2011年4月27日水曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(09) 森本貴幸

04年、東京Vのジュニアユースに所属していた中学3年生の森本はトップチームのアルディレス監督の目に留まり、卒業式を待たずに3月13日の磐田戦に途中出場した。史上初の中学生Jリーガーの誕生である。5月5日にはJ初ゴール(15歳11ヵ月28日=最年少記録)。シーズン通算4得点を挙げてJ新人賞に選ばれた。

06年7月、17歳でイタリア・セリエAに昇格したカターニアにレンタル移籍。「当初は武者修行を兼ねた1年のレンタル移籍の予定だったが、本人自身もビックリするほどイタリア生活に馴染んだ。07年6月、森本本人のたっての希望でカターニアへの完全移籍が決まった」(サッカー記者)。ストライカーとしてゴール前で虎視眈々とゴールを狙う。日本もイタリアも同じだが、日本では先輩後輩の関係などピッチ外で息の詰まることも多い。天然系自然児タイプの森本には、肩の凝らないフランクな付き合いの出来るイタリアの水が合ったのである。

小学4年生で東京Vのジュニア入り。ジュニアユースからユースを飛び越してトップに昇格。イタリアに移籍するまで東京Vひと筋だった。当時の森本を知るマスコミ関係者は「どんなイタズラをやっても、どこか憎めないヤツだった。勉強は大の苦手。ボキャブラリー不足も目立ち、言葉遣いもいい加減だった」と振り返る。そんな森本が海を渡り、半年もしないうちにイタリア語の会話をマスター。前出の記者もビックリ仰天である。「日常会話に困ることはないし、イタリア人記者のインタビューも過不足なくこなす。仲間内では『日本語でのやりとりの方が“子供っぽい”感じです。森本にとってイタリア語は、すでに母国語も同然』と話しているところ」(前出の記者)

所属クラブのカターニアは「足先のボール」に当たるシチリア島の東部が本拠。イタリア本土中央やや北、チェゼーナ出身の日本代表ザッケローニ監督が視察に訪れて声を掛けた。しかし、森本との会話には難渋してしまった。「彼のシチリアなまりがひどくて何を言っているのか、あまり分からなかった」(ザッケローニ)からである。「ザッケローニはインテル所属の長友を視察した際に『彼は正しいイタリア語を話す』と驚いていた。長友は日本にいる時から将来を見据え、イタリア語の文法なども勉強していた。森本の場合は『赤ちゃんが耳から入ってくる単語をひとつずつ覚え、それを適当につなげながら会話する』やり方だった。森本にとってはシチリアなまり=イタリア語。もしかしたらなまっていることに気付いていないかも知れないが……」(マスコミ関係者)

右腕に「獅子王」のタトゥーを入れている。「森本は某有力宗教団体を信心している家庭に生まれ育ち、団体の現名誉会長から『獅子王のようにプレーして勝て!』とゲキを飛ばされ、それでタトゥーを入れたといわれている」(消息筋)。08-09年シーズン23試合7得点、09-10年シーズン5得点と結果を残してきたが、今シーズンは11試合1得点とベンチを温めることも多く、森本は「(来季は)絶対に残ることはない」と宣言している。セリエAの中堅パルマ、キエーボ以外にスペインからもオファーが届いているという。 (おわり)

【もりもと・たかゆき】 1988年5月7日、川崎市出身。東京Vから06年7月にカターニアに移籍。5ヵ月はユースチームでプレー。ゴールを量産して同年12月にトップに引き上げられ、翌年1月のアタランタ戦の後半39分にセリエAデビュー。4分後に初ゴールを決めた。3月に左ヒザ前十字じん帯断裂。全治半年の大ケガを負った。08年北京五輪代表。09年10月に日本代表デビュー。10年南アW杯メンバー入りしたが、本大会出場なし。身長180センチ、体重75キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月25日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(08) 松井大輔

14歳の春。京都・山科区の大宅中サッカー部でプレーしていた松井大輔は、いきなり「転校したい」と言い出し、周囲をビックリ仰天させた。「松井は小学校時代から天才として知れ渡り、通っていた地元小学校のサッカー部も全国大会で優勝を争うような強豪だった。同級生たちと地元の中学に進むとサッカー部の顧問がサッカーの素人でヤル気もゼロ。松井は中学1年から関西地区中学選抜に選ばれ、選抜チームの牧戸監督に心酔していた。中学2年の夏に牧戸監督の赴任校、伏見区の藤森中に強引に転校した」(サッカー記者)

クラブチーム間の移籍ではない。サッカー留学のために公立中学校を渡り歩く。前代未聞の掟破りとあって、松井は地元でボロクソに言われた。「松井の実家には無言電話がバンバンかかり、牧戸監督は『引き抜きとはえげつない。何でもアリなのか』と陰口を叩かれた」(前出の記者)

04年8月のアテネ五輪代表で背番号10を背負ってプレー。翌9月に仏リーグ2部ルマンに移籍した。チームは松井効果で順位を上げ、1部昇格の立役者となった。地元では、今でも「ルマンの太陽」と呼ばれている。もっとも、仏2部リーグは「ピッチは泥田状態でフィジカル自慢の黒人選手が、悪質極まりないカニ挟みタックルを仕掛けてくる。もうラグビー並みの激しさ。1部に這い上がるためには手段を選ばない連中がゴロゴロいる」(松井)中、持ち味である変幻自在のドリブル突破、ヒールパスなどトリッキーなプレーで相手を翻弄。目の肥えた仏サッカーファンのハートをガッチリ捉えた。

