2011年6月30日木曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(06) 突然、トルシエ監督の両手ビンタが飛んできた

いきなり力任せに両頬を挟み込むようにバチーン!と強烈なビンタを食らわせた監督がいました。試合中にそんなコトをする監督は……そうです。トルシエです。

00年シドニー五輪本大会での出来事でした。そもそも五輪メンバーに入れるとは思ってもみませんでした。代表合宿には何度も呼ばれたのですが、一度もプレーする機会がなかったからです。なのにボクが代表メンバーに名を連ね、1学年下で五輪候補常連のソガ(曽ケ端準=鹿島)はサブ要員に回り、本大会期間中はスタンドで試合観戦でした。

トルシエはA代表でも「えっ、意外な選手を呼ぶな」と思うことがありましたが、何てことはない、ボク自身も「意外な人選」と周囲は驚いたでしょう(笑)。もっとも正GKは2学年上で奈良県の先輩、ナラさん(楢崎正剛=名古屋)で決まりでした。五輪代表には「23歳以下」の年齢制限があり、3人だけ制限なしのオーバーエージ(OA)枠が設けられていました。OA枠として代表入りしたナラさんがケガでもしない限り、ボクに出番は回ってこないというわけです。

32年ぶりに決勝トーナメントに進出。準々決勝の米国戦の後半30分過ぎのことでした。ナラさんとユージ(DF中沢佑二=横浜M)が激突し、ナラさんは左目の上から出血をしています。ドクターが「×印」を出しています。アップ中のボクはベンチに戻され、ユニホームに着替えました。緊張しないタイプですが、急展開にビビっているように見えたのでしょう。いきなりでした。トルシエが両手を広げたと思ったら、強烈なビンタを食らいました。トルシエ流「目を覚ませ!」だったのでしょう。

確かに目は覚めました(笑)。しかし――。ナラさんは治療を受けて戦列に復帰。試合はPK戦にもつれました。4番手のヒデさん(中田英寿)が失敗。日本はベスト8で涙をのみました。試合後、病院に直行したナラさんは頭蓋骨骨折で全治1ヵ月の診断が下りました。本当は即交代の大ケガだったのです。米国に勝っていれば準決勝の相手はスペインでした。ナラさんの術後の経過が良いことにホッとしつつ、「ナラさんに代わってプレーし、勝ち上がってスペインと戦いたかった」が本音だったことを白状します。

トルシエはシドニー五輪の後、日本代表に呼んでくれるようになりました。当時、3学年上のヨシカツさん(川口能活)とナラさんが代表正GKの座を争っていました。2人の強烈なライバル心を目の当たりにしながら、ボクは「どうして一緒にいて会話を交わさないのですか?」と聞いてみました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月21日付掲載~

2011年6月28日火曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(05) 大ゲンカしたトルシエ監督は変人だった

初めて日本代表に召集してくれたトルシエ監督は……あえて断言します。彼は変人です!

2002年日韓W杯の前年にコンフェデ杯がありました。予選B組の日本は初戦のカナダ戦(3-0)、2戦目カメルーン戦(2-0)と先発したヨシカツ(川口能活)さんが無得点に抑え、3戦目のブラジル戦に引き分け以上で準決勝の相手は予選A組2位のオーストラリアとなり、負けるとA組1位のフランスが待ち構えることになる。大一番となったブラジル戦はヨシカツさんがベンチに下がり、正GKを争っているナラ(楢崎正剛)さんが出場。

3番手GKで代表歴ゼロのボクに出番が回ってくることはない――。ボクを含めてチーム全員が、そう考えていたと思います。しかも、ボクはブラジル戦の前日、練習中にトルシエと大ゲンカをやらかしていました。なのでブラジル戦に出るとか出ないとか、それ以前の問題でチームから追い出されてもおかしくない状況だったのです。

トルシエは「GK専用の練習」を重視しないタイプでした。フィールドの選手と同じようなメニューをやらせる傾向が強かった。たとえばGKコーチが左右中央からいろいろな種類のシュートを放ち、必死になってセービングするとか、そういった時間が短かった。練習量が少なく、いつも消化不良気味。どうせ試合に出るチャンスもないだろうし……。気が緩んでいたのかも知れません。

