2011年7月21日木曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(08) 知人→ステキな男性に“昇格”のきっかけは…

ツイッター、フェイスブック、ミクシィ……。ほとんどの女のコは“デジタル日記”を愛用し、他人とのつながりをいつも大事にしています。携帯電話やパソコンを使って、何だか器用そうに見えますが、難なくITツールを使いこなせているかといったら、そうでもなかったり……。

私もそんなITオンチのひとりですが、それでも頑張って初期設定し、つぶやき始めました。ところが、画像処理のノウハウがなく、画像のサイズ比率がうまく合わせられない。せっかくキメ顔で撮影した写真でも、アップすると、実物より横広な顔になってしまいました。

すると、アップして間もなく、知り合いの男性(39)から、「顔写真が膨張しちゃってる。実物と全然違うから残念だよ」といったフォローがあったのです。そのひと言のうれしかったこと! 他人から見れば大したことのない、ささいなことでも、女のコにとっては“一大事”。そんな小さなトラブルを察知してくれる男性は「この人、分かってる!」と好印象につながりやすいのです。その知人は、画像処理の仕方を丁寧にレクチャーしてくれました。キレイな肌に見せるように軽く修正までかけてくれました(笑)。

ささいなことがきっかけで、知人→ステキな男性に“昇格”。これって、女性には、まま「アル」と思います。


☆わたなべ・のりこ 10代で水商売の世界へ。さまざまな恋愛や人間関係の経験をもとにセラピストとして独立。現在は恋愛、結婚、夫婦問題のカウンセリングや講演などを行う。公式ブログhttp://ameblo.jp/liberation-heart/


~日刊ゲンダイ 2011年6月1日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(07) 褒め方が分からない!

「叱るより褒めるのが分からないんだよなあ」。メーカー勤務のAさん(43)はバリバリの管理職。自信満々で働いているとお見受けしていたのですが、意外や、若いOLさんを持て余しているようでした。「うたぐり深いタイプで、言葉の裏を読もう読もうとする。褒めれば、<前置きはそのぐらいにしてください>と聞く耳を持たない。こっちは他意はないのに、どうしたもんだか……」

管理職は大変だなあと思いつつ、私はそのOLさんの気持ちも分かります。なぜって? 私自身がうたぐり深い性格だからです。Aさんの話を聞いた当時は思いつきませんでしたが、カウンセリングの仕事を始めてから気づかされたエピソードがあります。

「アナタは、上司の方から頼りにされているんですね」。お世話になっている得意先の人から、私の仕事ぶりについて上司が褒めていたと聞かされたことがありました。そのうれしかったこと! 上司から面と向かって優しい言葉をかけてもらったことはなかったのですが、直接褒められるよりグッと心に響きました。今から思えば、それは上司の“計画的犯行”だったのでしょう。うたぐり深い私の性格を踏まえた作戦。でも、まんまとハマってしまいました。

褒め言葉は、本人から直接聞くより第三者を介した方が、信憑性が増すことを実感しました。外部の人から褒められて悪い気はしないですし、ヘソ曲がりな若いOLさんも警戒せずに喜ぶのでは? 彼女たちをやる気にさせるのも、意欲を失わせるのも、上司の腕次第。皆さんにオススメしたい人心掌握テクです。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月25日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(06) Re:Re:Re:Re:Re:が好き

「自分は心配性だ」という30代歯科医のお客さまがいました。静かに飲まれる方でしたが、その日は落ち込んでいる様子でした。「どうされたんですか?」と尋ねると、意中の20代女性に送ったメールの返事が、「そっけなかった」。何でも、返信メールの件名がそのまま<Re:>で戻ってきたというのです。

「これって、脈なしメールの典型でしょ?」 その方はたった一度のやり取りでそう決めつけていたので、私はこう話しました。「そうとは限りません。私の場合、Re:Re:Re:……と、たくさん続けば続くほど、<私たちはこんなにやりとりをしてる!>ってうれしくなりますよ」

私の友人の中にもRe:メール愛好者は結構います。年齢は20代前半から半ばの若いコに多いでしょうか。そういうちいさなことに喜びや、つながりを感じるのです。その後、歯科医の方は、再チャレンジされ、無事にRe:マークが十数回続くほどのメル友になり、食事デートをする仲になりました。
一方で、メール依存症で連日連チャンで送り続ける50代会計士の方もいました。<もう少し一緒にいたかったよ> 別れた直後にもかかわらず、まめにメールを送っていたそうですが、男性が軽々しくそぶりのあるメールを送るのはお勧めできません。女性は例外なくアマノジャクな生き物ですから。

