知らなかったんだ。「知らなかった」は語弊があるかな(笑)。ユウトがどんな選手だったのか、「ほとんど印象に残らなかった」という言い方が正確です。理由のひとつに、FC東京には相性が良くて、負けた記憶が1試合ほどしかなく、当然、攻め立てられることも少ない。そうなると左SBの長友が何度も何度もオーバーラップし、ゴールマウスに立ちはだかるボクを慌てさせた……なんて場面は記憶にありません!
長友は人懐っこいヤツだし、よくしゃべるし、とにかく朗らかなムードメーカー。そんな長友が日本代表のレギュラーに定着し、イタリアに渡るとインテルに引き抜かれ、それでも堂々のプレーを見せています。なかなか感慨深いモノがあります。
●しゃべりたくないタイプのはずが…
南アフリカW杯ベスト16入りの立役者のひとり、本田(圭佑)と面識がなかった頃、正直に言って「あまりしゃべりたいとは思わないタイプ」でした。唯我独尊的プレーばかり。年長者にもズバズバとモノを言う。オレ様体質――。そんな風評を耳にしていたからです。
日本代表の合宿で初めて会った時、本田が話し掛けてきました。「都築さん、覚えてないと思いますが、自分がG大阪のジュニアユース時代(99年~01年)、トップチームで練習中の都築さんをよく見ていました」。ボクは97年にG大阪入りし、00年は19試合、01年には29試合に出場しましたし、中学生時代の本田からは“雲の上の人”に見えたのかも知れませんね。いずれにしても噂(?)と違って本田は礼儀正しくて、いいヤツだったし、評価ポイントがアップしたのは言うまでもありません(笑)。
南アW杯予選で活躍した岡崎(慎司)も、最初は「記憶に残らなかった」選手のひとりでした。06年元日の天皇杯決勝戦は浦和と清水の顔合わせ。岡崎にとってプロ入り後、初の公式戦出場だったし、相当に気合が入っていたみたいです。「天皇杯の決勝に先発フル出場しましたが、ゴール前に都築さんがデンと構えて何も出来ませんでした。1-2で負けました。悔しかったです」。日本代表合宿で会った時、ニコニコしながら話し掛けてきた岡崎にボクは「えっ? あの試合に出てた?」とひと言。もちろんワザと冷たく言い放ったのですが、さすがの岡崎も顔が引きつっていましたね(笑)。
3人とも86年生まれでボクの8学年下。年の離れた弟みたいな感覚だけど、日本サッカーのイメージアップのために頑張って欲しいね。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月30日付掲載~
長友は人懐っこいヤツだし、よくしゃべるし、とにかく朗らかなムードメーカー。そんな長友が日本代表のレギュラーに定着し、イタリアに渡るとインテルに引き抜かれ、それでも堂々のプレーを見せています。なかなか感慨深いモノがあります。
●しゃべりたくないタイプのはずが…
南アフリカW杯ベスト16入りの立役者のひとり、本田(圭佑)と面識がなかった頃、正直に言って「あまりしゃべりたいとは思わないタイプ」でした。唯我独尊的プレーばかり。年長者にもズバズバとモノを言う。オレ様体質――。そんな風評を耳にしていたからです。
日本代表の合宿で初めて会った時、本田が話し掛けてきました。「都築さん、覚えてないと思いますが、自分がG大阪のジュニアユース時代(99年~01年)、トップチームで練習中の都築さんをよく見ていました」。ボクは97年にG大阪入りし、00年は19試合、01年には29試合に出場しましたし、中学生時代の本田からは“雲の上の人”に見えたのかも知れませんね。いずれにしても噂(?)と違って本田は礼儀正しくて、いいヤツだったし、評価ポイントがアップしたのは言うまでもありません(笑)。
南アW杯予選で活躍した岡崎(慎司)も、最初は「記憶に残らなかった」選手のひとりでした。06年元日の天皇杯決勝戦は浦和と清水の顔合わせ。岡崎にとってプロ入り後、初の公式戦出場だったし、相当に気合が入っていたみたいです。「天皇杯の決勝に先発フル出場しましたが、ゴール前に都築さんがデンと構えて何も出来ませんでした。1-2で負けました。悔しかったです」。日本代表合宿で会った時、ニコニコしながら話し掛けてきた岡崎にボクは「えっ? あの試合に出てた?」とひと言。もちろんワザと冷たく言い放ったのですが、さすがの岡崎も顔が引きつっていましたね(笑)。
3人とも86年生まれでボクの8学年下。年の離れた弟みたいな感覚だけど、日本サッカーのイメージアップのために頑張って欲しいね。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月30日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(11) 闘莉王の「飲んでるから来てよ」攻撃には参った
浦和で一緒にプレーしたFWワシントンが先ごろ、現役引退を表明したみたいですね。06年はリーグ得点王の活躍でリーグ初優勝に貢献し、07年にはACL優勝と世界クラブW杯3位の原動力でした。そのオフに退団することになったが、周囲には「せいせいした」という声も少なくありませんでした。守備意識が希薄な選手だったのでチームメートから「相手ボールの時はサボってばかりじゃないか!」と反感を買うことが多かったからです。
ある時、チームで一番寡黙なヤマさん(山田暢久)が「もっと守備をしないか!」とワシントンを怒鳴ったことがありました。ボクを含めて選手全員が「おおっ! ヤマさんが大声を出した!」と仰天しました(笑)。でも、ワシントンのいない08年、選手の思いは「残って欲しかったなぁ~」に変わりました。やはりFWは店を取ってナンボ。守備で手を抜こうが、ここぞという場面でゴールを決められる選手がチームには必要です。そのことが身に染みたというわけです。
闘莉王(名古屋)が浦和にいた頃、「いつものところで飲んでるからね。早く来てよ!」という電話をよくかけてきました(笑)。ボクが浦和入りした翌04年、闘莉王が入団してきました。アイツにとって浦和での1試合目、アウェイの広島戦でした。闘莉王の背中を見ながら「凄い! 何でも出来るDFって本当にいるんだ!」と大きな衝撃を受けたものです。足元の技術が高く、ヘディングも強い。当たり負けもしないし、読みも鋭い。攻撃参加も効果的だし、シュート力もある。でも、大きな欠点がありました。攻め上がると前線に居座ることがあり、持ち場であるDFの中央が空いてしまい、ピンチになることがあったのです。