仏リーグで屈強な黒人とマッチアップしているうちに松井は体の使い方やマークのかわし方など黒人選手対処法を体得した。これが南アW杯で大きな財産となった。W杯初戦の相手は、大物FWエトーを擁するカメルーン。フィジカル勝負に持ち込まれると勝ち目はないが、ひとりだけ苦にしない選手がいた。MF本田圭の値千金決勝ゴールをアシストした松井は、果敢に1対1の勝負を挑み、守っては身をていしてカメルーン選手をつぶした。初戦をモノにした日本代表は上昇気流に乗り、望外のベスト16に輝いた。“黒人慣れした”松井の功績だ。

仏で一緒に暮らしていた美人妻と南アW杯前に離婚。理由は諸説ある。「仏移籍後、松井は早い段階で仏語をマスターしたが、地元では『仏人女性とのピロートークを通じてメキメキと上達していった』という噂も流れた。真偽のほどは定かではないが、実際に松井は地元の女性にモテモテだったし、そういう噂が立っても致し方ない面もあった」(マスコミ関係者)

南アW杯後、所属するグルノーブルが仏リーグの2部に降格したこともあり、昨年9~12月にはロシア1部トムスクにレンタル移籍。今年1月、Jリーグ復帰が有力視されたが、最終的に「引退するまで欧州でプレーしたい」と言ってグルノーブルに出戻った。まさか欧州女性にハマったワケでもないだろうが……。

【まつい・だいすけ】 1981年5月11日、京都府出身。京都3年目の03年、現マンチェスター・ユナイテッドMF朴智星とともに攻撃サッカーを展開し、クラブ初タイトルとなった天皇杯優勝に貢献する。J1通算72試合7得点、J2通算54試合9得点。日本代表31試合1得点。身長175センチ、体重68キロ。血液型O型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月23日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(07) 長谷部誠

浦和入りして4年目、05年のことだった。「カズが『日本人選手でカカに似ている選手を見つけた。それは浦和の長谷部だ』と話していることをことを聞き及び、本人にお礼を言ったところ、メシでも食べようということになった。それから個人的な付き合いがスタートした」(サッカー記者)

08年1月、ドイツ1部ボルフスブルクに移籍したが、長谷部は05年の頃から「欧州でプレーしたい」と考えていた。それをカズに訴えると「チャンスがあったら迷わずに移籍すべき。それも出来るだけ若いうちに」とアドバイスされた。ドイツに渡った長谷部は本職のボランチ(守備的MF)以外に右MFや右SBなどマルチにこなしながら活躍。09-10シーズンにはリーグ優勝を果たした。日本人のドイツリーグ制覇は、奥寺康彦(古河=現千葉から移籍したケルンで77-78年シーズンに優勝)以来31年ぶりの快挙である。

南アW杯でブラジル代表の背番号10を背負ったMFカカ。スペインの名門レアル・マドリードに所属するスーパースターと「長谷部はプレースタイルが似ている」と言われ、一部のサッカー関係者から「和製カカ」と呼ばれている。「本人もそう呼ばれるのがうれしくて自慢話をするようなキャラではないのに、一時期問わず語りに『似ているなんてとんでもない。大物過ぎて比較対象にもなりません』という言い分で和製カカをアピールする時期があった」(前出記者)

カカの持ち味は足元の確かな技術、卓越した戦術眼、高い決定力。さらに「トップスピードでドリブル突破が出来る」。「実は、長谷部が一番カカに似ている部分が、このドリブルの速さなんです。中盤の底で攻守のつなぎ役をテキパキとこなすイメージが強いが、浦和時代から足の速さには定評があり、ここぞという場面でドリブル突破を図ってシュート!というのが、長谷部の一番の魅力です」(前出記者)

静岡の有名進学校・藤枝東高の出身。静岡の公立高には「裁量枠入試」というスポーツ推薦枠があるが、長谷部は一般受験で入学。高校時代の成績も良く、浦和入りしていなかったら「成績優秀者対象の指定校推薦枠で青山学院大に進むことになっていた」(マスコミ関係者)。品行方正、柔和な性格、面倒見の良さなどで「生来のキャプテン気質の持ち主」(前出記者)ともっぱらだ。「南アW杯の前、いきなり岡田監督(当時)に呼ばれ、長くゲームキャプテンを務めていた中沢に代わってキャプテンマークを巻くように言われてビックリ仰天。“荷が重すぎてムリです。返上します”と岡田監督に泣きを入れた。結局は“おまえしかない”と言われて観念。それでもキャプテンをしっかり務め上げ、精神的支柱として代表チームメートからの信頼も厚い」(雑誌編集者)。長谷部は岡田監督に足を向けて寝られない。

南アW杯ベスト16の日本代表をまとめ上げたキャプテンとしてメディアから大モテ。知名度は飛躍的にアップした。先月末に著書「心を整える。」を出した。「勝利をたぐり寄せるための56の習慣」とサブタイトルが付けられた自己啓発書だが、発売1週間で7万部の大ヒットは、何よりも「日本代表のキャプテン」というブランドの高さのたまものである。「中村俊、岡崎、長友らと同じ事務所に所属しているが、7月に個人事務所を立ち上げて独立する予定。大震災のチャリティー関連イベントなど積極的に手掛けるようです」(前出編集者)

【はせべ・まこと】 1984年1月18日、静岡県島田市出身。藤枝東高時代に総体準優勝。02年に浦和入り。プロ1年目は出場機会ゼロも2年目からレギュラー確保。06年2月、日本代表に初選出されたが、同年ドイツW杯メンバーには選ばれなかった。オシム代表監督時代は代表から外れることも多かったが、岡田監督体制後は不動のレギュラーとなり、南アW杯ベスト16の原動力となった。身長180センチ、体重72キロ。血液型はO型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月22日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(06) 川島永嗣

http://gendai.net/articles/view/sports/130072


~日刊ゲンダイ 2011年4月21日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(05) 宮市亮

最大の武器は「100メートル10秒84」の俊足を生かした高速ドリブル。ただ単に足が速いだけではない。身長182センチの恵まれたフィジカルを利し、ドリブルの際に「歩幅の長短」をうまく組み合わせ、相手DFを腰砕けにしてしまうのだ。

