2011年6月24日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(02) 大逆転負けの後、西野監督にホテルの部屋に呼ばれ、突然、切り出された

●「一緒にサッカーができない」
G大阪2年目にJリーグ出場を果たし、3年目・2試合、4年目19試合、そして5年目の2001年シーズンは29試合に出場しました。6月に開催されたコンフェデレーションズ杯のブラジル戦で日本代表としての初キャリアを刻むこともでき、ボク自身も高いモチベーションを持ちながらプレーしていました。翌02年も開幕から正GKとしてゴールマウスを守りました。

しかし、8月3日のJリーグ前期第12節の磐田戦が、大きな転機となりました。後半37分まで4-2とリードしながら、終わってみれば4-5と大逆転負けを喫し、前期優勝が絶望的となりました。次節の東京V戦の前夜、宿泊先のホテルでのことです。西野朗監督に呼ばれて「おまえのことは信頼している。しかし、明日の試合には使わない。フィジカル、メンタルを含めて状態の良い選手を使いたい。今は松代(直樹=現G大阪ユースGKコーチ)を評価している」と通告されたのです。若気の至りと言ってしまえばそれまでなのですが、ボクは口にしてはいけないことを言ってしまいました。「信頼しているなら使って下さい。外すということは、信頼していないということになります」

結局、磐田戦後の前期残り3試合は先発落ちが続きました。このことはスポーツ紙に大きく報じられました。ボク自身も「西野さんとは一緒にサッカーができない」と報道陣に話してしまい、すると「都築が決別宣言!」と書き立てられ、大きな反響を呼んでしまったのです。振り返ると冷静さを欠いていました。いや、感情的と言っていいかも知れません。

●「都築と話をするな」
後期開幕戦の横浜M戦(8月31日)の前日、西野監督と話し合いを持った時にも「ベンチではチームをサポートできない。メンバーから外して欲しい」と口走ってしまいました。選手起用は監督の専権事項です。「試合に出して欲しい」と訴えるならいざ知らず、「先発できないのならメンバーから外して欲しい」なんて前代未聞。とんでもない話です。プロとして間違った言動を取ったことに西野監督、スタッフ、サポーターに改めて「迷惑を掛けました」と言いたいと思います。

02年後期、チームは過去最高位の2位に入りました。西野監督は、就任1年目に素晴らしい結果を残しました。選手起用は正しかったのです。この一件で学んだことは「外された時にこそ不平不満を封印し、一生懸命に練習して捲土重来を期す」。感情的になってはいけない――は言うまでもないでしょう。プロ野球でもそうですが、サッカー界でも「監督批判はご法度」です。あの頃、G大阪のチームメートがボクと明らかに一線を画していました。チーム内に「都築と話をすると監督に嫌われる」という雰囲気があったようにも思います。ともあれ、当時は「選手生命は終わってしまった」と思ったこともありました。それだけに浦和レッズから届いたオファーには、本当に勇気づけられました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月15日付掲載~