ボクと闘莉王は、練習でも試合でも「早く戻ってこい!」「すぐには戻れない!」「だったら上がるなよ!」と怒鳴り合うこともしばしばでした。09年にフィンケ監督が就任後、酒を酌み交わすようになりました。さいたま市内の焼き鳥屋から闘莉王が「待ってるからね!」と電話をかけてくる。「もう夜も遅いし、行かへん」と電話を切っても「まだ?」とすぐにかかってくる。「行かへんって!」ときっぱり断っても、30分ほど経つと「まだ?」。根負けして焼き鳥屋に行くと朝まで付き合ったことも何度か……(笑)。
アイツは先輩後輩の関係をわきまえ、自然体で他人を敬うことの出来るヤツです。だからといって堅苦しいわけではないし、こちらからヘンに気を使われることもない。一緒にいて心地良い気持ちにさせられる選手だった。中位以下に埋もれている浦和を見ると「闘莉王がいたらなぁ~」と思わずにはいられません。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月29日付掲載~
ある時、チームで一番寡黙なヤマさん(山田暢久)が「もっと守備をしないか!」とワシントンを怒鳴ったことがありました。ボクを含めて選手全員が「おおっ! ヤマさんが大声を出した!」と仰天しました(笑)。でも、ワシントンのいない08年、選手の思いは「残って欲しかったなぁ~」に変わりました。やはりFWは店を取ってナンボ。守備で手を抜こうが、ここぞという場面でゴールを決められる選手がチームには必要です。そのことが身に染みたというわけです。
闘莉王(名古屋)が浦和にいた頃、「いつものところで飲んでるからね。早く来てよ!」という電話をよくかけてきました(笑)。ボクが浦和入りした翌04年、闘莉王が入団してきました。アイツにとって浦和での1試合目、アウェイの広島戦でした。闘莉王の背中を見ながら「凄い! 何でも出来るDFって本当にいるんだ!」と大きな衝撃を受けたものです。足元の技術が高く、ヘディングも強い。当たり負けもしないし、読みも鋭い。攻撃参加も効果的だし、シュート力もある。でも、大きな欠点がありました。攻め上がると前線に居座ることがあり、持ち場であるDFの中央が空いてしまい、ピンチになることがあったのです。
ボクと闘莉王は、練習でも試合でも「早く戻ってこい!」「すぐには戻れない!」「だったら上がるなよ!」と怒鳴り合うこともしばしばでした。09年にフィンケ監督が就任後、酒を酌み交わすようになりました。さいたま市内の焼き鳥屋から闘莉王が「待ってるからね!」と電話をかけてくる。「もう夜も遅いし、行かへん」と電話を切っても「まだ?」とすぐにかかってくる。「行かへんって!」ときっぱり断っても、30分ほど経つと「まだ?」。根負けして焼き鳥屋に行くと朝まで付き合ったことも何度か……(笑)。
アイツは先輩後輩の関係をわきまえ、自然体で他人を敬うことの出来るヤツです。だからといって堅苦しいわけではないし、こちらからヘンに気を使われることもない。一緒にいて心地良い気持ちにさせられる選手だった。中位以下に埋もれている浦和を見ると「闘莉王がいたらなぁ~」と思わずにはいられません。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月29日付掲載~
2011年7月6日水曜日
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(10) 監督もいろいろ…「選手目線」あり「上から目線」あり
すべての監督が人間的にも指揮官としても素晴らしかった――とは言い切れません。それではキレイ事になってしまいます。
浦和に移籍した翌04年にギド・ブッフバルトが監督に就任しました。ボクを含めて選手は、彼のことを親しみを込めてギドと呼んでいました。ギドが際立っていたのは「人心掌握術のうまさ」です。あの頃の浦和にはアクの強い選手が多く、彼らを気持ち良くプレーさせることで「チーム全体の強さに結びつける」ことにたけていました。
気配り上手の監督でもありました。浦和が初めてJリーグを制した06年。ボクは靭帯断裂などケガに見舞われ、試合に出られないことが多かったんです。シーズンも終盤に差し掛かった30節の横浜M戦はギシ(山岸範宏)が体調を崩し、ボクが先発しました。4月の第10節以来の先発でしたが、試合は1-0の完封勝利。納得のいくパフォーマンスを披露できました。
次節の名古屋戦の前日、ボクはギドに呼ばれました。「オマエさんの(横浜M戦の)プレーは本当に素晴らしかった。次もオマエさんを使いたい。しかし(これまで出場機会の多い)ヤマギシを使いたいという気持ちもある。オレは悩んでいる」と言われたんです。ボクはこう返答しました。「自分は(たとえベンチでも)ちゃんと練習するし、チームに悪影響を及ぼすようなことはしない。とにかく、チームが優勝するためのベストを選択して欲しい」
06年シーズンはギシが24試合に出場。ボクは11試合でした。正直に言ってリーグ優勝は「うれしさ半分」。全試合に出場してチームに貢献し、その上でリーグ初制覇の美酒に酔いしれたかった! でも、ギドはこの年の天皇杯にボクを重用してくれ、07年元日に行われたG大阪戦との決勝戦に勝って天皇杯優勝の喜びをピッチ上で味わうことができました。振り返ると満足のいくシーズンでした。
07年はギドに代わってオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰しました。ベテラン選手から「とても厳しい監督だった。ボールに腰掛けただけで怒鳴られた」と聞かされました。実際に厳格な監督でしたね。ギドが「選手目線」だとするとオジェックは「上から目線」でした。反発する選手もいました。