●「ナニ言うてんねん!」
トルシエが通訳を介して「ツヅキ! 集中しているのか!」と言ってきました。ついカチンとしてしまいました。「ナニ言うてんねん! ロクにGK練習もしてないのに動けるかっ! もっと練習させろ!」 トルシエは日本語が分かりません。勢いに任せて通訳にも「おい! ちゃんと訳せよ! 分かったな!」と毒づく始末。もうシッチャカメッチャカです(笑)。ところが、ボクは追い出されることもなく、その翌日には「ブラジル戦に先発させる」と言い渡されてビックリ仰天でした。

トルシエは選手を好き嫌いとか、肌が合うとか合わないとか、そういったことではなくてチームに必要かどうかで評価する監督でした。懐が深く、個人的には好きなタイプの指導者です。それにしても――。負けられないブラジル戦にボロカスに言ってきた代表歴のないGKを先発させるなんて、やはりトルシエは変人としか言いようがないですね(笑)。

ブラジル戦の結果ですか? きっちり抑えて0-0のドロー。ちゃんと役目を果たしました。準決勝のオーストラリア戦はヒデさん(中田英寿)が決勝点を決め、決勝のフランス戦は0-1で敗れましたが、98年W杯王者を最後まで苦しめました。2試合ともフル出場はヨシカツさん。う~ん、2試合とも出たかった! (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月18日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(04) 全盛期の浦和はACミランにヒケを取らなかった

03年に移籍した浦和では、Jリーグや天皇杯のタイトル獲得はもちろんですが、07年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)を勝ち抜いてアジアクラブ王者になったことも、素晴らしい思い出として残っています。

ACLでは「アウェイの怖さ」を肌で感じました。浦和は1次リーグE組でケディリ(インドネシア)、シドニー(オーストラリア)、上海申花(中国)と対戦。E組最弱クラブと目されていたケディリと埼玉スタジアムで戦った試合は3-0でしたが、実力差は「10-0で勝ってもおかしくない」レベルでした。ところが、2ヵ月後に敵地で対戦したケディリは、まるで“別人”のようでした。とにかく強かった。選手一人一人がメッチャ頑張るし、うまくなった感じさえしました。3-3で引き分けましたが、負けてもおかしくありませんでした。言い訳にしか聞こえませんが、両サイドはグチャグチャなのにゴール前だけ固かったり、ピッチコンディションに苦しめられました。

移動も気苦労が絶えませんでした。首都ジャカルタに降り立ち、国内便に乗り換えて2時間の距離に相手本拠地はありました。その乗り換え便の航空会社Gは、その年の3月に国内便が着陸に失敗して機体が炎上。死傷者130人の大惨事を起こしているのです。皆が完全にビビってしまい、誰も離陸後に出された機内サービスのオレンジジュースに手を出そうとしません。ボクが「事故を起こした後だからこそ、G航空は世界で一番、安全に気を配っているはずだ」と言っても、ほとんどの選手は「墜落すれば全員が死亡……」と緊張していました。いろいろありましたが、本当に負けなくて良かった!

●カカ、セードルフで決勝点
決勝トーナメントでは、全北現代、城南一和の韓国勢相手に勝ち上がり、決勝では、イランのセパハンを2試合合計3-1で下し、アジアクラブ王者タイトルを獲得しました。07年12月、日本でFIFA世界クラブ選手権が開催され、準決勝でイタリアの名門ACミランと対戦しました。後半23分にMFカカに左サイドを破られ、ゴール前でフリーのMFセードルフに決勝ゴールを叩き込まれました。相手は世界有数のビッグクラブ。結果は順当です。でも、ボク自身は「先に1点を取ったら勝てる」と感じながらプレーしていました。

後でDVDで試合を見直したら、確かにトラップの正確性やパススピードの速さなど違いはありました。けれど、ゴールマウスを背に90分間、彼我の戦いぶりを集中してみている限り、はっきりとした実力差は感じなかったし、勝つチャンスは十分にありました。ボクは強かった浦和の一員として世界に挑戦できたことを今でも誇りに思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月17日付掲載~

2011年6月24日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(03) 「監督と揉める」「自分が1番手じゃないとふてくされる」そんなレッテルを貼られた

G大阪での2002年シーズン前期終盤。起用法をめぐって西野朗監督と対立し、後期15試合は出場ゼロでした。「チーム内に居場所はなくなった」。そう感じていたところ、うれしい話が飛び込んできました。浦和レッズから正式オファーが届いたのです。