宮市はまず細かいステップでDFのボディーバランスを崩し、ここぞという瞬間に大きな歩幅をとり、一気にトップスピードに乗る。DFは体勢を崩し、宮市の後ろ姿を拝み続けることになる。「抜き去る瞬間を撮るとDFがよろけている写真が多い。宮市は“このタイミングで仕掛けたらDFが体勢を崩す”ポイントを先天的に会得している。同じように相手DFがよろける写真の多い選手は、比較するにも大物選手過ぎるが、あのレアル・マドリードに所属するクリスティアーノ・ロナウドです。彼と対峙したDFは、よろけてピッチに両手をついたり、挙句にシリモチをつく選手までいる。宮市がフィジカルを鍛え、駆け引きを覚えたらクリ・ロナのレベルに近づく可能性はある」(某カメラマン)

愛知・中京大中京高の3年に在籍していた10年8月、イングランドの名門アーセナルの入団テストに臨み、そこで名将ベンゲル監督のお眼鏡にかない、卒業前の今年1月に「5年契約」を結んだ。しかし、日本代表歴のない宮市の場合、英国の労働許可証の発給条件にある「過去2年、自国代表の試合の75%以上に出場していること」に引っ掛かり、英国ではプレーできない。もちろんベンゲルは百も承知。入団と同時にオランダのフェイエノールトにレンタル移籍させた。オランダで試合をこなしてより一層レベルアップしろ――というワケだが、さすがのベンゲルも宮市がオランダで早々に大ブレークするとは想定外だった。

オランダデビューとなったアウェイのフィテッセ戦(2月7日)で相手DF網をズタズタに切り裂き、目の肥えたサポーターの胸を瞬時にわしづかみ。1週間後の地元でのヘラクレス戦には、宮市見たさにスタジアムは今季初の超満員4万2000人に膨れ上がった。ここで宮市は素晴らしい先制ゴールを決めてみせ、「点の取れるサイドアタッカー」として欧州中に名前をとどろかせた。「中京大中京高サッカー部の監督というのが、ベンゲルがJ1名古屋で采配を振っていた時代からの知り合い。そのツテで宮市を売り込んだ。ベンゲルは“スピードとフィニッシュの精度の高さが素晴らしい。近い将来に英国で結果を残せる選手になる”とひと目惚れした」(マスコミ関係者)。17日のウィレムⅡ戦でも2得点と勝利に貢献した。

サッカーの能力もさることながら、宮市は大きな武器を持っている。それは異国暮らしへの適応能力の高さである。「中学2年を終えた春休み期間中、宮市は現在の所属先であるフェイエノールトのジュニアユース(15歳以下)で2週間の短期留学を行った。ホテルも食事もちゃんと用意され、サッカーに専念出来る環境だったが、それでも慣れない異国暮らしにストレスをため、体調を崩す選手も少なくなかった。でも、宮市だけは“オランダに生まれ育った日本人”みたいな雰囲気でリラックスしながらサッカーボールを追い掛けた。当時のフェイエノールトの関係者は『海外でプレーするために生まれた選手』とベタ褒めしていた」(前出の関係者)。ピッチ内外で大物感を漂わせているのである。

【みやいち・りょう】 1992年12月14日、愛知県岡崎市出身。中学2年から各年代別日本代表に選ばれ、17歳以下日本代表の一員としてFIFA主催の17歳以下世界大会に出場した。「18歳1ヵ月23日」のオランダリーグデビュー戦、翌週の初ゴールともに「欧州主要リーグにおける日本人最年少記録」。地元での呼び名は「リオ」。先日、イタリアの地元メディアが、セリエAで優勝争いを演じているナポリが宮市を狙っている――と報じた。


~日刊ゲンダイ 2011年4月19日付掲載~

2011年4月21日木曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(04) 本田圭佑

サッカー専門誌の人気4コマ漫画に登場する本田圭は、いつもふんぞり返って鼻息を荒くしながら、相手が誰であってもエラソーな態度で“タメ口”を利いている。「確かにG大阪のジュニアユース時代から高校年代のユース、トップの年長選手に命令口調で話し掛けたり、いつも“オレ様が一番”的オーラを出していた。しかし、ジュニアユース時代の同期生で現在スペイン1部マジョルカに所属するMF家長が“カリスマ性を出しているけど、本当は(オレ様)キャラなんかじゃない。(日本代表の常連になって)オレが壊してやる”と豪語している」(サッカー記者)。名古屋入り当時は「元フランス代表MFジダンに憧れる」と話し、趣味を聞かれると「読書とカラオケ」と応える純朴な好青年だった。今の本田圭像は「かなりムリしてつくった」モノなのだ。

石川・星稜高から05年に名古屋入り。08年6月に日本代表に初召集。エースとして臨んだ南アフリカW杯では、ベスト16入りの立役者となった。順風満帆のサッカー人生に見えるが、実はG大阪ジュニアユース時代に大きな挫折を経験している。「ジュニアユースからプロ予備軍のユースに昇格できず、石川まで“都落ち”することになったのです。青天の霹靂で、サッカーをやめると口走るほどのショックを受けていた。同じ誕生日で同じ左利きの家長をライバル視しており、その家長が高校2年途中でトップに昇格した時には、じだんだを踏んで悔しがったといいます」(前出の記者)。もっとも、昇格失敗のトラウマを引きずりつつも、そのショックをバネに努力を重ね、日本代表の大黒柱の座を手中にした。08年2月の右ヒザの大ケガもあり、日本代表に定着できない家長とは立場が逆転した。