ところが07年6月に開催されたA3(日本、韓国、中国の各リーグ優勝クラブによる東アジアクラブ王者決定戦)で3位に終わった途端、いきなり対話路線に急転換でした。戸惑う選手もいましたが、ボク自身はオジェックを評価しています。勝利のために何をすべきか? 07年のACLを制して年末に開催されたクラブW杯で3位に食い込めたのも、自分を押し殺して方向転換を決断したオジェックの功績が大きかったと思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月28日付掲載~
浦和に移籍した翌04年にギド・ブッフバルトが監督に就任しました。ボクを含めて選手は、彼のことを親しみを込めてギドと呼んでいました。ギドが際立っていたのは「人心掌握術のうまさ」です。あの頃の浦和にはアクの強い選手が多く、彼らを気持ち良くプレーさせることで「チーム全体の強さに結びつける」ことにたけていました。
気配り上手の監督でもありました。浦和が初めてJリーグを制した06年。ボクは靭帯断裂などケガに見舞われ、試合に出られないことが多かったんです。シーズンも終盤に差し掛かった30節の横浜M戦はギシ(山岸範宏)が体調を崩し、ボクが先発しました。4月の第10節以来の先発でしたが、試合は1-0の完封勝利。納得のいくパフォーマンスを披露できました。
次節の名古屋戦の前日、ボクはギドに呼ばれました。「オマエさんの(横浜M戦の)プレーは本当に素晴らしかった。次もオマエさんを使いたい。しかし(これまで出場機会の多い)ヤマギシを使いたいという気持ちもある。オレは悩んでいる」と言われたんです。ボクはこう返答しました。「自分は(たとえベンチでも)ちゃんと練習するし、チームに悪影響を及ぼすようなことはしない。とにかく、チームが優勝するためのベストを選択して欲しい」
06年シーズンはギシが24試合に出場。ボクは11試合でした。正直に言ってリーグ優勝は「うれしさ半分」。全試合に出場してチームに貢献し、その上でリーグ初制覇の美酒に酔いしれたかった! でも、ギドはこの年の天皇杯にボクを重用してくれ、07年元日に行われたG大阪戦との決勝戦に勝って天皇杯優勝の喜びをピッチ上で味わうことができました。振り返ると満足のいくシーズンでした。
07年はギドに代わってオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰しました。ベテラン選手から「とても厳しい監督だった。ボールに腰掛けただけで怒鳴られた」と聞かされました。実際に厳格な監督でしたね。ギドが「選手目線」だとするとオジェックは「上から目線」でした。反発する選手もいました。
ところが07年6月に開催されたA3(日本、韓国、中国の各リーグ優勝クラブによる東アジアクラブ王者決定戦)で3位に終わった途端、いきなり対話路線に急転換でした。戸惑う選手もいましたが、ボク自身はオジェックを評価しています。勝利のために何をすべきか? 07年のACLを制して年末に開催されたクラブW杯で3位に食い込めたのも、自分を押し殺して方向転換を決断したオジェックの功績が大きかったと思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月28日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(09) 「街でおいしいモン食ってこい。領収書を持ってこい」
ちょうど1年前になりますね。日本代表が南アW杯でベスト16入りの快挙を達成しました。W杯本大会前にチームの調子が上がらず、岡田武史監督は批判の矢面に立たされました。本番直前にGKをナラさん(楢崎正剛、名古屋)からエイジ(川島永嗣、リールス=ベルギー)に代えました。さらにボール支配率を高めて攻守の切り替えを素早く行う戦法から「まずは専守防衛。1トップに置いた本田圭を中心に前線の3人が攻撃する」に転換しました。
大がかりなチーム改造でした。岡田監督は、W杯で勝ち進むために自説を曲げてまで戦術変更を行いました。でも、選手は素直に受け入れて短時間でモノにし、きっちりと結果を残しました。それもこれも「岡田監督がチームをまとめあげていた」からでしょう。チーム内に「和」がなければ、あのタイミングでのチーム改造は、マイナスに作用する危険性をはらんでいました。しかし、岡田日本はプラスに作用し、さらに結束力を高めていってレベルアップした感があります。
岡田監督をひと言で言えば「オープンな人」でしょうか? 時に日本人指導者から“閉鎖的な部分”を感じることがありました。監督と選手には「適切な距離感」が大事ですが、ことさらに“隔たり”をつくってしまい、意思の疎通が円滑に図れない状況に陥ることがあります。そのあたりも岡田監督は上手でした。
●岡田監督は「安いな」とひと言
09年1月20日、熊本市で11年アジアカップ予選イエメン戦があったのですが、試合後に岡田監督が「街でおいしいモンを食べてこい。店の領収書を持ってこい。後で(お金を)返すから」と言ってくれました。なかなか粋な計らいでした。4、5人のグループに分かれて熊本市内の飲食店街に繰り出し、名物の馬刺しやからしれんこんを食べ、食事の後は飲み屋に。一緒に出掛けたメンバーの中で最年長のボクが両方の支払いを済ませ、2枚の領収書を持ってホテルに帰りました。
食事分の領収書だけを差し出しました。岡田監督は「飲み代の方が高くついた」ことを知っていたはずです。でも、そのことにはあえて触れず、ただ「安いな」と言っただけでした。岡田監督とボクの間には《あうんの呼吸》がありました。
国見高の後輩に当たるヨシト(大久保嘉人、神戸)、浦和時代にチームメートだった闘莉王(名古屋)といった個性的な選手と仲が良かったボクは「選手同士を取りまとめる」役目も任されていたと思います。戦力以外の部分でもチームの役に立ちたい。そう思わせる力が、岡田監督には備わっていたと思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月24日付掲載~