チーム間で移籍話が進み、浦和強化部の部長と大阪で会いました。その時に犬飼基昭社長(日本サッカー協会前会長)、森孝慈GM(元日本代表監督)、オフト監督(元日本代表監督)から高く評価されていると聞かされ、晴れ晴れとした気持ちになりました。ちなみに強化部長から最初に聞かれたのは「西野さんとの間に何があったのか?」でした。ボクは、ありのままを包み隠さずに話しました。

都築=「監督と揉める選手」というイメージが定着し、さらに「都築は1番手じゃないとふてくされてしまう」というレッテルを貼られていることは、自覚していました。「ちゃんとした競争原理の中で正GK争いができるのなら、たとえ2番手でも3番手でも構いません。これがボクの考え方です」。こう強化部長に伝えました。ウルサ型とみられていたボクをGKとして正当に評価した上でオファーを出してくれた浦和には、本当に感謝の言葉以外ありません。

余談ですが――。大阪市内のホテルで強化部長と会った時点で浦和への移籍話は、まだ正式にアナウンスする前の段階でした。話し合いが終わって部屋を出た瞬間、大勢のマスコミ関係者と出くわしてしまい、もうビックリ仰天でした。翌日のスポーツ紙などに「G大阪GK都築の浦和移籍決定!」と報じられたのですが、実はこの日、日本代表FW高原直泰(当時、磐田所属。現清水)のドイツ・ブンデスリーガ1部ハンブルガーSV移籍の記者会見が開かれ、大挙して押し寄せていたマスコミ関係者に「偶然に見つかった」というわけなのです。

浦和の正GKは、中京大を卒業して01年に入団したギシ(山岸範宏)でした。同い年のライバルです。03年開幕戦はギシが出場しましたが、それからはボクが先発することが多くなり、移籍1年目は20試合(山岸は10試合)に出場しました。プレースタイルもキャラクターも異なるギシとは、身近なライバルとして切磋琢磨する間柄でした。05、07、08年にボクは33試合に出場しましたが、浦和が初めてリーグを制した06年はギシが24試合に出場。ボクは11試合にとどまり、随分と悔しい思いをしたものです。周囲から「都築が移籍してきて山岸もうまくなった」と言われることがありましたが、ボクが浦和で通算198試合に出られたのも、ギシという好敵手がいて自分自身もレベルアップすることができたからだと思っています。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月16日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(02) 大逆転負けの後、西野監督にホテルの部屋に呼ばれ、突然、切り出された

●「一緒にサッカーができない」
G大阪2年目にJリーグ出場を果たし、3年目・2試合、4年目19試合、そして5年目の2001年シーズンは29試合に出場しました。6月に開催されたコンフェデレーションズ杯のブラジル戦で日本代表としての初キャリアを刻むこともでき、ボク自身も高いモチベーションを持ちながらプレーしていました。翌02年も開幕から正GKとしてゴールマウスを守りました。

しかし、8月3日のJリーグ前期第12節の磐田戦が、大きな転機となりました。後半37分まで4-2とリードしながら、終わってみれば4-5と大逆転負けを喫し、前期優勝が絶望的となりました。次節の東京V戦の前夜、宿泊先のホテルでのことです。西野朗監督に呼ばれて「おまえのことは信頼している。しかし、明日の試合には使わない。フィジカル、メンタルを含めて状態の良い選手を使いたい。今は松代(直樹=現G大阪ユースGKコーチ)を評価している」と通告されたのです。若気の至りと言ってしまえばそれまでなのですが、ボクは口にしてはいけないことを言ってしまいました。「信頼しているなら使って下さい。外すということは、信頼していないということになります」

結局、磐田戦後の前期残り3試合は先発落ちが続きました。このことはスポーツ紙に大きく報じられました。ボク自身も「西野さんとは一緒にサッカーができない」と報道陣に話してしまい、すると「都築が決別宣言!」と書き立てられ、大きな反響を呼んでしまったのです。振り返ると冷静さを欠いていました。いや、感情的と言っていいかも知れません。

●「都築と話をするな」
後期開幕戦の横浜M戦(8月31日)の前日、西野監督と話し合いを持った時にも「ベンチではチームをサポートできない。メンバーから外して欲しい」と口走ってしまいました。選手起用は監督の専権事項です。「試合に出して欲しい」と訴えるならいざ知らず、「先発できないのならメンバーから外して欲しい」なんて前代未聞。とんでもない話です。プロとして間違った言動を取ったことに西野監督、スタッフ、サポーターに改めて「迷惑を掛けました」と言いたいと思います。