本田圭といえば「両腕に腕時計を巻く」ことで有名。理由を聞かれるたびに「ボディーバランスを保つため」と答えて周囲をケムに巻いている。「この“ボディーバランスを保つ”発言は、本田圭に言わせると“そんなバカな!”と突っ込んでもらうためのジョークらしい。でも、インタビュアーが真に受けてしまうことが多く、コメントが独り歩きしてしまった」(マスコミ関係者)

最近は「クラシックを追い求めている」とコメントすることが増え、周囲からは「意味不明」といぶかられている。「何てことはない、小さい頃から元アルゼンチン代表の天才マラドーナに憧れ、そのマラドーナが両腕に腕時計を巻いていたので真似しただけのこと。一時期、イタリアの高級時計メーカーガガミラノ製を好んで着けていた」(前出の関係者)。ちなみにマラドーナは両腕に腕時計の理由を聞かれると「遅刻しないため」と、平然と答えるのが常。マラドーナの真意は今なお謎のまま――。

プロ入りの頃は黒髪だったが、オランダ移籍前から「短めの金髪」に。南アW杯の活躍もあって、「10年メンズ髪型オーダー人気ランキング」で俳優の成宮寛貴と並んでランキング1位になった。

【ほんだ・けいすけ】 1986年6月13日、大阪府摂津市出身。摂津FCからG大阪ジュニアユース-石川・星稜高を経て05年に名古屋入り。08年にオランダ1部VVVに移籍。09-10年シーズン途中にロシアの強豪CSKAモスクワに移籍金12億円で引き抜かれた。年俸は名古屋時代の2000万円がオランダで7000万円となりロシアでは1億4000万円に倍増した。CM契約などで年収3億円といわれている。身長182センチ、体重75キロ。血液型AB型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月18日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(03) 岡崎慎司

兵庫・滝川二高3年時に清水と神戸から誘われた。迷っているとサッカー部の監督から「おまえはプロで数試合ほど出られたらオンの字。大学に行け」と言われて逆に奮い立った。

「地元(滝川二高の所在地は神戸)だと甘える。清水で頑張ってみせる」(本人)。もっとも、入団してみたら「通用すると思ったスピードとスタミナもプロはケタ外れだった」(本人)。当時の長谷川健太監督に「FW8番目の選手」と酷評されて意気消沈。するとクラブ幹部からは「いや、おまえは登録30選手中の30番目」とダメを押された。それが、今ではブンデスリーガ名門のレギュラーを張っている。変われば変わるモンである。

プロ2年でリーグ8試合出場0得点とパッとしなかったが、ニアサイドに頭から突っ込んでいくアグレッシブなプレースタイル、ゴールの枠をきっちり捉えるシュート感覚を武器に3年目から頭角を現していった。「岡崎の座右の銘は『一生ダイビングヘッド』です。中学時代に所属したクラブチームのコーチから『ヒザから上のボールは全部ヘディング』と命じられた。かなり無謀な指示だが、今でもバカのひとつ覚えのようにやろうとする。これこそが岡崎の魅力です。もともと勉強なんて大キライでサッカーも“頭で考えながら”プレーするのが苦手なタイプ。なので何が何でもヘディング!が性に合った。相手のスパイクの裏が見えても頭から飛び込み、体のどこかに当たって入ってもゴールはゴール――というのが生来の“何も考えない系”の岡崎にぴったりとフィット。一気に日本代表主力選手にのし上がっていった」(サッカー記者)

1月31日。ブンデスリーガ1部の名門シュツットガルト移籍が発表された。年俸1億4000万円の3年半契約。清水時代の3500万円から4倍にアップした。もっとも、契約日をめぐって清水が移籍に難癖をつけて大モメ。「ウチとの契約期間は1月31日まで」をタテに「契約期間中の移籍なので認められない。(発表しない)違約金も請求する」と言い出し、ドイツデビュー予定だった2月12日のニュルンベルク戦は出場できなかった。結局、FIFA裁定で暫定登録が認められ、同月20日のレバークーゼン戦でドイツデビューを果たした。「欧州では、1月1日から31日までが『冬の移籍期間』となっており、前所属との契約期間とは関係なく、便宜上、1月31日が契約日となる。清水は欧州サッカーの常識を知らず、杓子定規に『二重契約!』と騒ぎ立てて欧州中からバカにされた」(マスコミ関係者)

いきなり移籍トラブルに巻き込まれ、所属事務所など周囲はヤキモキするばかり。ところが当の岡崎は「なるようにしかならない。何とかなる」と平然としていた。「シュツットガルト市郊外でホテル暮らしをスタート。英語もドイツ語も話せず、右も左も分からないのに散歩に出掛けたり、チームメートに誘われると待ち合わせ場所のレストランを探して食事をしたり、ノビノビと暮らしているみたいです」(前出の関係者)。ピッチ内外で野生児ぶりを発揮。異国暮らしを堪能しているのだ――。

【おかざき・しんじ】 1986年4月16日、兵庫県宝塚市出身。中学までクラブチームの宝塚ジュニアFC。滝川二高から05年に清水入り。08年10月のUAE戦で日本代表デビュー。09年1月のイエメン戦で初ゴール。同年6月の南アW杯予選ウズベキスタン戦で日本の4大会連続W杯出場を決めるゴールを決めた。11年1月のアジアカップ・サウジ戦で3得点。自身3度目のハットトリックを達成した。日本代表の最多ハットトリックは釜本の8回。岡崎の3回は三浦カズと並んで歴代2位タイ。身長174センチ、体重77キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月13日付掲載~