大がかりなチーム改造でした。岡田監督は、W杯で勝ち進むために自説を曲げてまで戦術変更を行いました。でも、選手は素直に受け入れて短時間でモノにし、きっちりと結果を残しました。それもこれも「岡田監督がチームをまとめあげていた」からでしょう。チーム内に「和」がなければ、あのタイミングでのチーム改造は、マイナスに作用する危険性をはらんでいました。しかし、岡田日本はプラスに作用し、さらに結束力を高めていってレベルアップした感があります。
岡田監督をひと言で言えば「オープンな人」でしょうか? 時に日本人指導者から“閉鎖的な部分”を感じることがありました。監督と選手には「適切な距離感」が大事ですが、ことさらに“隔たり”をつくってしまい、意思の疎通が円滑に図れない状況に陥ることがあります。そのあたりも岡田監督は上手でした。
●岡田監督は「安いな」とひと言
09年1月20日、熊本市で11年アジアカップ予選イエメン戦があったのですが、試合後に岡田監督が「街でおいしいモンを食べてこい。店の領収書を持ってこい。後で(お金を)返すから」と言ってくれました。なかなか粋な計らいでした。4、5人のグループに分かれて熊本市内の飲食店街に繰り出し、名物の馬刺しやからしれんこんを食べ、食事の後は飲み屋に。一緒に出掛けたメンバーの中で最年長のボクが両方の支払いを済ませ、2枚の領収書を持ってホテルに帰りました。
食事分の領収書だけを差し出しました。岡田監督は「飲み代の方が高くついた」ことを知っていたはずです。でも、そのことにはあえて触れず、ただ「安いな」と言っただけでした。岡田監督とボクの間には《あうんの呼吸》がありました。
国見高の後輩に当たるヨシト(大久保嘉人、神戸)、浦和時代にチームメートだった闘莉王(名古屋)といった個性的な選手と仲が良かったボクは「選手同士を取りまとめる」役目も任されていたと思います。戦力以外の部分でもチームの役に立ちたい。そう思わせる力が、岡田監督には備わっていたと思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月24日付掲載~
2011年7月1日金曜日
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(08) 週刊誌に「キャバクラ騒動」を書かれたのにはまいった
4日に鹿島で行われた東日本大震災復興支援イベントで「顔も見たくない人」に会いました。ジーコにだけは会いたくなかったのです!
前任者トルシエに続いてジーコ監督も代表に呼んでくれました。後半途中から出場したマレーシア代表戦(鹿島、04年2月7日)の翌々日のことです。代表合宿で缶詰め状態の選手、スタッフのリフレッシュを兼ねて鹿嶋市内の焼き肉屋で食事会がありました。飲み足りなかった選手8人で寿司屋に向かいました。顔ぶれは久保竜彦、小笠原満男、奥大介、大久保嘉人、山田暢久、茂庭照幸、山田卓也。あいにく休業日だったので近くの別の店に入りました。《無断外出してキャバクラ店に入り、女の子の胸をわしづかみ、デブなどと暴言を吐いたり、出前で取った寿司を他の客に投げつけたり、パンツを脱いだ選手もいた》 某週刊誌にこんな形で報じられました。
●飲み直そうと入っただけなのに
何でも禁止、禁止のトルシエと違って、ジーコは「試合、練習以外は束縛せず」でした。外出禁止令も皆無でした。この時も規則を破ったのではなく、ただ単に飲み直そうと思って入ったのがキャバクラだったのです。皆の格好もジャージー姿だったし、寿司にしても寿司屋の大将が「来てくれたのに申し訳ない」とわざわざ届けてくれたもの。ちゃんとおいしくいただきました。確かに賑やかに飲み食いしましたが、週刊誌報道のような立ち居振る舞いはしていません。
ただし――。3日後の12日にイラク戦が、18日にはドイツW杯予選のオマーン戦が控えていました。時期が時期だけに非難されても当然だったと思います。何よりも日本代表を応援してくれるサポーターに「心配をかけました」を改めて頭を下げたいと思います。
この一件は、3月1日に発売された週刊誌に報じられ、8選手は「当分は代表に召集しない」ことになりました。でも、イラク戦には5選手が出場。続くオマーン戦には3選手が出場して、ロスタイムには(久保)タツさんが劇的ゴール。1-0で勝利しました。主軸として期待を寄せていた選手を外さざるを得なかったジーコ監督の胸中は、いかばかりだったのでしょうか。
フィールドの何選手かは04年のうちに代表に復帰し、ボクは06年2月の米国遠征(米国戦)、キリンカップ(フィンランド戦、静岡)、ドイツ遠征(ボスニア・ヘルツェゴビナ戦)でベンチ入りしました。しかし、出場機会は訪れず、同年6月のドイツW杯メンバーにも入れませんでした。ジーコに対して「すいませんでした」「もっと呼んで欲しかった」。いろいろな感情が交錯して「会いたくない」と思ったのでした。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月23日付掲載~
前任者トルシエに続いてジーコ監督も代表に呼んでくれました。後半途中から出場したマレーシア代表戦(鹿島、04年2月7日)の翌々日のことです。代表合宿で缶詰め状態の選手、スタッフのリフレッシュを兼ねて鹿嶋市内の焼き肉屋で食事会がありました。飲み足りなかった選手8人で寿司屋に向かいました。顔ぶれは久保竜彦、小笠原満男、奥大介、大久保嘉人、山田暢久、茂庭照幸、山田卓也。あいにく休業日だったので近くの別の店に入りました。《無断外出してキャバクラ店に入り、女の子の胸をわしづかみ、デブなどと暴言を吐いたり、出前で取った寿司を他の客に投げつけたり、パンツを脱いだ選手もいた》 某週刊誌にこんな形で報じられました。
●飲み直そうと入っただけなのに
何でも禁止、禁止のトルシエと違って、ジーコは「試合、練習以外は束縛せず」でした。外出禁止令も皆無でした。この時も規則を破ったのではなく、ただ単に飲み直そうと思って入ったのがキャバクラだったのです。皆の格好もジャージー姿だったし、寿司にしても寿司屋の大将が「来てくれたのに申し訳ない」とわざわざ届けてくれたもの。ちゃんとおいしくいただきました。確かに賑やかに飲み食いしましたが、週刊誌報道のような立ち居振る舞いはしていません。
