2011年8月27日土曜日

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(中)

――競技は違いますが野球もサッカーも共通する点があるのではないですか?
「どの競技でもスポーツの基本は一緒。個々の選手がベストな状態でプレーすることがチームワークで、仲がいいことじゃない。ある試合で、フォワードの息子がセンタリングされたボールをゴール前で空振りしたことがあった。足に当てれば入るのに。チームメートがしんどい思いをしてパスをしたのに、おまえが下手だとチームワークはガタガタだよと。もっと練習して得点することがチームワークだと話をした。技術は僕が勉強するのではなく子供が勉強すること。だから大人は精神的なものを教える」
――プロとしての考え方はいかがですか?
「僕の父親はサラリーマンで事務系。だから僕はプロ意識はなかったかも知れないが、子供たちにプロの考え方を植えつけることは出来たと思う。例えば給料のうち生活費は半分で十分だとする。余った半分は貯金でしょう? 僕はそれを全部使い切れと言います。そのおカネが大金だと思うとそれ以上のおカネは稼がなくなる。チマチマするな。自然と貯まるようになって初めてプロだ。そういう感覚はプロとして持っておかないといけない」
――高木さんはプロになれと積極的に勧められたのですか?
「高校に進学するときの高校選びの時とかに家族会議を開いた。高校サッカーもあるし(Jリーグの)ユースもある。サッカーをやめることも留学する道もある。それぞれのいい面、悪い面をいろいろ説明して自分で選びなさいと。選択肢は広くしてあげないとね。別にプロにならなくてもいいと言ってました。大人になってやりたいことが見つかれば別なことをやればいい」
――それでも結局、プロに進みましたね。
「長男は最初だから、どこの高校に行くか、このまま契約してプロに行くか、相当悩んだ。サッカーの早慶戦を見に行ったりしていた」
――最後は子どもに決めさせたのですね。
「プロになったからといって(親が)喜ぶわけではない。おまえの人生だし、自分の好きな道を選べと。この高校に行って大学に行かないと一流企業に行けないよ、と言って子供を追い込むことをしたくなかった。よく子供の教育のことで、麻布高から東大に行ってというのがよくありますよね。そういうのは教育ではないんです。でないと決定することができない子になる。何でも親に聞いてくるようなね」
――髪の毛の色ひとつも子供に決めさせるそうですね。
「次男が小学校4年のとき、髪の毛を染めたいと言ってきた。いいよと言った。試合になるとなぜか自分のファウルでないのにファウルにされる。大人を見たら(髪を染めている)おまえの方は悪い子に見えるし、髪の毛の色で人は判断しがちだ。身なりで損をしてはおまえが損だよと教えた。やらせてみないとわからないことってあるでしょう。世の中で難しいことは決定すること。決定の作業は責任を伴うから大変だけれどもとても大切なこと。その決定する力を小さい時から植えつけたかった」
――サッカー評論家の風間(八宏)氏と親交が深いと聞きました。
「ええ。息子のことも気に掛けてくれていたので、昔、息子が点が取れないんですよねえと話したら、『それは(親が)点を取れとか言ってるからですよ。子供は親が見に来てくれたらうれしいし、親の顔を見てプレーするようになる。だから言わない方がいいよ』とアドバイスをもらった」
――風間氏から技術面も教えてもらったのですか?
「僕が中心になってサッカーチームの保護者らとチームをつくったんです。風間さんもチームにいたので教えてもらいました。親が子供と同じポジションを守るのですが、これが難しくてね。ボールが1個ずれただけでボールが蹴れないわけだから。それからは何であそこで蹴れなかったんだ、と息子たちに言うのをやめました」 (つづく)


▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。


~日刊ゲンダイ 2011年8月6日付掲載~