2011年4月18日月曜日

【底流を読む】東日本大震災 過度の自粛は自粛を

大震災に見舞われた11日午後4時すぎ、東京都千代田区の帝国ホテルで知人に会う予定があり、歩いて赴いた。地震発生後のロビーは人でごったがえしていた。その後JRが不通と決まり、そのまま同ホテルに「籠城」することになった。

宿泊客ではない。追い出されても文句は言えないが、ホテル側は親切だった。夜に入り、地下のレストラン街から2階宴会場の廊下まで、2000人に膨れあがった帰宅難民に対し、イスや毛布にカンパン、水を用意。要所に配置したテレビや館内放送で地震・交通情報を絶やさず、携帯電話の充電サービスまでする心配りに感謝の声が上がった。同様のサービスは他のホテルや百貨店でも聞かれた。今回の震災では被災者の整然とした行動が海外メディアからも評価されたが、同時にそれを支える流通業やサービス業の地道な活動も評価されよう。

被災地ではヨークベニマルなど、店内に残っていた食品や飲料水を周辺住民に無償提供するスーパーや食品店も目立った。灯油を無償提供するガソリンスタンドもあった。「ここが自分たちの生活基盤。地元客が困った時に支援するのは当たり前」と店主らは語る。日本の流通・サービス業の底力がここにある。人と人とのつながりを大切にする姿勢だ。日本の繁栄と安定を支えてきた最大の原動力は大中小の企業の真摯で地道な営みにあるという事実を、震災が浮き彫りにした形だ。

その視点から一つ提案したい。過度の自粛をやめるということだ。今「不要不急の消費」を控える動きが全国に広がっている。百貨店や居酒屋、都市ホテル、ゴルフ場、観光地では顧客が激減している。「被災地の人々の苦労を思うと消費を楽しむ気になれない」「不謹慎と言われかねない」というムードが背景だが、流通・サービス業側の自粛姿勢がこれに拍車をかけている。店頭の看板の照明を消したり広告宣伝を抑制したり。暗い街路は消費するのがいけないかのような雰囲気を醸し出している。

エアコンの温度を調節したり派手なネオンを抑えるなど一定の自粛は必要だろう。だが過ぎたるは及ばざるがごとし。計画停電も加わって世の中が暗いムードに沈めば、消費は大幅に冷え込んでしまう。それは経済復興を遅らし、被災地の再建にもマイナスだろう。人々が消費を楽しんでカネが回るから経済が動き、景気がよくなる。商いの基本は人とのつながりを大切にする地域貢献とともに、人々を明るくさせる工夫(マーケティング)にある。その底力を今こそ発揮してもらいたい。 (編集委員・井本省吾)


~日経流通新聞 2011年3月28日付掲載~

【論点】劇場型首長に対する議会の責任 客員論説委員・有馬晋作

全国の注目をあびた阿久根市長選で、議会と対立しリコールされた竹原信一氏の三選はなかった。しかし来月は、減税をめぐり議会と対立し、議会へのリコール運動を主導し自らは市長辞職した河村たかし氏が、名古屋市長選に臨む。また橋下徹大阪府知事は、大阪市を解体し府を都とする「大阪都」構想実現のため、春の統一地方選の議会選挙で構想支持の候補者を多く擁立しようとしている。

今や変革を訴え議会と激しく対立する「劇場型首長」が話題であるが、最近の社会の閉塞感や地方の疲弊から、どこでも登場しかねない状況である。行政学・地方自治論を専門とする立場から、「劇場型首長に対する議会とは、どうあるべきか」を論じてみたい。

劇場型首長には、リーダーシップを評価する声もあるが独断的な面も多々あり、批判の論調は、本来、民主的な制度は権力分立なので独裁型はいけないというものである。一方、劇場型首長は、自分の方が民意を代表しており、議会が議案否決などで足を引っ張り変革できないと主張する。その理由は、日本の地方自治が首長も議会も住民が直接選挙する「二元代表制」のため、首長と議会の二つの民意があり、議会には立法のほか首長を監視(チェック)する役目もあるからである。

だが、日本の二元代表制の実態は、首長優位型である。アメリカの大統領制に似てはいるが、アメリカは法律も予算も議会に最終決定権があり、大統領には一定の拒否権はあるものの議案提出権はない。一方、日本は、条例案・予算案などの議案提出権や議会を開けないときの専決、さらに議会招集権も首長が持つ首長優位型である。

これに対し、欧米の地方自治は多様な制度を採用しているが、議会優位型が比較的多い。アメリカやイギリス、フランスの自治体は、議会から議員を出して執行部である理事会や参事会を設置したり、シティー・マネジャーを雇う方式など一元型の議会優位も目立つ。この議会優位には、「住民代表の議員の議論によって政策を決める」という基本的考えがある。

そもそも住民にはさまざまな意見があるのに、それを、たった1人の首長が一つの意見(民意)として集約できるのだろうか。まして、劇場型首長の得意な単純な構図に集約できるとは思えない。また、マニフェストも政策パッケージなので、全項目に住民が賛成したとは限らない。むしろ、多くの住民代表で構成された議会の方が多様な意見を反映するのにふさわしい。

以上のことから、わが国の二元代表制での自治体議会とは、首長の主張する民意を、議論によって住民の多様な意見を反映させ、チェックしたり承認する機関だと分かる。だが現在、日本の議会は議論をしていない。本会議の議案採決で最後に数人が賛成・反対を表明する「討論」はあるが、通常の審議は、執行部に質問や要望するのみである。阿久根市議会を傍聴した市民が、市長と議員は平行線との感想が多かったのは、首長と議員は自分の意見を言うだけで、議論が成立しないからだ。

では議論するには、どのような仕組みが必要だろうか。それは、本会議で再質問できる「一問一答方式」を採用し、首長・執行部には議員の質問に対する「反問権」を与えること、また委員会では、議員同士の「自由討議」つまり議論を認めることである。