ただし――。3日後の12日にイラク戦が、18日にはドイツW杯予選のオマーン戦が控えていました。時期が時期だけに非難されても当然だったと思います。何よりも日本代表を応援してくれるサポーターに「心配をかけました」を改めて頭を下げたいと思います。
この一件は、3月1日に発売された週刊誌に報じられ、8選手は「当分は代表に召集しない」ことになりました。でも、イラク戦には5選手が出場。続くオマーン戦には3選手が出場して、ロスタイムには(久保)タツさんが劇的ゴール。1-0で勝利しました。主軸として期待を寄せていた選手を外さざるを得なかったジーコ監督の胸中は、いかばかりだったのでしょうか。
フィールドの何選手かは04年のうちに代表に復帰し、ボクは06年2月の米国遠征(米国戦)、キリンカップ(フィンランド戦、静岡)、ドイツ遠征(ボスニア・ヘルツェゴビナ戦)でベンチ入りしました。しかし、出場機会は訪れず、同年6月のドイツW杯メンバーにも入れませんでした。ジーコに対して「すいませんでした」「もっと呼んで欲しかった」。いろいろな感情が交錯して「会いたくない」と思ったのでした。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月23日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(07) 「どうして2人はしゃべらないんですか?」 楢崎、川口の両先輩に突っ込んだ
日本代表正GK争いは、90年代半ばから「双璧」の時代でした。98年フランス、06年ドイツW杯はヨシカツさん(川口能活、磐田)がレギュラーでした。02年の日韓W杯はナラさん(楢崎正剛、名古屋)が、ベスト16入りの立役者のひとりとなりました。ボクは00年にトルシエ監督から初めて招集されて以来、ジーコ監督、岡田監督にも代表に呼ばれました。しかし、2強の牙城を崩すことはかなわず、最終的に代表歴は6試合にとどまりました。
同県人のナラさんのプレーを初めて見たのが中学1年生の時。ボクはすでに身長が180センチありましたが、坊主頭でスーパーセーブを連発するナラさんは自分よりひと回り大きく見え、こんな上手なGKがいるんだ!と驚かされたものです。どんな人?と聞かれるたびに「ナラさんは普通にいい人ですよ」と答えます。年上だからといってエラソーにすることはないし、ピッチ内外では感情的に振る舞うこともないし、とても穏やかで優しい先輩です。
ヨシカツさんはタイプが違いますね。若い頃は試合中にミスをした先輩をどやしつけたり、負けるとGKグローブを放り投げたり、感情をダイレクトに表現すると聞かされていました。でも、ボクが代表に呼ばれるようになった頃のヨシカツさんは、まるで別人でした。ただ、ヨシカツさんの周辺から漏れ伝わった「ライバル心が強過ぎてGK同士あまり口をきかない」という噂は……ウソではなかったと思います。
ヨシカツさん、ナラさんと3人だった時に聞いてみました。ボクはそういうことをサラッと聞けるタイプなんです。「どうして2人はしゃべらないんですか? 話したくないんですか?」 2人ともニコニコ笑っています。さらにツッコミを入れてみました。「黙っていると気まずくなりませんか?」 それでも2人はニコニコしていました。ぶしつけなことを後輩のボクが言えたのも、ナラさんとは長い付き合いで気心が知れているし、ヨシカツさんも後輩が言い過ぎても大目に見てくれる大人だったから。ボクもその辺の“空気”をちゃんと把握した上でのツッコミなのです(笑)。
南アW杯の前年(09年)はヨシカツさんの故障もあって、代表GKはナラさん、ボク、エイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)の3人が呼ばれることが多かった。9月のオランダ遠征ではエイジがオランダ戦(0-3)に出場し、ボクはガーナ戦(4-3)に出ました。01年6月に日本代表にデビューしましたが、02年、06年、10年W杯とは無縁でした。ヨシカツさん、ナラさんにあってボクに足りなかったものは何か? ミスしても「次もお前に任せる」という信頼を得られなかった理由は何か? 現役を引退した今となっては永遠に分からないことかも知れません……。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月22日付掲載~
同県人のナラさんのプレーを初めて見たのが中学1年生の時。ボクはすでに身長が180センチありましたが、坊主頭でスーパーセーブを連発するナラさんは自分よりひと回り大きく見え、こんな上手なGKがいるんだ!と驚かされたものです。どんな人?と聞かれるたびに「ナラさんは普通にいい人ですよ」と答えます。年上だからといってエラソーにすることはないし、ピッチ内外では感情的に振る舞うこともないし、とても穏やかで優しい先輩です。
ヨシカツさんはタイプが違いますね。若い頃は試合中にミスをした先輩をどやしつけたり、負けるとGKグローブを放り投げたり、感情をダイレクトに表現すると聞かされていました。でも、ボクが代表に呼ばれるようになった頃のヨシカツさんは、まるで別人でした。ただ、ヨシカツさんの周辺から漏れ伝わった「ライバル心が強過ぎてGK同士あまり口をきかない」という噂は……ウソではなかったと思います。
ヨシカツさん、ナラさんと3人だった時に聞いてみました。ボクはそういうことをサラッと聞けるタイプなんです。「どうして2人はしゃべらないんですか? 話したくないんですか?」 2人ともニコニコ笑っています。さらにツッコミを入れてみました。「黙っていると気まずくなりませんか?」 それでも2人はニコニコしていました。ぶしつけなことを後輩のボクが言えたのも、ナラさんとは長い付き合いで気心が知れているし、ヨシカツさんも後輩が言い過ぎても大目に見てくれる大人だったから。ボクもその辺の“空気”をちゃんと把握した上でのツッコミなのです(笑)。