02年後期、チームは過去最高位の2位に入りました。西野監督は、就任1年目に素晴らしい結果を残しました。選手起用は正しかったのです。この一件で学んだことは「外された時にこそ不平不満を封印し、一生懸命に練習して捲土重来を期す」。感情的になってはいけない――は言うまでもないでしょう。プロ野球でもそうですが、サッカー界でも「監督批判はご法度」です。あの頃、G大阪のチームメートがボクと明らかに一線を画していました。チーム内に「都築と話をすると監督に嫌われる」という雰囲気があったようにも思います。ともあれ、当時は「選手生命は終わってしまった」と思ったこともありました。それだけに浦和レッズから届いたオファーには、本当に勇気づけられました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月15日付掲載~

2011年6月21日火曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(01) 割り切れない気持ちで参加したチャリティーマッチ

●「トンネルしたらカッコ悪いなぁ」
GKグローブをはめてゴールマウスの前に立ったのは……6ヵ月ぶりになるかな。現役時代から緊張しないタイプだったけど、さすがにブランクも長いし、緊張というよりも「トンネルしたらカッコ悪いなぁ~」と不安もよぎりました。

4日に鹿島スタジアムで行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチ「FOOTBALL STARS AID」に出場しました。元日本代表監督ジーコ率いる鹿島OBチームと、元Jリーガー選抜チームが対戦しました。ボクは元日本代表の小島伸幸さんと元JリーガーチームのGKを務めました。後半から出場したのですが、自殺点を含めて2失点でした。試合はジーコが見事な先制点を決めたり、とても盛り上がりました。

そうそう、ジーコに先制ゴールを決められた(小島)ノブさんが練習中に「(ボールのスピードに)目を慣らさないと」と言って笑わせてくれ、チームの緊張を和らげました。45歳の大先輩ノブさんが、現役を引退されたのは6年前。確かに「目を慣らす」は切実な問題ですが、試合序盤には素晴らしいセーブを披露され、慣習を大いに沸かせました。現役選手の頃から周囲を和ませてくれる楽しい人でした。

●選挙に落選したのに「議員さん」
正直に言います。今回のチャリティーマッチに誘われた時、一度はお断りさせていただいたのです。ボクは2月に引退した後に「埼玉維新の会」を設立して、4月10日に投開票された埼玉県議選(南11区・定数1)に無所属新人として立候補しました。結果はトップ当選者と3000票余りの差で次点に終わり、涙をのみました。政治の道を志し、落選して時間も経っていないのにサッカーをやることにボク自身、割り切れないものがあったのです。

そんな時に鹿島OBチームでプレーされた元代表DFの秋田豊さんから「なぜ断ったの? 落選したからこそ『レッズGK都築龍太』として出ないといけないよ」という電話をいただきました。前日練習の時に顔なじみの選手たちから「議員さん」と呼ばれるたびに「いや、落選しましたから」と苦笑いをするしかありませんでしたが、試合中にトンネルをすることもなく(笑)、有意義な時間を過ごすことができました。お世話になった人に恩返しをと思ってチャリティーマッチに参加し、本当に良かったと思います。今後もこういう機会がありましたら、微力ではありますが、復興支援のお手伝いをできたらと思っています。

ボクは生まれ故郷の奈良県から長崎・国見高にサッカー留学し、卒業した97年にG大阪入りしました。6シーズン目の02年は忘れることのできない年になりました。ボクは西野朗監督に選手として言ってはならないことを口走ってしまい、翌03年にはチームを去ることになったのです。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月14日付掲載~