女性からのメールで、<また今度>という言葉は要注意。「今度とお化けは出たことがない」などといいますが、その通り。お客さまに<また今度>とレスして、誘いに乗ったことは過去に一度もありません、私も。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月18日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(05) 「貯蓄額いくら?」はタブー

<気になっている女のコの貯蓄額が知りたい> 42歳の読者の方から、こんな質問が寄せられました。どうやら、デートに誘う前に彼女の生活レベルが知りたいようです。

ホステス時代の同僚、ゆきなチャン(20代半ば)は、昼間は化粧品の販売部員として働いていましたが、月給15万円足らず。生活費の足しに、週3日の夜のバイトで稼いでいました。もちろん、水商売のバイトは禁止ですが、ある日突然、会社の上司が店にやって来て、ゆきなチャンは大慌て。源氏名で指名をしたので、計画犯で乗り込んできたのは間違いありませんでした。「ゆきなです、ご指名ありがとうございます。以前、どちらかでお会いしましたか?」 その場は他の女のコが代わりに接客し、逃れたのですが……。

水商売の場合、ゆきなチャンのように生活費を稼ぐためのバイトでも、2、3年働けば、1000万円の貯蓄はラクラクできるかと思います。私の場合、心理学のスクールに通うのに、ほとんどの貯蓄が飛んでしまいましたが、普通のOLさんはどうでしょう?

貯蓄額は同性同士でもなかなか明かさないので、難しい質問。ましてや、男性に聞かれるのも嫌がると思います。なので、生活レベルが知りたいなどと思わずに、直球勝負すること。機転の利く女性なら、どんな店でも喜ぶはず。そうでなければ、それまでの女性ってことです。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月11日付掲載~

2011年7月10日日曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(04) 深紅のスケスケTバックは…

深紅のスケスケTバックを誕生日プレゼントにもらったことがあります。ホステス時代の話です。贈り主は、30代SEのお客さまでした。私を笑わせようとシャレで選んでくれたのですが、そのお客さまは普段、冗談ひとつ言わない真面目な性格。かなり無理をして選んでくださった感じがして、逆に申し訳なくなりました。女性の気を引きたくてアノ手コノ手。気持ちはよく分かりますが、一歩間違えると……。

「僕のこと、ター坊って呼んで。ター坊はね、きょう、大口の契約を決めたんだぞぉ~」。新人の女のコに突然、ニックネームで呼ぶように無理強いする50代のお客さまがいました。この方も、普段はそういったタイプではありません。若いコに好かれようと無理やり笑いを取ろうとしたり、自慢話でアピールしていました。

皆さんも心当たりがあるかと思いますが、面白くなくても、面白いフリをしなければならない。かなり気を使います。若い女のコはドン引きです。男女の関係には、足し算と引き算の法則があるのをご存知ですか? 多くの男性は自分の魅力を足そうとしますが、女性は減点法で男性を“品定め”します。「あの人は清潔感がないからNG」「ジョークが寒いところがダメ」。女性が「あばたもえくぼ」と思える相手は、恋をしている男性にだけ。

なので、株を上げようとあれこれ取り入れるより、まずは「自分が持っている能力や魅力に磨きをかける」ことです。無口な男性なら聞き上手になればいいんです。減点法に太刀打ちするには、これが一番!


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~日刊ゲンダイ 2011年4月27日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(03) “透け乳首”が好きなわけでは…

あだ名は「乳首クン」。いつも、ワイシャツからポチポチッと乳首が透けていた30代のお客さまの話です。女のコたちにからかわれていました。ホステス時代に憧れていた40代前半の男性も、いつも素肌にワイシャツでした。“透け乳首”が好みなわけではありませんよ(笑)。

その男性は、透けないように厚手の生地のワイシャツを着ていました。しかも、華美ではないカフスを、さりげなく合わせているところも好感度アップ。会社帰りにフラッと店に遊びに来る男性に会うのが、本当に楽しみでした。

どんな女性も清潔感のない人は苦手。男性は年齢を重ねるほど「清潔感が命」です。パリッとのり付けされたワイシャツと、ハンカチがおすすめです。どちらも白系のカラーを選ぶといいのではないでしょうか。

どんなにキレイに洗ってあっても、シワシワだと清潔感が半減。アイロンがけが面倒だという人は、シワになりづらい洗い方や干し方があるので、チャレンジしてみてください。くれぐれも奥さまに命令口調で指示するのは、ダメですよ。自分で一度試されると、清潔感への意識も高くなるかもしれません。