南アW杯の前年(09年)はヨシカツさんの故障もあって、代表GKはナラさん、ボク、エイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)の3人が呼ばれることが多かった。9月のオランダ遠征ではエイジがオランダ戦(0-3)に出場し、ボクはガーナ戦(4-3)に出ました。01年6月に日本代表にデビューしましたが、02年、06年、10年W杯とは無縁でした。ヨシカツさん、ナラさんにあってボクに足りなかったものは何か? ミスしても「次もお前に任せる」という信頼を得られなかった理由は何か? 現役を引退した今となっては永遠に分からないことかも知れません……。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月22日付掲載~
2011年6月30日木曜日
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(06) 突然、トルシエ監督の両手ビンタが飛んできた
いきなり力任せに両頬を挟み込むようにバチーン!と強烈なビンタを食らわせた監督がいました。試合中にそんなコトをする監督は……そうです。トルシエです。
00年シドニー五輪本大会での出来事でした。そもそも五輪メンバーに入れるとは思ってもみませんでした。代表合宿には何度も呼ばれたのですが、一度もプレーする機会がなかったからです。なのにボクが代表メンバーに名を連ね、1学年下で五輪候補常連のソガ(曽ケ端準=鹿島)はサブ要員に回り、本大会期間中はスタンドで試合観戦でした。
トルシエはA代表でも「えっ、意外な選手を呼ぶな」と思うことがありましたが、何てことはない、ボク自身も「意外な人選」と周囲は驚いたでしょう(笑)。もっとも正GKは2学年上で奈良県の先輩、ナラさん(楢崎正剛=名古屋)で決まりでした。五輪代表には「23歳以下」の年齢制限があり、3人だけ制限なしのオーバーエージ(OA)枠が設けられていました。OA枠として代表入りしたナラさんがケガでもしない限り、ボクに出番は回ってこないというわけです。
32年ぶりに決勝トーナメントに進出。準々決勝の米国戦の後半30分過ぎのことでした。ナラさんとユージ(DF中沢佑二=横浜M)が激突し、ナラさんは左目の上から出血をしています。ドクターが「×印」を出しています。アップ中のボクはベンチに戻され、ユニホームに着替えました。緊張しないタイプですが、急展開にビビっているように見えたのでしょう。いきなりでした。トルシエが両手を広げたと思ったら、強烈なビンタを食らいました。トルシエ流「目を覚ませ!」だったのでしょう。
確かに目は覚めました(笑)。しかし――。ナラさんは治療を受けて戦列に復帰。試合はPK戦にもつれました。4番手のヒデさん(中田英寿)が失敗。日本はベスト8で涙をのみました。試合後、病院に直行したナラさんは頭蓋骨骨折で全治1ヵ月の診断が下りました。本当は即交代の大ケガだったのです。米国に勝っていれば準決勝の相手はスペインでした。ナラさんの術後の経過が良いことにホッとしつつ、「ナラさんに代わってプレーし、勝ち上がってスペインと戦いたかった」が本音だったことを白状します。
トルシエはシドニー五輪の後、日本代表に呼んでくれるようになりました。当時、3学年上のヨシカツさん(川口能活)とナラさんが代表正GKの座を争っていました。2人の強烈なライバル心を目の当たりにしながら、ボクは「どうして一緒にいて会話を交わさないのですか?」と聞いてみました。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月21日付掲載~
00年シドニー五輪本大会での出来事でした。そもそも五輪メンバーに入れるとは思ってもみませんでした。代表合宿には何度も呼ばれたのですが、一度もプレーする機会がなかったからです。なのにボクが代表メンバーに名を連ね、1学年下で五輪候補常連のソガ(曽ケ端準=鹿島)はサブ要員に回り、本大会期間中はスタンドで試合観戦でした。
トルシエはA代表でも「えっ、意外な選手を呼ぶな」と思うことがありましたが、何てことはない、ボク自身も「意外な人選」と周囲は驚いたでしょう(笑)。もっとも正GKは2学年上で奈良県の先輩、ナラさん(楢崎正剛=名古屋)で決まりでした。五輪代表には「23歳以下」の年齢制限があり、3人だけ制限なしのオーバーエージ(OA)枠が設けられていました。OA枠として代表入りしたナラさんがケガでもしない限り、ボクに出番は回ってこないというわけです。
32年ぶりに決勝トーナメントに進出。準々決勝の米国戦の後半30分過ぎのことでした。ナラさんとユージ(DF中沢佑二=横浜M)が激突し、ナラさんは左目の上から出血をしています。ドクターが「×印」を出しています。アップ中のボクはベンチに戻され、ユニホームに着替えました。緊張しないタイプですが、急展開にビビっているように見えたのでしょう。いきなりでした。トルシエが両手を広げたと思ったら、強烈なビンタを食らいました。トルシエ流「目を覚ませ!」だったのでしょう。
確かに目は覚めました(笑)。しかし――。ナラさんは治療を受けて戦列に復帰。試合はPK戦にもつれました。4番手のヒデさん(中田英寿)が失敗。日本はベスト8で涙をのみました。試合後、病院に直行したナラさんは頭蓋骨骨折で全治1ヵ月の診断が下りました。本当は即交代の大ケガだったのです。米国に勝っていれば準決勝の相手はスペインでした。ナラさんの術後の経過が良いことにホッとしつつ、「ナラさんに代わってプレーし、勝ち上がってスペインと戦いたかった」が本音だったことを白状します。
トルシエはシドニー五輪の後、日本代表に呼んでくれるようになりました。当時、3学年上のヨシカツさん(川口能活)とナラさんが代表正GKの座を争っていました。2人の強烈なライバル心を目の当たりにしながら、ボクは「どうして一緒にいて会話を交わさないのですか?」と聞いてみました。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月21日付掲載~
2011年6月28日火曜日
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(05) 大ゲンカしたトルシエ監督は変人だった
初めて日本代表に召集してくれたトルシエ監督は……あえて断言します。彼は変人です!
