2011年8月27日土曜日

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(下)

――家にはサッカーが出来る設備をつくりましたか?
「リビングルームに野球ほどの小さいボール、硬いボール、軟らかいボール、スポンジみたいなボールなど5つくらい転がしていたくらいです。大きいボールでリフティング出来たら、小さいボールで出来るように、足の感覚を養うためにいろんなボールを使うことが大切なんです」
――仕事の合間を縫っては練習に付き合ったりしたのですか?
「学校のグラウンドへ行って、『校長先生に(使用する)許可をもらってきなさい』とよく息子を職員室へ行かせたもんです。練習時間は学校が終わってから7時半くらいまで。コーンを置いて、グネグネしてドリブルさせて、僕がタイムを計る。遅くて正確には誰でも出来るからタイムだけは気にしていた。持ち味の足も無駄になってしまうし」
――練習時間はどれくらいですか?
「土、日はあざみ野FCで一日中練習し、平日は週1、2回1時間半くらいクーバー・コーチングというサッカー教室で練習。その後は公園で練習。雨の日は車を移動させて屋根つきの4台ほど置ける広さの駐車場で練習させた」
――奥さんのサポートは大きかったですか?
「妻なしではここまでこられないよね。食事は出来るだけ手を加えていたものを食べさせていた。でも嫌いなものは残させる。僕も息子もニンジンが嫌いでね。無理やり食べさせるとかえってストレスになる。食事の時間も苦痛になる。栄養は他のもので補えるし」
――学校との両立はどうしていたのですか。
「あるとき宿題をやらなくなることがあった。宿題はサッカーの練習から帰ると夜10時前くらいになる。宿題は先生との約束ごとでしょう。僕はやれないことは約束するなという考え。つまりウソをついてはダメ。先生に出来ないと言ってきなさい。そうしたら堂々と学校に行ける。3人とも先生に言ったら大輔の先生だけ『分かった。ただ出来る時にはやりなさい』と言われたそうです。なので僕もそれなら出来る時にやりなさいと」
――先生は怒ったのではないですか?
「でもおまえの夢は何だって聞いたら『サッカー選手だ』と。そしたらサッカーを中心にものを考えなさいと。学校は義務教育だから行かなきゃいけない。それにある程度知識がないと生きていけない。でも勉強はサッカーが終わってからでも出来る。僕が今から東大に入ろうと思って勉強したら入れるかもしれないじゃない。サッカー選手にはなれないけど」
――練習以外ではどのような指導を?
「ジダン、バッジオ、ロナウドとか一流の選手のテクニックをビデオで見せてあげた。50本はあるね。僕は自分でやって見せて教えることは出来ない。でも見て覚えることは大事。ビデオで世界の一流プレイヤーを見ていたから、Jリーグを見せても意味あるのかなあと思って日本の試合はあまり見せなかったな」
――私生活面ではどんなアドバイスをしていますか?
「私生活がダメな人はいい選手になれない。例えば試合の前の日だけ早く寝てもコンディションは保てない。インタビューでも『きょうはさ、絶対勝ちたかったよね』と『~さ』とか『~ね』とか言う選手がいる。そういうインタビューが僕は大嫌い。子供たちにはインタビューの時にはしっかり話をしなさいとよく言ってます」
――長男は高校3年生の時に風間(八宏)氏の息子とセビリアFC(スペイン)のユースチームに2週間留学しましたね?
「プレーの仕方も、体のでかさも、意識も違う。刺激を持って帰ってくるよね。次男もオランダのユトレヒトに行く時は文化と言葉を早く覚えろと。野球界でも、活躍している外国人選手は言葉も覚えるし、文化も取り入れる。また向こうでは突っ張れと。彼らは自分の意見がしっかりしている分、自分が悪くても謝らない。というのは認めたら自分の責任になるから。謝らないといけないというのは日本人的感覚だし、彼らは謝らなくても(謝らないことを悪いと)思わないからね。まあ、でも行く時は親に相談なんて全くなかったんだけどね」 (おわり)


▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。


~日刊ゲンダイ 2011年8月8日付掲載~

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(中)