いつもヨレヨレのスーツを羽織っている40代半ばのお客さまがいました。ひいきにしてもらったのですが、それだけが「残念」でした。そのお客さまは管理職だったので、「部下に私の意思がなかなか伝わらなくてね。困ったもんだよ……」なんて、よく嘆いていました。<汚い身なりでも平気な上司は、仕事もだらしない>。部下のOLさんたちに、そう思われていたのかもしれません。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月20日付掲載~

2011年7月9日土曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(02) 「今のうちに直しておきなさい」

平成生まれの彼女たちは、「昭和生まれのオトーサン上司」が大の苦手。就職難を勝ち抜き、入社したシッカリ者とはいえ、相手は親子ほど年が離れた男性です。思春期の思い出がよみがえり、いきなり「ばっちぃオヤジ」と嫌悪感を抱いてしまう恐れも。私も高校生の頃はそうでした(笑)。

そうならないためにも、とりあえずランチに誘いましょう。どんな店がいい? パスタメニューのある店は“安全パイ”だと思います。パスタが嫌いな女のコはそうはいませんし、皆さんが、若者のつたないお箸の使い方にイライラする心配もありません。ランチに誘うだけでも、これから一緒に働いていく仲間として「君に関心がある」ということをアピールできます。上から目線にならず、歩み寄ってあげてください。

以前、50代のお客さまにフレンチをごちそうしていただいたことがあります。当時の私は恥ずかしながら、フォークとナイフの使い方が分かっていなかった。で、お客さまは、こう優しく指摘してくださったのです。「今のうちに直しておきなさい。他のお客さんと食事に行った時、きれいに使えていたら印象もアップするよ」。グッときました。そして、何より私のためを思って言ってくれているのが分かったのです。

「なんだ、こんなことも知らないのか!?」なんて、ただバカにされていたら、傷ついていたでしょう。私の場合はフォークとナイフでしたが、お箸だって同じ。部下のOLのためを思ってアドバイスすれば、喜んで聞き入れると思います。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月13日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(01) 「いつも楽しませてくれてありがとう」

六本木で8年間、ホステスをしていました。初めまして。恋愛心理セラピストの渡辺紀子と申します。その間、出会った男性は5000人以上。親子ほど年の離れた男女がどうやって仲良くなるか。ホステス時代の経験を生かし、お役にたてればと思っています。

私はサバサバとしたおっさんキャラ。そこに愛嬌を感じてくださったオジサマ方に、ひいきにしてもらいましたが、店には、いろいろなタイプのお客さまがいらっしゃいます。もちろん、モテる男性もいれば、モテない男性もいます。フトコロ? 大盤振る舞いをしなくても、ホステスと恋愛関係になるお客さまがいるんです。

IT関係の仕事をしていた30代後半のAさんは、よく上司に連れられて来ていました。たまに上司が中座して、私と2人きりになると「いつも上司を立てて、楽しませてくれてありがとう」「この仕事って、大変だよね。俺には気を使わなくていいから」と、笑顔を浮かべてくれました。

女は、こういう小さな心遣いに弱いんです。自分が認めてもらえたような気分になれるんです。ホステスはお客さまの愚痴を聞くのも大事な仕事ですが、私はAさんが、「自分はもう年だから」とか「不景気だから」と愚痴っているところも、見たことがありません。Aさんはきっと、職場の女性にも人気があったと思いますよ。若い女性は“男の言い訳”に敏感ですから。

誰だって落ち込むことはあります。でも、モテたいのなら、自分を奮い立たせてください。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月6日付掲載~

【特別寄稿】「なでしこジャパン」に2つの重大不安 鈴木良平・初代日本女子代表監督

女子W杯準々決勝で日本代表が開催国ドイツと対戦する(日本時間10日午前3時半開始)。1次リーグ2勝1敗の女子代表は「持ち味」を発揮できないまま、これから強豪ばかりと戦う。

彼女たちの持ち味とは「速いパスワークでボールを回して相手ゴールに迫る」。しかし、1次リーグ1試合目のニュージーランド戦では、相手の肉弾戦に真っ向から勝負して大苦戦。3戦目は対戦したイングランドと同じ戦法、ロングボール合戦を挑んで0-2の敗戦となった。持ち味を出そうとするのではなく、相手に合わせた戦い方に終始したからなのだ。

原因はハッキリしている。フォーメーションに問題がある。女子代表の布陣は、「2トップを置いて両サイドにFW大野とMF宮間をワイドに配置」「守備的MFに沢と阪口」となっている。2トップと守備的MFの間に大きなスペースが生まれ、速いパスワークでボールを回そうにも選手同士の距離が開き過ぎ、効果的なパス回しができないでいる。たとえば、2トップを「1トップとトップ下」にすれば両サイド、守備的MFとの距離感も格段に良くなる。トップ下はFW川澄やMF岩渕でもいいし、サイドから宮間を持っていってもいい。