2002年日韓W杯の前年にコンフェデ杯がありました。予選B組の日本は初戦のカナダ戦(3-0)、2戦目カメルーン戦(2-0)と先発したヨシカツ(川口能活)さんが無得点に抑え、3戦目のブラジル戦に引き分け以上で準決勝の相手は予選A組2位のオーストラリアとなり、負けるとA組1位のフランスが待ち構えることになる。大一番となったブラジル戦はヨシカツさんがベンチに下がり、正GKを争っているナラ(楢崎正剛)さんが出場。
3番手GKで代表歴ゼロのボクに出番が回ってくることはない――。ボクを含めてチーム全員が、そう考えていたと思います。しかも、ボクはブラジル戦の前日、練習中にトルシエと大ゲンカをやらかしていました。なのでブラジル戦に出るとか出ないとか、それ以前の問題でチームから追い出されてもおかしくない状況だったのです。
トルシエは「GK専用の練習」を重視しないタイプでした。フィールドの選手と同じようなメニューをやらせる傾向が強かった。たとえばGKコーチが左右中央からいろいろな種類のシュートを放ち、必死になってセービングするとか、そういった時間が短かった。練習量が少なく、いつも消化不良気味。どうせ試合に出るチャンスもないだろうし……。気が緩んでいたのかも知れません。
●「ナニ言うてんねん!」
トルシエが通訳を介して「ツヅキ! 集中しているのか!」と言ってきました。ついカチンとしてしまいました。「ナニ言うてんねん! ロクにGK練習もしてないのに動けるかっ! もっと練習させろ!」 トルシエは日本語が分かりません。勢いに任せて通訳にも「おい! ちゃんと訳せよ! 分かったな!」と毒づく始末。もうシッチャカメッチャカです(笑)。ところが、ボクは追い出されることもなく、その翌日には「ブラジル戦に先発させる」と言い渡されてビックリ仰天でした。
トルシエは選手を好き嫌いとか、肌が合うとか合わないとか、そういったことではなくてチームに必要かどうかで評価する監督でした。懐が深く、個人的には好きなタイプの指導者です。それにしても――。負けられないブラジル戦にボロカスに言ってきた代表歴のないGKを先発させるなんて、やはりトルシエは変人としか言いようがないですね(笑)。
ブラジル戦の結果ですか? きっちり抑えて0-0のドロー。ちゃんと役目を果たしました。準決勝のオーストラリア戦はヒデさん(中田英寿)が決勝点を決め、決勝のフランス戦は0-1で敗れましたが、98年W杯王者を最後まで苦しめました。2試合ともフル出場はヨシカツさん。う~ん、2試合とも出たかった! (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月18日付掲載~
2002年日韓W杯の前年にコンフェデ杯がありました。予選B組の日本は初戦のカナダ戦(3-0)、2戦目カメルーン戦(2-0)と先発したヨシカツ(川口能活)さんが無得点に抑え、3戦目のブラジル戦に引き分け以上で準決勝の相手は予選A組2位のオーストラリアとなり、負けるとA組1位のフランスが待ち構えることになる。大一番となったブラジル戦はヨシカツさんがベンチに下がり、正GKを争っているナラ(楢崎正剛)さんが出場。
3番手GKで代表歴ゼロのボクに出番が回ってくることはない――。ボクを含めてチーム全員が、そう考えていたと思います。しかも、ボクはブラジル戦の前日、練習中にトルシエと大ゲンカをやらかしていました。なのでブラジル戦に出るとか出ないとか、それ以前の問題でチームから追い出されてもおかしくない状況だったのです。
トルシエは「GK専用の練習」を重視しないタイプでした。フィールドの選手と同じようなメニューをやらせる傾向が強かった。たとえばGKコーチが左右中央からいろいろな種類のシュートを放ち、必死になってセービングするとか、そういった時間が短かった。練習量が少なく、いつも消化不良気味。どうせ試合に出るチャンスもないだろうし……。気が緩んでいたのかも知れません。
●「ナニ言うてんねん!」
トルシエが通訳を介して「ツヅキ! 集中しているのか!」と言ってきました。ついカチンとしてしまいました。「ナニ言うてんねん! ロクにGK練習もしてないのに動けるかっ! もっと練習させろ!」 トルシエは日本語が分かりません。勢いに任せて通訳にも「おい! ちゃんと訳せよ! 分かったな!」と毒づく始末。もうシッチャカメッチャカです(笑)。ところが、ボクは追い出されることもなく、その翌日には「ブラジル戦に先発させる」と言い渡されてビックリ仰天でした。
トルシエは選手を好き嫌いとか、肌が合うとか合わないとか、そういったことではなくてチームに必要かどうかで評価する監督でした。懐が深く、個人的には好きなタイプの指導者です。それにしても――。負けられないブラジル戦にボロカスに言ってきた代表歴のないGKを先発させるなんて、やはりトルシエは変人としか言いようがないですね(笑)。
ブラジル戦の結果ですか? きっちり抑えて0-0のドロー。ちゃんと役目を果たしました。準決勝のオーストラリア戦はヒデさん(中田英寿)が決勝点を決め、決勝のフランス戦は0-1で敗れましたが、98年W杯王者を最後まで苦しめました。2試合ともフル出場はヨシカツさん。う~ん、2試合とも出たかった! (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月18日付掲載~
【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(04) 全盛期の浦和はACミランにヒケを取らなかった
