2011年6月28日火曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(04) 全盛期の浦和はACミランにヒケを取らなかった

03年に移籍した浦和では、Jリーグや天皇杯のタイトル獲得はもちろんですが、07年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)を勝ち抜いてアジアクラブ王者になったことも、素晴らしい思い出として残っています。

ACLでは「アウェイの怖さ」を肌で感じました。浦和は1次リーグE組でケディリ(インドネシア)、シドニー(オーストラリア)、上海申花(中国)と対戦。E組最弱クラブと目されていたケディリと埼玉スタジアムで戦った試合は3-0でしたが、実力差は「10-0で勝ってもおかしくない」レベルでした。ところが、2ヵ月後に敵地で対戦したケディリは、まるで“別人”のようでした。とにかく強かった。選手一人一人がメッチャ頑張るし、うまくなった感じさえしました。3-3で引き分けましたが、負けてもおかしくありませんでした。言い訳にしか聞こえませんが、両サイドはグチャグチャなのにゴール前だけ固かったり、ピッチコンディションに苦しめられました。

移動も気苦労が絶えませんでした。首都ジャカルタに降り立ち、国内便に乗り換えて2時間の距離に相手本拠地はありました。その乗り換え便の航空会社Gは、その年の3月に国内便が着陸に失敗して機体が炎上。死傷者130人の大惨事を起こしているのです。皆が完全にビビってしまい、誰も離陸後に出された機内サービスのオレンジジュースに手を出そうとしません。ボクが「事故を起こした後だからこそ、G航空は世界で一番、安全に気を配っているはずだ」と言っても、ほとんどの選手は「墜落すれば全員が死亡……」と緊張していました。いろいろありましたが、本当に負けなくて良かった!

●カカ、セードルフで決勝点
決勝トーナメントでは、全北現代、城南一和の韓国勢相手に勝ち上がり、決勝では、イランのセパハンを2試合合計3-1で下し、アジアクラブ王者タイトルを獲得しました。07年12月、日本でFIFA世界クラブ選手権が開催され、準決勝でイタリアの名門ACミランと対戦しました。後半23分にMFカカに左サイドを破られ、ゴール前でフリーのMFセードルフに決勝ゴールを叩き込まれました。相手は世界有数のビッグクラブ。結果は順当です。でも、ボク自身は「先に1点を取ったら勝てる」と感じながらプレーしていました。

後でDVDで試合を見直したら、確かにトラップの正確性やパススピードの速さなど違いはありました。けれど、ゴールマウスを背に90分間、彼我の戦いぶりを集中してみている限り、はっきりとした実力差は感じなかったし、勝つチャンスは十分にありました。ボクは強かった浦和の一員として世界に挑戦できたことを今でも誇りに思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月17日付掲載~