2011年5月28日土曜日

2011年5月2日月曜日

【サッカー特別インタビュー】災害もサッカーも史実に関心を持って対処 サッカージャーナリスト・賀川浩

恐らく世界最年長の現役サッカージャーナリストは、積み重ねてきた見識の高さでつとに知られ、さらには阪神大水害(38年)、阪神・淡路大震災(95年)など「自然災害の猛威」を目の当たりにした人物でもある。大正13年に生をうけ、今なお精力的に健筆を振るう香川浩氏(86)の波乱万丈の半生をたどりながら、東日本大震災や日本サッカーの今昔、そして未来について聞いた。
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●7階建ての自宅マンションが6階建てに
――東日本大震災(3月11日)が起き、29日に復興支援チャリティーマッチが大阪・長居で行われました。こうしたサッカー界の取り組みについてどう思われますか?

「サッカーを含めたスポーツ選手は《恵まれた健康体》だからこそ出来るもの。体や心にハンディキャップを抱えている人、経済的に苦しんでいる人、今回のように大震災で被災した人に心をひとつにしてシンパシーを寄せ、次に《自分に何が出来るのか》を考え、恒常的に手を差し伸べていく。こういう気持ちは当然のことだと思います」
――70歳で阪神・淡路大震災を経験されました。
「本や資料で埋まった隣の部屋のソファベッドで寝てたんですが、朝の5時くらいに目が覚めました。起きて仕事をするかな、と思っていたところにグラグラと揺れてドス~ン!ときた。ガスの臭いがするし、屋外に逃げたら駐車場部分の1階がつぶれていて、7階建てのマンションが“6階建て”になってしまいました」
――16年後に東日本が甚大な被害を受けました。
「この16年で“日本人の意識の変化”を感じさせられました。阪神・淡路大震災の時は、合言葉が《がんばろう神戸!》。今回は《がんばろうニッポン!》でした。太平洋戦争で焼け野原になり、ニッポンと口にするのもはばかられ、長い間、日本国という概念が希薄になっていた。サッカーがメジャースポーツになると日本代表を《自分たちのチーム》として親しみの気持ちで応援するようになった。期せずしてニッポン!と連呼したり、日の丸も掲げられるようになり、皆が日本チームの一員という意識が芽生えました。今回の《がんばろうニッポン!》が素直に受け入れられたのも、サッカーの力が大きかったと思っています」

●日本サッカーのスタイルはある
――神戸一中2年生(38年)の時です。600人以上の死者が出た阪神大水害に直面しました。

「梅雨の長雨の後、7月3日から5日にかけて大雨が降り続け、小さな谷から流れる溝や川が瞬く間に大きな川となり、土砂などを運んで土石流となって流れていった。当時は《山津波》と言っていました。海の津波とは規模が違いますが、山津波の凶暴さも凄まじかった。今でも鮮明に覚えています。神戸一中のコンクリート造りの校舎の2階の窓から、グラウンド東側の細い川が10メートルに盛り上がったのが見え、すると木造2階建ての運動部の部室20棟を引きずり込み、木っ端みじんに粉砕しました。2日後、三宮駅周辺に行くと土石流に流された電車が民家に突っ込んだり、流された馬が死んでいたり、元の姿に戻るのにどれだけかかるのか、と思いました」
――神戸一中の最終学年(5年生)にレギュラーとして試合出場。明治神宮大会で優勝しました。
「背は低い(身長153センチ)けど、相手ゴール前でチャカチャカと動き回りながら、パスをダイレクトやワントラップしてシュートし得点を重ねました。2歳年長で中肉中背だった兄貴(元日本代表MF太郎氏=故人)が『サッカーはチビの方がええのかな?』と聞いてきた。南アW杯予選で優勝したスペインのイエニスタ(170センチ)がチョコマカ動くと、ドイツの大男は足をバタバタさせて抜かれていた。サッカーは体力勝負だけのスポーツではありません。子供の頃から、サッカーが上手な日本人をたくさん見てきた。日本人がサッカーに向いていないとか、思ったことは一度もないです」
――今回の大震災を踏まえた上で今後の日本サッカーは、どうあるべきなのでしょうか?
「東日本大震災は想定外のことが起きたといわれているが、西暦869年の平安時代の記録(日本三代実録)に大地震と大津波があったとされる。経験の範疇ではなく、史実に関心を持って対処していたら……と思います。サッカー界も同様。歴史を振り返ることで将来の指針だったり、強化のヒントも生まれてくる。東京五輪前にクラマーさんが来たけど、本人に『短いパスを回しながら時に長いボールを入れ、相手DFの裏を突く戦法を生み出したのは?』と聞いたところ、日本サッカーの歴史を調べた上で(ベルリン五輪FW)川本泰三や(元五輪監督)竹腰重丸と相談しながら日本人選手の特徴を考えて決めたと話してくれた。バルサにはバルサのサッカーがあるのに『日本のサッカーがない』とよく言われるが、そんなことはない。昔から日本サッカーのスタイルはあった。もちろん、スタイルがあるだけでは勝てませんからね。技術を高め、フィジカルを鍛えないといけない。ボールをたくさん蹴り、もっと練習をやれば、これからも日本サッカーは強くなりますよ」

●若き日の岡田監督
69年のとある日。サンケイスポーツ運動部長に就いた頃の話。卒業したらドイツにサッカー留学に行きたいと言い張る中学2年生がいて、困り果てた父親が知人を介して相談係を依頼してきた。待ち合わせ場所の喫茶店に行くとひょろっとした中学生が、丸メガネをかけて座っていた。「岡田武史」と名乗った。

「君の体つき、まだ骨組みも出来ていない。ドイツ人は大きいしケガさせられるだけだ。高校を卒業してからにしたらどうだ?」 そう言ってサッカーの強い私立を薦めると校風が合わない、名の知れた公立でやったらどうかと聞くと受かる自信がありません、と言う。受験前から自信がないでは困ると言ったら、膨れっ面して帰っていった。父親と電話で話をしたら「諦めたようです」と聞かされた。

それから何年か経ち、忙しさにかまけて岡田少年のことを忘れてしまった。何の試合だったか、日本代表の試合前に整列している選手の前を通ったら、「賀川さん、ドイツの件ではお世話になりました」といきなり声を掛けられた。誰なのか分からず、う~んと生返事をした。関係者に聞いたら早大出身の岡田武史と教えられた。後に食事をした際、もしドイツに行っていたら……という話題になった。岡田は「ケガをして(選手生命が)終わっていたかも知れません」と笑っていた。

かがわ・ひろし 1924年12月29日、神戸市生まれ。神戸一中(現神戸高)から神戸商大(現神戸大)。52年から産経新聞のスポーツ記者、サンケイスポーツ編集局長などを経て現在はフリーランス。W杯は74年西ドイツ大会から連続9大会取材。欧州選手権5回、南米選手権1回取材。2010年に「日本サッカー殿堂」入り。芦屋市在住。「賀川サッカーライブラリー」(http://library.footballjapan.jp/)を主宰。


~日刊ゲンダイ 2011年5月5日付掲載~