――競技は違いますが野球もサッカーも共通する点があるのではないですか?
「どの競技でもスポーツの基本は一緒。個々の選手がベストな状態でプレーすることがチームワークで、仲がいいことじゃない。ある試合で、フォワードの息子がセンタリングされたボールをゴール前で空振りしたことがあった。足に当てれば入るのに。チームメートがしんどい思いをしてパスをしたのに、おまえが下手だとチームワークはガタガタだよと。もっと練習して得点することがチームワークだと話をした。技術は僕が勉強するのではなく子供が勉強すること。だから大人は精神的なものを教える」
――プロとしての考え方はいかがですか?
「僕の父親はサラリーマンで事務系。だから僕はプロ意識はなかったかも知れないが、子供たちにプロの考え方を植えつけることは出来たと思う。例えば給料のうち生活費は半分で十分だとする。余った半分は貯金でしょう? 僕はそれを全部使い切れと言います。そのおカネが大金だと思うとそれ以上のおカネは稼がなくなる。チマチマするな。自然と貯まるようになって初めてプロだ。そういう感覚はプロとして持っておかないといけない」
――高木さんはプロになれと積極的に勧められたのですか?
「高校に進学するときの高校選びの時とかに家族会議を開いた。高校サッカーもあるし(Jリーグの)ユースもある。サッカーをやめることも留学する道もある。それぞれのいい面、悪い面をいろいろ説明して自分で選びなさいと。選択肢は広くしてあげないとね。別にプロにならなくてもいいと言ってました。大人になってやりたいことが見つかれば別なことをやればいい」
――それでも結局、プロに進みましたね。
「長男は最初だから、どこの高校に行くか、このまま契約してプロに行くか、相当悩んだ。サッカーの早慶戦を見に行ったりしていた」
――最後は子どもに決めさせたのですね。
「プロになったからといって(親が)喜ぶわけではない。おまえの人生だし、自分の好きな道を選べと。この高校に行って大学に行かないと一流企業に行けないよ、と言って子供を追い込むことをしたくなかった。よく子供の教育のことで、麻布高から東大に行ってというのがよくありますよね。そういうのは教育ではないんです。でないと決定することができない子になる。何でも親に聞いてくるようなね」
――髪の毛の色ひとつも子供に決めさせるそうですね。
「次男が小学校4年のとき、髪の毛を染めたいと言ってきた。いいよと言った。試合になるとなぜか自分のファウルでないのにファウルにされる。大人を見たら(髪を染めている)おまえの方は悪い子に見えるし、髪の毛の色で人は判断しがちだ。身なりで損をしてはおまえが損だよと教えた。やらせてみないとわからないことってあるでしょう。世の中で難しいことは決定すること。決定の作業は責任を伴うから大変だけれどもとても大切なこと。その決定する力を小さい時から植えつけたかった」
――サッカー評論家の風間(八宏)氏と親交が深いと聞きました。
「ええ。息子のことも気に掛けてくれていたので、昔、息子が点が取れないんですよねえと話したら、『それは(親が)点を取れとか言ってるからですよ。子供は親が見に来てくれたらうれしいし、親の顔を見てプレーするようになる。だから言わない方がいいよ』とアドバイスをもらった」
――風間氏から技術面も教えてもらったのですか?
「僕が中心になってサッカーチームの保護者らとチームをつくったんです。風間さんもチームにいたので教えてもらいました。親が子供と同じポジションを守るのですが、これが難しくてね。ボールが1個ずれただけでボールが蹴れないわけだから。それからは何であそこで蹴れなかったんだ、と息子たちに言うのをやめました」 (つづく)


▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。


~日刊ゲンダイ 2011年8月6日付掲載~

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(上)

http://gendai.net/articles/view/sports/131887


~日刊ゲンダイ 2011年8月5日付掲載~

2011年8月11日木曜日

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(05) アメリカでサッカーの常識を覆された

広山望の所属するUSL(ユナイテッドサッカーリーグ=独立リーグ)には、他国にはない試合運営方法がある。「試合中に5人の選手が交代可能」「時に2日連続の試合を行う」「シーズンは半年」――。こうしたリーグ方式に最初、広山も戸惑った。「先発と合わせて最大16人の選手を使えるのでどんどん人が代わる。こんなに交代してもいいのかな、なんて思っていると最後に代わった選手が得点を入れて試合を決めたりする。面白いですよ」。選手交代枠5人は、連戦を乗り切るための方策である。

移動にも工夫を凝らす。ワシントンの南150キロにあるリッチモンドからフロリダまで移動する場合、選手は専用バスに乗って十数時間かけて移動する。そのバスにはベッドがあり、ぐっすり眠ることができる「バスは、大げさにいうとホテルみたいに大きいんです。前の方ではサッカーの試合映像が流れているし、移動中に選手同士のコミュニケーションもとれる。確かにバスで移動すれば経費も削減できるし、快適なので選手も肉体的、精神的にも楽になる。ボクは15年ぐらいプロでやってきていますが、アメリカは、いい意味で常識を覆してくれる。こういう経験が今のボクには必要だったのかな、と思ってます」