例として、委員会での保育所民営化に関する議案審議をあげると、執行部による議案説明後の質疑のあと、一般住民、関係者の意見を聞き論点を整理し、先進地の施策も調査した上で、議員間の十分な自由討議を経て採決すべきである。さらに、議論に住民の声を反映するため、議会として「議会報告会」を積極的に開催することが、特に重要である。住民に分かりやすく審議結果を説明し意見交換するのは、住民と議会との信頼関係の構築にもなる。

このように、日ごろから「議論をする」「幅広く住民に説明し意見を聞く」努力を怠らない議会こそ、劇場型首長が陥りやすい住民不満をエネルギーとするポピュリズムへの有効な対抗策になるであろう。 (宮崎公立大教授)


~南日本新聞 2011年1月24日付掲載~

2011年4月16日土曜日

2011年3月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

3月1日付
「刻々迫る予算成立後の破局 この国は菅の独裁政治なのか」
3月2日付
「菅退陣もなく総選挙もない 支持率最低で居直る菅 鉄面皮の亡国」
3月3日付
「民主党にはガッカリだ 支離滅裂菅政権に国政は無理」
3月4日付
「菅首相延命に動く大マスコミ報道 『政局緊迫』と煽るメディアへ重大疑問」
3月5日付
「小沢排除は陰謀だった 小沢一郎と造反16人は正論だ」
3月7日付
「菅ボロ内閣、参院で頓死 国のため即刻総辞職すべきとアキレた声」
3月8日付
「前原辞任、ドミノで菅政権崩壊 小沢予想的中『破れかぶれ解散』」
3月9日付
「小沢一郎の呪い 予測通り小沢なき民主党は消滅する」
3月10日付
「亡国の政治はまだ続く 政権危機タレ流し情報の虚実」
3月11日付
「独裁化する菅直人の正体 本性はファシストだった菅市民運動家」
3月12日付
「菅首相は極悪人だ 試されている日本の民主主義」
3月14日付
「震度5強、東京大パニック 東北地方太平洋沖地震 震度7襲来なら首都全滅」
3月15日付
「けさ11時、福島原発3号機も爆発 史上最大地震、日本沈没 東京被曝迫る」
3月16日付
「福島原発最悪事態 2号機爆発、4号機火災 100キロ圏内も被曝恐怖 チェルノブイリと同じ」
3月17日付
「話にならない無能バカ政府 なぜ自衛隊を使って被災地に食料、毛布を投下しないのか」
3月18日付
「空中バケツリレーの愚 無能無力菅内閣の右往左往の危機対応、この国は救われないどころか崩壊へ」
3月19日付
「官邸脳死、外資のエジキ 福島原発爆破“臨界”近づく 30キロ圏内でも死者が出る 東京来週も大停電の覚悟」
3月21日付
「予測不可能なこれからのこと 菅政権では復興は到底無理」
3月23日付
「亡国の菅政権 痴呆的無能菅政権に怒りの罵声 このままやらせていたら国民皆殺し」
3月24日付
「無力無用有害の菅マヌケ政権 『政権延命が人命より大事』の菅直人」
3月25日付
「小沢排除の菅民主党、それが悪夢の始まりだった 地震の復興、小沢の出番だ」
3月26日付
「小沢一郎に『期待』と『不審』の二つの声 東北復興にゼネコンの小沢が最大のカギ」
3月28日付
「不安を煽るばかり政府対応、この先この国はどうなるのか 挙国一致の対応は菅退陣が条件」
3月29日付
「救い難い無能政府 『菅退陣、救国内閣を』が国民の要求」
3月30日付
「巨大地震が暴露したもの この国の再生復興などとても無理」
3月31日付
「本当は何が起きているのか 現実から逃亡する菅亡国政権」

大震災でも小沢待望論

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(02) 内田篤人

日本代表には07年4月に初めて招集され、08年6月の南アW杯3次予選バーレーン戦で代表初ゴールを決めた。「20歳87日」でのゴールは、W杯予選における代表最年少ゴール記録である。

10年7月、オファーのあったドイツ1部の名門シャルケに移籍した。本当は海外移籍に乗り気ではなかったという。「イタリア・セリエAでプレーした経験のある鹿島の先輩・小笠原に相談したら、シャルケでプレーすべきと言われたので踏ん切りがついた。そう内田は話していたが、これが大きな勘違い。小笠原は『いつか欧州に挑戦した方がいい』という意味で移籍を勧めただけだった」(サッカー記者)

もともと欧州リーグへの憧れはなく、各国代表の有名選手もロクに知らない。5日の欧州チャンピオンズリーグ準々決勝でインテルと対戦。試合後に日本代表の僚友、インテルの長友に「(インテルの背番号)10番、凄く上手だよねぇ~」と話し掛け、長友に「おいおい、南アW杯でも対戦したオランダ代表司令塔のスナイデルを知らないのか?」と呆れられた。「シャルケを選んだ理由を聞かれて『鹿島に移籍金(1億5000万円)をきっちり払ってくれるところならどこでもよかった。鹿島には愛着を持っている。移籍金が発生しなかったり、安かったりでは恩返しも出来ないからね』と話していた」(マスコミ関係者)

鹿島でも、そしてドイツでも「暇さえあれば寝てる」が口癖。地味なタイプでハデな生活とは無縁。「日本代表のレギュラーに定着し、イケメン選手として女性ファンも急増したが、いつも鹿島の選手寮でゴロゴロしていた。たまに外食に出掛ける時も鹿島のエンブレムのついたジャージーの上下を着たまま、ひとりでファミレスに行ってパスタなどをササッと食べ、そそくさと帰っていく。そんな姿が何度も何度も目撃されている」(前出の記者)