佐々木監督の選手交代にも疑問がある。イングランド戦の後半30分、守備的MFの阪口をベンチに戻した。目を疑ってしまった。この日の阪口はボール奪取、キープ、パス、位置取りなど完璧な出来栄えだった。MF岩渕と代えるべきは沢だった。イングランド相手に何もできず、ミスも目立った沢をなぜ交代させないのか? 佐々木監督が「大黒柱の沢は何があってもフル出場させる」と思い込んでいるとするならば――。そうでないことを祈るばかりだ。 (ドイツサッカー協会公認S級コーチ)


~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~

2011年7月8日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(14) カズさんは僕の名前を知らなかった(笑)

プロ4年目の2000年にトルシエ監督からシドニー五輪代表に呼ばれ、日本代表にも召集されました。当時の日本代表にはカズさん(三浦和良、横浜FC)やゴンさん(中山雅史、札幌)といったスター選手が名を連ねていました。

こんなエピソードがあります。ボール回しの練習中に選手は「パスを回す相手の名前を呼ぶ」のがトルシエ流でした。皆が名前を呼び合う中、カズさんはボクにパスを出す時に「キーパー!」と声を出していました。本人に確認したわけではないのですが、多分、ボクの名前を知らなかったのではないでしょうか(笑)。

01年6月、ブラジル戦で代表デビューを果たしました。ジーコ監督と岡田監督からも代表に呼ばれました。しかし、02年日韓、06年ドイツ、昨年の10年南ア大会とW杯とは無縁でした。

●干されて逃したW杯出場
09年、浦和はフィンケ監督体制になりました。この年、ボクは23試合に出場しましたが、勝ち試合の次の試合の先発から外されたり、理不尽な扱いを受けました。フィンケは「選手に影響力がある」「自己主張をする選手」を排除する傾向にありました。09年オフに名古屋に移籍した闘莉王やボクは、どうも目障りな存在だったようです。

10年シーズンは完全に干され、試合に出られないボクは、当然のことながら6月に開幕した南アW杯メンバーから外れました。当時、岡田監督から「浦和で試合に出られないものなのか?」と何度か言われました。W杯本大会直前に第1GKのナラさん(楢崎正剛、名古屋)に代わって第2GKのエイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)が正GKに抜擢されました。

フィンケが成績不振を理由に09年限りで浦和を辞め、10年もボクが浦和の正GKとしてプレーし、そして第2GKとして日本代表の一員だったとしたら……。南アW杯期間中にボクは出場機会を求めて湘南に期限付きで移籍しました。1シーズン終了後に現役を引退することになりました。

第二の人生をどう送るのか? ボクは政治の道を志しました。全国的な傾向ですが、埼玉でも20~40歳台の投票率が非常に低く、政治に無関心な人が少なくありません。ボクという人間を通して政治に関心を持っていただきたい。サッカー選手としてボクを育ててくれた地元・埼玉に恩返しをしたい。そういう思いから4月の統一地方選・埼玉県議選に出馬しました。次点でしたが、ボクの名前を書いてくれた9704人の期待、熱くサポートしてくれた協力者の熱意を一時も忘れてはいけない。そう思っています。ご愛読ありがとうございました。 (おわり)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月2日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(13) 「おまえはバカか!」…小嶺先生に怒鳴られたPK事件

中学から高校に進む際、地元の大先輩ナラさん(楢崎正剛=名古屋)が2年生に在学していた奈良育英高に行くつもりでした。ある日、サッカー部の顧問からいきなり「小嶺先生が今日、おまえの自宅を訪問される」と言われました。

「小嶺先生って……あの国見高の小嶺先生!?」 ひとりでいらっしゃった小嶺先生は、両親と酒を飲みながら「国見高は公立。半年前には住民票を移さないと」「今のうちに国見中に転校するという手もある」など話が進んでいきます。ボクは「あれっ? 国見高に行くことに決まったの?」と、キツネにつままれた状態でしたが、悪い気はしませんでした。サッカー名門高の有名監督から直々に誘われたわけですからね。

そうそう、小嶺先生は「来年からウチは坊主(頭)じゃない」と言ってました。長崎に着いて最初にやったことは……やはりバリカンで丸坊主にされてしまいました(笑)。サッカー部は寮生活でした。練習が終わっても気の休まる時間はありません。