2011年6月5日日曜日

2011年5月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

5月2日付
「菅の宣伝と延命に手を貸しているだけ この顔ぶれ、何が目的でこんな無意味な会議に参加しているのか」
5月5日付
「菅首相のままなら間違いなく崩壊するこれだけの理由 希望もなく絶望もなくケセラセラ」
5月7日付
「亡国の菅首相の存在 菅存命に国民は絶望的気分」
5月9日付
「この国はフシギだ 『なぜ』が多過ぎる津波と原発」
5月10日付
「この国の行方に庶民から悲観論 嘘つき菅政権が語らない真相」
5月11日付
「福島原発は本当はどうなっているのか 旧自民以上、菅政権の反国民性」
5月12日付
「『死の町』さながらの夜の東京 震災・原発災害・菅無能政府でこの国は」
5月13日付
「この国を予想 震災大不況は来るのか来ないのか」
5月14日付
「菅と小沢、どちらが悪いか 血迷う菅首相、力なき小沢一郎」
5月16日付
「この国の科学技術は低開発国レベル 根本的対策全くなしの恐怖」
5月17日付
「震災2ヵ月、拡大する災厄 最悪政権を即刻代えろの声」
5月18日付
「亡国の挙、劣悪政府の居直り 2ヵ月も過ぎて予算も財源もなぜ決まらない」
5月19日付
「怪物化した福島原発 政府・東電は絶対真相を語らない」
5月20日付
「虚妄の楽観的言説 お先真っ暗この国の景気経済の行方」
5月21日付
「誰にも分からぬ見通し 国家崩壊の始まりのこれから」
5月23日付
「現政権で対応はとても無理 沈黙の小沢一郎やっぱり無力か」
5月24日付
「亡国内閣の諸相がもたらすもの 今首相交代こそ重大な意義がある」
5月25日付
「海水注入中断の真相 原発災害は菅政権の対応に真因」
5月26日付
「菅は無能の上に極めてズルい ニヤつく卑劣漢に危機のこの国は任せられない」
5月27日付
「この国の科学技術低レベルの実情 すべて嘘と利権で動くこの国」
5月28日付
「震災が暴露、自民党はつくづく悪党だった 国難に『脱小沢』で果たしていいのか」
5月30日付
「フランスに逃亡中の菅首相に国民の視線 帰国後クビになる可能性」
5月31日付
「『菅内閣不信任』は理の当然 永い闇を彷徨するこの国のこれから」

2011年4月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

4月1日付
「問題は『美徳』とされる国民性 『忍耐』や『我慢』が為政者の思うツボ」
4月2日付
「福島原発放射能の真相 東京に住んでも大丈夫なのか」
4月4日付
「被災の現実と空虚な楽観論 この国では指導層を信じたらバカを見る」
4月5日付
「菅無能有害首相は何のために被災地視察に出かけたのか 無用な会議乱立のデタラメ対策ばかり」
4月6日付
「右往左往お手上げの官邸 このまま菅政権なら絶望のこの国」
4月7日付
「大地震で民主政策はすべて破算 再び画策する疫病神仙谷を断罪する」
4月8日付
「被災地惨状報道はもう沢山だ この国の経済・産業・景気のこれからはどうなるのか」
4月9日付
「この世に希望はあるか、それを考えたくなる福島原発災害への菅政権と東電と報道の対応 原発と津波被災のこれから」
4月11日付
「お先真っ暗、八方ふさがりのこの国 日を追って絶望的気分広がる」
4月12日付
「民主党大惨敗の重大選挙結果 これで辞めなければ菅は国賊」
4月13日付
「数多の魑魅魍魎が蠢き始めた 東北の復興のこれからの茨の道」
4月14日付
「まるで難民キャンプ 震災・原発・被災民を放置する菅無能政権を追及」
4月15日付
「福島原発恐怖の結末 シミュレーション炉心溶融から爆発まで」
4月16日付
「菅首相はまさに無能だ どうなるどうするこの国のこれから」
4月18日付
「【昔】軍部批判は『国賊』といわれた 【今】『菅無能首相批判』を有事だからやめろと合唱されている 震災後菅首相の右往左往と日本の復興」
4月19日付
「行方知れずの原発と復興 暗中模索の菅政府ではとても無理」
4月20日付
「誰も信じない東電の原発収束工程表 東電は賠償を払うのか税金が使われるのか」
4月21日付
「どちらが正しいのか 大震災を利用して政権延命の悪辣」
4月22日付
「首相のアタマは変だ マトモな思考力・判断力なき指導層の歴史」
4月23日付
「この危機に私利私欲の菅政権 このままやらせたらどうなるこの国」
4月25日付
「菅退陣で識者13人の見方 ドン底へ向かうこの国の解決策 政権交代は間違っていたのか」
4月26日付
「誰も語らない恐怖 『立ち直る日本』の本当の真相」
4月27日付
「なぜ福島原発を封印しないのか 真相が分からぬ福島原発の現在」
4月28日付
「国民負担はいくらになる 庶民の収入と生活は極貧へ向かいそう」
4月29日付
「この危機に菅直人が首相である偶然の凶事 塵埃の中で懊悩する庶民の生活」
4月30日付
「放射能地帯の真相 『この国は立ち直る』のウソとマコト」