東日本大震災の起きた翌12日、地元でのフランクフルト戦後、「共に生きよう!」など日本語とドイツ語で書かれた自筆メッセージつきユニホームを着てサポーターにアピールした。GKノイアーのフォローがあった。「試合前に『これ(ユニホーム)を見せるのか?』とノイアーに聞かれ、内田は『勝ったら見せる』と答えた。するとノイアーが『オレがきっちり守る。今日は勝てるから』と勝利を約束した。試合は1-1の同点から後半39分、ノイアーが自陣ペナルティーエリア外に飛び出し、ルーズボールを相手ゴール前までロングフィード。これが味方FWの足元にピッタリ届き、決勝ゴールのアシストを記録した。その瞬間、真っ先にノイアーに抱きついたのが、ピッチ内外で仲良しの内田だった」(放送関係者)

試合後、ノイアーがロッカーに戻ろうとした内田をうながし、スタンド前まで連れて行った。そこで内田はユニホームの裾を引っ張り、メッセージを広げるとスタンドから割れんばかりの拍手が送られた。ACジャパン(旧公共広告機構)のCMでお馴染みのシーンである。ちなみに内田のメッセージつきユニホームは大きな反響を呼び、3月27日には近隣のライバル、ドルトムント、ボーフムとの合同チャリティーマッチが行われた。

【うちだ・あつと】 1988年3月27日、静岡県函南町出身。06年に清水東高を卒業して鹿島入りし、クラブ史上初となる高卒ルーキー開幕戦スタメン出場を果たした。04年の16歳以下アジア選手権、07年の世界ユース選手権、08年の北京五輪に出場。シャルケ入りすると日本からの女性ファンが急増。クラブ内で「日本ではモデルをやっていた」という噂が流れ、チームメートから「日本のベッカム」とからかわれている。身長177センチ、体重65キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月12日付掲載~

2011年4月11日月曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(01) 長友佑都

自他共に認める“ゴリラ顔”だが、女性サッカーファンの間から「長友ってイケメンだよね」という声が急増中だ。「昨年7月、大ファンと公言していた女優の堀北真希と『ロッテ ガム友大使』の就任会見に出席した。イタリア・セリエA入りが発表される前だったし、南アW杯で名を上げたとはいえ、堀北真希よりも格下感がアリアリで『ミスマッチ』の声も多かった。それが世界十指に数えられるメガクラブ、インテルに移籍して活躍すると広告業界などでは『堀北真希クラスでは長友とは釣り合わない』と言われるようになった」(放送関係者)。1日、スポーツ飲料「ポカリスエット」のキャラクター契約を結んで話題を集めた。

小学1年生でサッカーを始め、中学に進学する際、地元のJ2愛媛のジュニアユース(中学1~3年)の入団テストに失敗。中学卒業後はサッカー強豪校・東福岡高校に進んだが、地域選抜、年代別代表とは無縁の存在だったので大学サッカー部のスポーツ推薦が受けられず、進学した明治大学には指定校推薦で入った。「入学して患ったヘルニアに苦しみ、2年の途中まで試合に出られない時はスタンドで応援部隊のタイコ係だった。このタイコが“リズム感抜群で最高”と評判を集め、J1鹿島の有力サポーター団体から“ウチで叩かないか?”とスカウトされた」(サッカー記者)

大学3年時にFC東京との練習試合で東京関係者の目に留まり、大学サッカー部をやめて辞めてプロ契約を結んだ。小学3年で両親が離婚。「女手ひとつで姉、自分、弟を育ててくれた母親を経済的に助けたかった」とコメント。ちなみに姉はモデル並みの美貌の持ち主だ。

W杯後に20年ぶりにセリエAに昇格したチェゼーナに引き抜かれ、シーズン半ばが経過した1月末、強豪インテルに電撃移籍を果たした。「日本サッカー協会には各都道府県、全国9地域などで有望選手を発掘していくトレセン制度がある。そこから16歳以下代表、20歳以下代表など年代別代表に吸い上げていき、次代の五輪代表、日本代表選手を育てていくものだが、長友は県選抜にも選ばれなかった。それが、今ではインテル所属選手ですからね。サッカー協会公認ライセンス保有指導者の見る目のなさ、トレセン制度の不備がクローズアップされている」(前出記者)

FC東京時代の年俸は2500万円。それがチェゼーナ移籍で6000万円に跳ね上がり、そして今のインテルでは2億円! ついに高給取りの仲間入りを果たした。「かなり厳しい状況となったが、セリエA優勝に欧州チャンピオンズリーグ優勝のタイトルを獲得すれば、長友の来季の年俸は倍増4億円といわれていた」(地元紙記者)。5年ほど前までタイコを叩いていた男の成り上がりストーリーは、世界中のサッカー選手垂涎の的なのである。

【ながとも・ゆうと】 1986年9月12日、愛媛県西条市出身。明治大在学中の07年にFC東京の特別指定強化選手としてJリーグに出場。翌年にプロ契約。同年5月のコートジボワール戦で日本代表デビュー。同年11月のシリア戦で代表初ゴールを決めた。南アW杯全4試合にフル出場。決勝戦では試合途中から左MFにポジションを移し、FW李の決勝ゴールをアシストした。身長170センチ(体重69キロ)は公称。実際は168センチ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月9日付掲載~

【特別インタビュー】日本サッカー協会は東電に130億円の借りがある ジャーナリスト・刈部謙一

東京電力福島第1原発から約20キロ、同第2原発から約10キロにJヴィレッジ(福島県楢葉町・広野町)がある。広野火力発電所に隣接する町有地に東電が約130億円で建設。97年に完成した。94年8月27日付の読売新聞は「東電は第1原発の原発増設計画を発表。見返りの地域振興策として提案されたサッカーのナショナルトレーニングセンター(NTC)は、電力丸抱えの新地域振興策として注目を集めそう」と書いた。東電=福島原発とJヴィレッジとの緊密な関係性を考えると日本サッカー協会(JFA)は、何らかのアクションを起こすべきではないのか? 16年前に週刊誌上でリポート「サッカーW杯誘致と原発の談合構造」を発表したジャーナリストの刈部謙一氏に聞いた。