USLでは、下部組織の育成に力を入れているのも特徴だ。「アカデミー」と呼ばれる16歳以下と18歳以下のチームは全国リーグに参戦中だ。他にも4歳以下のチームから子どものレベルに合わせて多くのチームが組織されている。広山たちプロの契約選手は、こうした育成組織で指導を任されることもある。他クラブと比べ、リッチモンドには女子選手の数が多い。休日のピッチにはスポンサー企業のテントが立ち、親子連れも集まってくる。スクールや下部組織を含めたサッカーが《産業》としてアメリカに根付きつつあるのだ。

その一方で日本はといえば――。Jリーグが発足してもうすぐ20年になる。ドイツのスポーツクラブを参考に組織をつくり、どんどんチームを増やしていった。プロリーグを定着させた功績については評価できるが、クラブ増でレベルダウンを招き、選手は安い給料にあえいでいる。日本経済の地盤沈下とともにスポンサー企業は減り、子どもたちはサッカーに対して夢を抱けなくなっている。日本サッカーは、既成概念を捨てて新たな発想に取り組む時期にきている。そのヒントは、サッカー先進国・欧州のモデルケースにとらわれることなく、柔軟な発想でリーグを運営するアメリカにもある気がするのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太) =おわり


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(04) アメリカ独立リーグは選手が大人だ

6月のキリンカップに来日したペルー代表のことを某テレビ局は「格下」と表現していた。コパ・アメリカ(南米選手権)が好例だ。開催国アルゼンチンがボリビアに続いてコロンビアと引き分け、ブラジルは初戦でベネズエラとドローに終わった。南米には楽に勝てる国なんてない。一部のサッカー中継のアナウンサーや解説者は聞くに堪えないし、日本のスポーツメディアの常識と世界の常識は、いまだに大きくズレている。

ペルー同様、日本で軽んじられている国のひとつにアメリカがある。アメリカは、野球やアメフトなど4大メジャースポーツのイメージが強いが、近年、サッカーも飛躍的に力をつけてきている。W杯には6大会連続で出場し、02年はベスト8に、10年にはベスト16に入っている。

アメリカには元イングランド代表MFベッカムや、元フランス代表FWアンリがプレーしているMLS(メジャーリーグサッカー)というプロリーグがある。広山望がプレーするリッチモンド・キッカーズは、下部組織に相当するUSL(独立リーグ)に所属している。MLSとUSLの交流は盛んで選手の移籍も多い。先日、リッチモンドはUSオープンカップでMLSのコロンバス・クルーに勝利した。そのレベルは決して低くない。

「(リッチモンドの)チーム戦術を比べたら、J1のクラブには劣ると思います。ただ、個人のフィジカル、個人技は非常に高いし、伸びしろもすごくあると思います」。リッチモンドにはブラジル人やドイツ人、あとウガンダやシエラレオネなどアフリカ諸国の代表級選手も所属している。彼らはアメリカの大学を経由してチームに加わっている。これはUSLの特徴である。

「他国リーグと比べると選手が人間としてしっかりしているし、何よりも大人という感じが一番しますね。(年俸が高くないので)サッカーだけやっていればいい――というわけにはいかないことも関係しているかも知れませんが。あくまでメーンはサッカーですが、USLには、社会といろいろなつながりを持っている選手が多いですね」。Jリーグの高卒選手はプロ入り後、数年で解雇される例が多い。かねて社会経験のない元Jリーガーのセカンドキャリアが問題になっているが、アメリカでは「大学を経由する」ことで解決しようとしている。

日本サッカーが、急速に力をつけたことは事実である。しかし、J2は経営が揺れているクラブもあるし、選手は低年俸に喘いでいる。選手の社会教育も十分とはいえない。“格下”アメリカから学ぶべき点はある。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月9日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(03) プレーに先入観を持たれ、それが自分を縛ってしまう