03年に移籍した浦和では、Jリーグや天皇杯のタイトル獲得はもちろんですが、07年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)を勝ち抜いてアジアクラブ王者になったことも、素晴らしい思い出として残っています。
ACLでは「アウェイの怖さ」を肌で感じました。浦和は1次リーグE組でケディリ(インドネシア)、シドニー(オーストラリア)、上海申花(中国)と対戦。E組最弱クラブと目されていたケディリと埼玉スタジアムで戦った試合は3-0でしたが、実力差は「10-0で勝ってもおかしくない」レベルでした。ところが、2ヵ月後に敵地で対戦したケディリは、まるで“別人”のようでした。とにかく強かった。選手一人一人がメッチャ頑張るし、うまくなった感じさえしました。3-3で引き分けましたが、負けてもおかしくありませんでした。言い訳にしか聞こえませんが、両サイドはグチャグチャなのにゴール前だけ固かったり、ピッチコンディションに苦しめられました。
移動も気苦労が絶えませんでした。首都ジャカルタに降り立ち、国内便に乗り換えて2時間の距離に相手本拠地はありました。その乗り換え便の航空会社Gは、その年の3月に国内便が着陸に失敗して機体が炎上。死傷者130人の大惨事を起こしているのです。皆が完全にビビってしまい、誰も離陸後に出された機内サービスのオレンジジュースに手を出そうとしません。ボクが「事故を起こした後だからこそ、G航空は世界で一番、安全に気を配っているはずだ」と言っても、ほとんどの選手は「墜落すれば全員が死亡……」と緊張していました。いろいろありましたが、本当に負けなくて良かった!
●カカ、セードルフで決勝点
決勝トーナメントでは、全北現代、城南一和の韓国勢相手に勝ち上がり、決勝では、イランのセパハンを2試合合計3-1で下し、アジアクラブ王者タイトルを獲得しました。07年12月、日本でFIFA世界クラブ選手権が開催され、準決勝でイタリアの名門ACミランと対戦しました。後半23分にMFカカに左サイドを破られ、ゴール前でフリーのMFセードルフに決勝ゴールを叩き込まれました。相手は世界有数のビッグクラブ。結果は順当です。でも、ボク自身は「先に1点を取ったら勝てる」と感じながらプレーしていました。
後でDVDで試合を見直したら、確かにトラップの正確性やパススピードの速さなど違いはありました。けれど、ゴールマウスを背に90分間、彼我の戦いぶりを集中してみている限り、はっきりとした実力差は感じなかったし、勝つチャンスは十分にありました。ボクは強かった浦和の一員として世界に挑戦できたことを今でも誇りに思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月17日付掲載~
ACLでは「アウェイの怖さ」を肌で感じました。浦和は1次リーグE組でケディリ(インドネシア)、シドニー(オーストラリア)、上海申花(中国)と対戦。E組最弱クラブと目されていたケディリと埼玉スタジアムで戦った試合は3-0でしたが、実力差は「10-0で勝ってもおかしくない」レベルでした。ところが、2ヵ月後に敵地で対戦したケディリは、まるで“別人”のようでした。とにかく強かった。選手一人一人がメッチャ頑張るし、うまくなった感じさえしました。3-3で引き分けましたが、負けてもおかしくありませんでした。言い訳にしか聞こえませんが、両サイドはグチャグチャなのにゴール前だけ固かったり、ピッチコンディションに苦しめられました。
移動も気苦労が絶えませんでした。首都ジャカルタに降り立ち、国内便に乗り換えて2時間の距離に相手本拠地はありました。その乗り換え便の航空会社Gは、その年の3月に国内便が着陸に失敗して機体が炎上。死傷者130人の大惨事を起こしているのです。皆が完全にビビってしまい、誰も離陸後に出された機内サービスのオレンジジュースに手を出そうとしません。ボクが「事故を起こした後だからこそ、G航空は世界で一番、安全に気を配っているはずだ」と言っても、ほとんどの選手は「墜落すれば全員が死亡……」と緊張していました。いろいろありましたが、本当に負けなくて良かった!
●カカ、セードルフで決勝点
決勝トーナメントでは、全北現代、城南一和の韓国勢相手に勝ち上がり、決勝では、イランのセパハンを2試合合計3-1で下し、アジアクラブ王者タイトルを獲得しました。07年12月、日本でFIFA世界クラブ選手権が開催され、準決勝でイタリアの名門ACミランと対戦しました。後半23分にMFカカに左サイドを破られ、ゴール前でフリーのMFセードルフに決勝ゴールを叩き込まれました。相手は世界有数のビッグクラブ。結果は順当です。でも、ボク自身は「先に1点を取ったら勝てる」と感じながらプレーしていました。
後でDVDで試合を見直したら、確かにトラップの正確性やパススピードの速さなど違いはありました。けれど、ゴールマウスを背に90分間、彼我の戦いぶりを集中してみている限り、はっきりとした実力差は感じなかったし、勝つチャンスは十分にありました。ボクは強かった浦和の一員として世界に挑戦できたことを今でも誇りに思います。 (つづく)
▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。
~日刊ゲンダイ 2011年6月17日付掲載~
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