●「原発は安全なんです」と協会幹部
――そもそも日本サッカー協会は、Jヴィレッジに「どんな役回り」を期待していたのですか?
「計画が発表された95年当時は2002年W杯誘致を巡り、韓国と激しい戦いを繰り広げていました。サッカー協会は招致レースにひとつでも有利な材料が欲しかった。しかし、お金がない。そこで東電の構想に乗った。サッカー人気、W杯人気が原発建設の見返りに利用されたのです」
――W杯招致委員会の担当者だった小倉JFA専務理事(現JFA会長)からも、興味深いコメントを引き出しています。
「95年2月に香港で行われたダイナスティ杯を取材し、現地で小倉会長から『NTCは地域振興のため。我々としてやりたいし、やらなければならないもの。アジア初のNTCだし、(W杯招致活動の)目玉にもなります』と聞いた。そういえば『原発は安全なんですよ』と明快に応えていたのが印象的でしたね」
――東電と国が推進してきた原発の安全神話は完全に崩壊し、日本国民の不安は募るばかりです。
「2日に菅総理がJヴィレッジを視察。自衛隊員らを激励しました。そのJヴィレッジは、一週刊誌によると東電が管理して不評ですから、JFAがもっと積極的に関与すべきです。東電から提供された施設をJFAは、ずっと甘受してきた当事者でもあるのですから」

●1997年、福島第1原発の見返りにNTC建設の談合構造
――16年前に週刊誌上でサッカーと原発について踏み込んだ特集記事を掲載したのは、どういう思いからだったのですか。
「はたして原発は本当に安全なのか? 簡単に東電の言うことに乗っかっていいのか? そう問題提起をしたかった。当時のJFA事務局長を取材すると『原発を絡めるとややこしくなると思っていましたけど、東電からは原発の建設とは関係なくやりますと聞いています。とにかくNTC建設は、ひたすら我々の悲願なんです』と話していました。しかし、選手は困惑していました。加藤強化委員長(当時)は『見返りなら考え直す必要があるでしょう』、柱谷代表主将(当時)は『こうした施設(NTC)は税金で造って欲しい。こんな形(東電全額負担)とは思わなかった。一企業や一自治体だけで運営は難しいと思う。だからこそ国にやって欲しい』とJヴィレッジの東電丸抱えに否定的でした」
――これからJFAは何をすべきでしょうか。
「自分のWEBマガジンにも書きましたが、JFAは、いわば東電に130億円の借りがある。ならば責任を持ってその金を集め、復興のための費用とする。たとえば130億円プロジェクトと名付け、チャリティーマッチを積極的に推し進めているJクラブとも連携を取りながら、サッカー界全体の取り組みとしていくべきだと思います。あと、もうひとつ」
――何でしょうか。
「12月に日本でクラブW杯が予定されますが、絶対に開催すべきです。すでに世界各国による『日本脱出勧告』がなされており、これが“日本は危険”という風評被害を増長させている。大会を開催すれば、世界中から多数のプレスが殺到し、彼らの報道を通して“日本は安全な国”を世界に証明できます。正確な情報発信も重要です。たとえば全国各地のスタジアムの放射能データを定期的に発表してもいいでしょう。早く関係組織を立ち上げ、出場するクラブに安心材料を積極的に提供していくべきです」

かるべ・けんいち 1949年12月27日、東京都生まれ。法政大除籍。編集プロダクション「K&K事務所」主宰。WEBサイト「Football Weekly」(http://footballweekly.jp/)発行人。
参考:【発行人から】福島原発に対する日本サッカー界の責務
http://news.livedoor.com/article/detail/5433664/


~日刊ゲンダイ 2011年4月11日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(12) 「やってはいけない」と「何もしない」の違い

「やってはいけない」と言うと、「じゃあ、何もしなければいいのだ」と誤解を招くことがあるようです。しかし、従業員として「しなければならないことをしない」のは、従業員にとって「やってはいけないこと」なのです。

「しなければならない義務」がある人がそれをしないと、刑事責任を含め、さまざまな責任を負わされます。例えば、食品や家庭用品の製造販売、ホテル・旅館などのサービス行、建物管理業などは、他人の身体、生命に危険をもたらす恐れのある業務です。これらの仕事に従事している人が、自分が何もしないことによって、死傷者が出る可能性があるのに、それを予見しなかったり(予見義務違反)、予見はしたが、そのようなことにはならないだろうなどと、安易に考えて何もしなかった(結果回避義務違反)。その結果、人を死亡させたりケガを負わせてしまうと、業務上過失致死傷罪として、5年以下の懲役もしくは禁錮。または50万円以下の罰金に処せられます。

サラリーマンにも、地位やポストに応じていろいろな義務があります。それらの義務を誠実にこなすことが、従業員の義務です。たとえ前記の刑事責任を負わない場合でも、なすべきことをしないと懲戒処分を受けたり、それによって生じた会社の損害を賠償する義務という民事責任を負います。

そうならないためには、どうするか? 例えば、製品の製造販売過程において、漠然とでも危険を感じたらただちに上司に報告、会社として調査をし、安全性を確認する。危険性を察知したら、直ちに製品を回収(リコール)したり、使用者に十分な警告を与える処置をするなどをやるべきです。 (小林総合法律事務所代表=小林英明) =おわり

~日刊ゲンダイ 2011年4月2日付掲載~