1年生は「ご飯3杯ルール」にも苦しめられました。「朝、昼、晩と全部員がご飯を最低3杯ずつ食べる」のがサッカー部の掟。3年生は茶碗で、2年生は丼で、そして1年生はラーメン丼で3杯、必ず食べさせられました。一度、父母会から「毎食ラーメン丼3杯は食わせ過ぎ」と抗議が来ました。「食わせない」ならいざ知らず、食わせ過ぎで文句を言われても「小嶺監督も立つ瀬ないよなぁ~」とボクはクビをかしげたものです。

高校サッカー界の名伯楽、小嶺先生は「データ収集力&解析力」にもたけていました。3年生で出場した高校サッカー選手権2回戦、丸岡高戦は0-0からPK合戦にもつれました。小嶺先生から「相手がPKを蹴る前にオレを見ろ」という指示が出ました。ベンチ前の小嶺先生が「右手を上」に上げるとボールは右上隅に、「左手を下」にするとボールは左下隅に飛んできました。

方向も高さもドンピシャ。3本連続でPKを止めたボクが、勝利の立役者として記者に囲まれました。「すべて小嶺先生の指示通り。完璧でした」。後で大声でどやしつけられました。「おまえはバカか! 種明かしをしたら、次から指示が出せないじゃないかっ!」。3回戦の静岡学園戦もPK合戦。5-6で敗れて準決勝に進めませんでした。実は静学戦でボクはPKのキッカーも務めたのですが、モノの見事に外してしまいました。

高校選手権の思い出はPKを止めても怒られ、外してはガッカリしたことに尽きます。あそこで勝っていたら、憧れの国立競技場に行けたのですから――。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月1日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(12) 長友・本田・岡崎…日本代表の若かりし頃

今をときめくインテル所属の長友(佑都)だけど……アイツがFC東京でプレーした頃、実は良く知らなかったんだ。「知らなかった」は語弊があるかな(笑)。ユウトがどんな選手だったのか、「ほとんど印象に残らなかった」という言い方が正確です。理由のひとつに、FC東京には相性が良くて、負けた記憶が1試合ほどしかなく、当然、攻め立てられることも少ない。そうなると左SBの長友が何度も何度もオーバーラップし、ゴールマウスに立ちはだかるボクを慌てさせた……なんて場面は記憶にありません!

長友は人懐っこいヤツだし、よくしゃべるし、とにかく朗らかなムードメーカー。そんな長友が日本代表のレギュラーに定着し、イタリアに渡るとインテルに引き抜かれ、それでも堂々のプレーを見せています。なかなか感慨深いモノがあります。

●しゃべりたくないタイプのはずが…
南アフリカW杯ベスト16入りの立役者のひとり、本田(圭佑)と面識がなかった頃、正直に言って「あまりしゃべりたいとは思わないタイプ」でした。唯我独尊的プレーばかり。年長者にもズバズバとモノを言う。オレ様体質――。そんな風評を耳にしていたからです。

日本代表の合宿で初めて会った時、本田が話し掛けてきました。「都築さん、覚えてないと思いますが、自分がG大阪のジュニアユース時代(99年~01年)、トップチームで練習中の都築さんをよく見ていました」。ボクは97年にG大阪入りし、00年は19試合、01年には29試合に出場しましたし、中学生時代の本田からは“雲の上の人”に見えたのかも知れませんね。いずれにしても噂(?)と違って本田は礼儀正しくて、いいヤツだったし、評価ポイントがアップしたのは言うまでもありません(笑)。

南アW杯予選で活躍した岡崎(慎司)も、最初は「記憶に残らなかった」選手のひとりでした。06年元日の天皇杯決勝戦は浦和と清水の顔合わせ。岡崎にとってプロ入り後、初の公式戦出場だったし、相当に気合が入っていたみたいです。「天皇杯の決勝に先発フル出場しましたが、ゴール前に都築さんがデンと構えて何も出来ませんでした。1-2で負けました。悔しかったです」。日本代表合宿で会った時、ニコニコしながら話し掛けてきた岡崎にボクは「えっ? あの試合に出てた?」とひと言。もちろんワザと冷たく言い放ったのですが、さすがの岡崎も顔が引きつっていましたね(笑)。

3人とも86年生まれでボクの8学年下。年の離れた弟みたいな感覚だけど、日本サッカーのイメージアップのために頑張って欲しいね。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月30日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(11) 闘莉王の「飲んでるから来てよ」攻撃には参った