広山望がアメリカ行きを考えたのは、昨年11月のことだった。所属していたJ2草津から「契約延長を行わない」と通告されたからである。10年シーズン、背番号10の広山は38試合中29試合に出場していた。「試合に多く出ているとか、出ていないとか、契約とは関係ないんじゃないですか? チームとして何らかの刺激を与えるために、こうした通告はあるかもしれないという予感はありました」。広山はこう冷静に振り返るが、実に厳しい現実である。この時、彼は33歳になっていた。明らかに年齢によって断行された“リストラ”だった。

選手の節制、栄養学の進化、フィジカルトレーニングの効率化などにより、世界的に選手寿命は伸びている。日本代表監督だったジーコは、マスコミに対して「30歳以上の選手を安易にベテランと呼ばないでくれ」と頼んだことがあった。にもかかわらず、日本では選手を年齢で区切ることが少なくない。

08年シーズン末、東京Vが2度目のJ2降格の憂き目にあい、チーム予算を減らすために自動的に「高額年俸」と「30歳以上」の選手と契約しなかったことがあった。選手の価値を測るにはピッチ内外で多くの変数が存在する。経験や頭脳で加齢によって衰える瞬発力は、それなりに補うことができる。クラブの経営側が、選手の価値を目利きすることができないから、手軽に年齢で区切ろうとするのだ。

草津を離れることになった広山は、知人を介してアメリカのサッカー関係者に自分のプレーを集めたDVDを渡してもらった。その中で練習参加に招待されたのが、独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズだった。アメリカでの3日間の練習参加の後、1人だけ幹部に呼ばれて契約したいと言われた。「Jリーグで何年もやっていると、自分のプレーイメージに先入観を持たれてしまう。また、そのイメージを耳にすることで自分自身が縛られてしまうこともある。それに対して、アメリカ人に思ってもいなかったプレーを褒められると、選手として生き返ったような感覚がしましたね」

日本には、有望な若手選手が多く生まれてきている。そんな若手が、経験値の高い選手と一緒にプレーすれば学ぶことはゴマンとある。日本のサッカー界は、広山に限った話ではなく、有為な人材を数多く無駄にしていると思う。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月8日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(02) 欧州では本田圭はどうしても取りたい選手ではない

広山望は、早くから将来を嘱望される選手だった。20歳以下の日本代表として97年世界ユース選手権でベスト8入りしている。この時のメンバーには中村俊、柳沢、宮本恒らがいた。広山は背番号8をつけていた。

若手選手は、ちょっとしたことがきっかけでサッカー人生が変わる。広山がC大阪でプレーしていた時代、ユースチーム所属の柿谷曜一朗が、トップの練習の参加していた。「あの年代では抜群にうまかったですよ。でも、C大阪ではうまくいかなかった。うまい選手が、そのまま代表などに駆け上がっていくわけではないのです。もちろん柿谷も徳島(J2)で頑張っているので、また挽回するかもしれませんけど」。06年に16歳でプロになり、07年U-17W杯に出場した柿谷は、09年シーズン途中で徳島に出された。

柿谷をはじき飛ばしたのは、1学年上で07年にレギュラーを獲得した香川真司である。後に独ドルトムントで大活躍する香川と広山は、C大阪では“入れ違い”だった。「ボクがC大阪を離れた翌06年、香川が入団してきた。その頃から凄い選手だったけど正直、あそこまで行くとは思っていなかった。いいチームに行きましたね」。広山は、ポルトガルとフランスではチームの方向性とかみ合わず、なかなか出場機会に恵まれなかった。助っ人外国人選手がチームに馴染むかどうか、それには監督や選手たちの受け入れようとする度量の広さが関わってくる。それがドルトムントにはあった。

さらに広山は、自身の経験から国外のクラブでは、突出した“何か”が必要になる、と言う。「たとえば本田圭は非常にいい選手だし、チームを前に進める力があります。欧州のトップチームでも十分に通用すると思います。ただ、どうしても本田を取りたいか、というと話は別、本田圭のようなバランスの取れた選手は世界中にいる。やはり機動力のある香川やインテルの長友の方が、欧州では評価されやすいと思います」。もちろん、本田圭にも強力な武器はある。「何よりも魅力はあのフリーキックです。彼が蹴れば得点の可能性は高まるし、アシストも増えていく。欲しいチームは多くあると思いますよ」

日本サッカー界は、往々にしてバランスの取れた選手を育成することに目が向きがちである。しかし、世界で認められるのはそうではない――。広山自身、サッカー選手としては線が細い。それでも欧米各国から評価されたのは、サイドでのスピーディーなドリブルだった。突出した個性があれば、世界で光ることは出来るのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月6日付掲載~