浦和で一緒にプレーしたFWワシントンが先ごろ、現役引退を表明したみたいですね。06年はリーグ得点王の活躍でリーグ初優勝に貢献し、07年にはACL優勝と世界クラブW杯3位の原動力でした。そのオフに退団することになったが、周囲には「せいせいした」という声も少なくありませんでした。守備意識が希薄な選手だったのでチームメートから「相手ボールの時はサボってばかりじゃないか!」と反感を買うことが多かったからです。

ある時、チームで一番寡黙なヤマさん(山田暢久)が「もっと守備をしないか!」とワシントンを怒鳴ったことがありました。ボクを含めて選手全員が「おおっ! ヤマさんが大声を出した!」と仰天しました(笑)。でも、ワシントンのいない08年、選手の思いは「残って欲しかったなぁ~」に変わりました。やはりFWは店を取ってナンボ。守備で手を抜こうが、ここぞという場面でゴールを決められる選手がチームには必要です。そのことが身に染みたというわけです。

闘莉王(名古屋)が浦和にいた頃、「いつものところで飲んでるからね。早く来てよ!」という電話をよくかけてきました(笑)。ボクが浦和入りした翌04年、闘莉王が入団してきました。アイツにとって浦和での1試合目、アウェイの広島戦でした。闘莉王の背中を見ながら「凄い! 何でも出来るDFって本当にいるんだ!」と大きな衝撃を受けたものです。足元の技術が高く、ヘディングも強い。当たり負けもしないし、読みも鋭い。攻撃参加も効果的だし、シュート力もある。でも、大きな欠点がありました。攻め上がると前線に居座ることがあり、持ち場であるDFの中央が空いてしまい、ピンチになることがあったのです。

ボクと闘莉王は、練習でも試合でも「早く戻ってこい!」「すぐには戻れない!」「だったら上がるなよ!」と怒鳴り合うこともしばしばでした。09年にフィンケ監督が就任後、酒を酌み交わすようになりました。さいたま市内の焼き鳥屋から闘莉王が「待ってるからね!」と電話をかけてくる。「もう夜も遅いし、行かへん」と電話を切っても「まだ?」とすぐにかかってくる。「行かへんって!」ときっぱり断っても、30分ほど経つと「まだ?」。根負けして焼き鳥屋に行くと朝まで付き合ったことも何度か……(笑)。

アイツは先輩後輩の関係をわきまえ、自然体で他人を敬うことの出来るヤツです。だからといって堅苦しいわけではないし、こちらからヘンに気を使われることもない。一緒にいて心地良い気持ちにさせられる選手だった。中位以下に埋もれている浦和を見ると「闘莉王がいたらなぁ~」と思わずにはいられません。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月29日付掲載~

2011年7月6日水曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(10) 監督もいろいろ…「選手目線」あり「上から目線」あり

すべての監督が人間的にも指揮官としても素晴らしかった――とは言い切れません。それではキレイ事になってしまいます。

浦和に移籍した翌04年にギド・ブッフバルトが監督に就任しました。ボクを含めて選手は、彼のことを親しみを込めてギドと呼んでいました。ギドが際立っていたのは「人心掌握術のうまさ」です。あの頃の浦和にはアクの強い選手が多く、彼らを気持ち良くプレーさせることで「チーム全体の強さに結びつける」ことにたけていました。

気配り上手の監督でもありました。浦和が初めてJリーグを制した06年。ボクは靭帯断裂などケガに見舞われ、試合に出られないことが多かったんです。シーズンも終盤に差し掛かった30節の横浜M戦はギシ(山岸範宏)が体調を崩し、ボクが先発しました。4月の第10節以来の先発でしたが、試合は1-0の完封勝利。納得のいくパフォーマンスを披露できました。

次節の名古屋戦の前日、ボクはギドに呼ばれました。「オマエさんの(横浜M戦の)プレーは本当に素晴らしかった。次もオマエさんを使いたい。しかし(これまで出場機会の多い)ヤマギシを使いたいという気持ちもある。オレは悩んでいる」と言われたんです。ボクはこう返答しました。「自分は(たとえベンチでも)ちゃんと練習するし、チームに悪影響を及ぼすようなことはしない。とにかく、チームが優勝するためのベストを選択して欲しい」

06年シーズンはギシが24試合に出場。ボクは11試合でした。正直に言ってリーグ優勝は「うれしさ半分」。全試合に出場してチームに貢献し、その上でリーグ初制覇の美酒に酔いしれたかった! でも、ギドはこの年の天皇杯にボクを重用してくれ、07年元日に行われたG大阪戦との決勝戦に勝って天皇杯優勝の喜びをピッチ上で味わうことができました。振り返ると満足のいくシーズンでした。

07年はギドに代わってオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰しました。ベテラン選手から「とても厳しい監督だった。ボールに腰掛けただけで怒鳴られた」と聞かされました。実際に厳格な監督でしたね。ギドが「選手目線」だとするとオジェックは「上から目線」でした。反発する選手もいました。

ところが07年6月に開催されたA3(日本、韓国、中国の各リーグ優勝クラブによる東アジアクラブ王者決定戦)で3位に終わった途端、いきなり対話路線に急転換でした。戸惑う選手もいましたが、ボク自身はオジェックを評価しています。勝利のために何をすべきか? 07年のACLを制して年末に開催されたクラブW杯で3位に食い込めたのも、自分を押し殺して方向転換を決断したオジェックの功績が大きかったと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月28日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(09) 「街でおいしいモン食ってこい。領収書を持ってこい」

ちょうど1年前になりますね。日本代表が南アW杯でベスト16入りの快挙を達成しました。W杯本大会前にチームの調子が上がらず、岡田武史監督は批判の矢面に立たされました。本番直前にGKをナラさん(楢崎正剛、名古屋)からエイジ(川島永嗣、リールス=ベルギー)に代えました。さらにボール支配率を高めて攻守の切り替えを素早く行う戦法から「まずは専守防衛。1トップに置いた本田圭を中心に前線の3人が攻撃する」に転換しました。

大がかりなチーム改造でした。岡田監督は、W杯で勝ち進むために自説を曲げてまで戦術変更を行いました。でも、選手は素直に受け入れて短時間でモノにし、きっちりと結果を残しました。それもこれも「岡田監督がチームをまとめあげていた」からでしょう。チーム内に「和」がなければ、あのタイミングでのチーム改造は、マイナスに作用する危険性をはらんでいました。しかし、岡田日本はプラスに作用し、さらに結束力を高めていってレベルアップした感があります。

岡田監督をひと言で言えば「オープンな人」でしょうか? 時に日本人指導者から“閉鎖的な部分”を感じることがありました。監督と選手には「適切な距離感」が大事ですが、ことさらに“隔たり”をつくってしまい、意思の疎通が円滑に図れない状況に陥ることがあります。そのあたりも岡田監督は上手でした。

●岡田監督は「安いな」とひと言
09年1月20日、熊本市で11年アジアカップ予選イエメン戦があったのですが、試合後に岡田監督が「街でおいしいモンを食べてこい。店の領収書を持ってこい。後で(お金を)返すから」と言ってくれました。なかなか粋な計らいでした。4、5人のグループに分かれて熊本市内の飲食店街に繰り出し、名物の馬刺しやからしれんこんを食べ、食事の後は飲み屋に。一緒に出掛けたメンバーの中で最年長のボクが両方の支払いを済ませ、2枚の領収書を持ってホテルに帰りました。

食事分の領収書だけを差し出しました。岡田監督は「飲み代の方が高くついた」ことを知っていたはずです。でも、そのことにはあえて触れず、ただ「安いな」と言っただけでした。岡田監督とボクの間には《あうんの呼吸》がありました。

国見高の後輩に当たるヨシト(大久保嘉人、神戸)、浦和時代にチームメートだった闘莉王(名古屋)といった個性的な選手と仲が良かったボクは「選手同士を取りまとめる」役目も任されていたと思います。戦力以外の部分でもチームの役に立ちたい。そう思わせる力が、岡田監督には備わっていたと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月24日付掲載~

2011年7月1日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(08) 週刊誌に「キャバクラ騒動」を書かれたのにはまいった

4日に鹿島で行われた東日本大震災復興支援イベントで「顔も見たくない人」に会いました。ジーコにだけは会いたくなかったのです!

前任者トルシエに続いてジーコ監督も代表に呼んでくれました。後半途中から出場したマレーシア代表戦(鹿島、04年2月7日)の翌々日のことです。代表合宿で缶詰め状態の選手、スタッフのリフレッシュを兼ねて鹿嶋市内の焼き肉屋で食事会がありました。飲み足りなかった選手8人で寿司屋に向かいました。顔ぶれは久保竜彦、小笠原満男、奥大介、大久保嘉人、山田暢久、茂庭照幸、山田卓也。あいにく休業日だったので近くの別の店に入りました。《無断外出してキャバクラ店に入り、女の子の胸をわしづかみ、デブなどと暴言を吐いたり、出前で取った寿司を他の客に投げつけたり、パンツを脱いだ選手もいた》 某週刊誌にこんな形で報じられました。

●飲み直そうと入っただけなのに
何でも禁止、禁止のトルシエと違って、ジーコは「試合、練習以外は束縛せず」でした。外出禁止令も皆無でした。この時も規則を破ったのではなく、ただ単に飲み直そうと思って入ったのがキャバクラだったのです。皆の格好もジャージー姿だったし、寿司にしても寿司屋の大将が「来てくれたのに申し訳ない」とわざわざ届けてくれたもの。ちゃんとおいしくいただきました。確かに賑やかに飲み食いしましたが、週刊誌報道のような立ち居振る舞いはしていません。

ただし――。3日後の12日にイラク戦が、18日にはドイツW杯予選のオマーン戦が控えていました。時期が時期だけに非難されても当然だったと思います。何よりも日本代表を応援してくれるサポーターに「心配をかけました」を改めて頭を下げたいと思います。

この一件は、3月1日に発売された週刊誌に報じられ、8選手は「当分は代表に召集しない」ことになりました。でも、イラク戦には5選手が出場。続くオマーン戦には3選手が出場して、ロスタイムには(久保)タツさんが劇的ゴール。1-0で勝利しました。主軸として期待を寄せていた選手を外さざるを得なかったジーコ監督の胸中は、いかばかりだったのでしょうか。

フィールドの何選手かは04年のうちに代表に復帰し、ボクは06年2月の米国遠征(米国戦)、キリンカップ(フィンランド戦、静岡)、ドイツ遠征(ボスニア・ヘルツェゴビナ戦)でベンチ入りしました。しかし、出場機会は訪れず、同年6月のドイツW杯メンバーにも入れませんでした。ジーコに対して「すいませんでした」「もっと呼んで欲しかった」。いろいろな感情が交錯して「会いたくない」と思ったのでした。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月23日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(07) 「どうして2人はしゃべらないんですか?」 楢崎、川口の両先輩に突っ込んだ

日本代表正GK争いは、90年代半ばから「双璧」の時代でした。98年フランス、06年ドイツW杯はヨシカツさん(川口能活、磐田)がレギュラーでした。02年の日韓W杯はナラさん(楢崎正剛、名古屋)が、ベスト16入りの立役者のひとりとなりました。ボクは00年にトルシエ監督から初めて招集されて以来、ジーコ監督、岡田監督にも代表に呼ばれました。しかし、2強の牙城を崩すことはかなわず、最終的に代表歴は6試合にとどまりました。

同県人のナラさんのプレーを初めて見たのが中学1年生の時。ボクはすでに身長が180センチありましたが、坊主頭でスーパーセーブを連発するナラさんは自分よりひと回り大きく見え、こんな上手なGKがいるんだ!と驚かされたものです。どんな人?と聞かれるたびに「ナラさんは普通にいい人ですよ」と答えます。年上だからといってエラソーにすることはないし、ピッチ内外では感情的に振る舞うこともないし、とても穏やかで優しい先輩です。

ヨシカツさんはタイプが違いますね。若い頃は試合中にミスをした先輩をどやしつけたり、負けるとGKグローブを放り投げたり、感情をダイレクトに表現すると聞かされていました。でも、ボクが代表に呼ばれるようになった頃のヨシカツさんは、まるで別人でした。ただ、ヨシカツさんの周辺から漏れ伝わった「ライバル心が強過ぎてGK同士あまり口をきかない」という噂は……ウソではなかったと思います。

ヨシカツさん、ナラさんと3人だった時に聞いてみました。ボクはそういうことをサラッと聞けるタイプなんです。「どうして2人はしゃべらないんですか? 話したくないんですか?」 2人ともニコニコ笑っています。さらにツッコミを入れてみました。「黙っていると気まずくなりませんか?」 それでも2人はニコニコしていました。ぶしつけなことを後輩のボクが言えたのも、ナラさんとは長い付き合いで気心が知れているし、ヨシカツさんも後輩が言い過ぎても大目に見てくれる大人だったから。ボクもその辺の“空気”をちゃんと把握した上でのツッコミなのです(笑)。

南アW杯の前年(09年)はヨシカツさんの故障もあって、代表GKはナラさん、ボク、エイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)の3人が呼ばれることが多かった。9月のオランダ遠征ではエイジがオランダ戦(0-3)に出場し、ボクはガーナ戦(4-3)に出ました。01年6月に日本代表にデビューしましたが、02年、06年、10年W杯とは無縁でした。ヨシカツさん、ナラさんにあってボクに足りなかったものは何か? ミスしても「次もお前に任せる」という信頼を得られなかった理由は何か? 現役を引退した今となっては永遠に分からないことかも知れません……。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月22日付掲載~