2011年7月8日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(14) カズさんは僕の名前を知らなかった(笑)

プロ4年目の2000年にトルシエ監督からシドニー五輪代表に呼ばれ、日本代表にも召集されました。当時の日本代表にはカズさん(三浦和良、横浜FC)やゴンさん(中山雅史、札幌)といったスター選手が名を連ねていました。

こんなエピソードがあります。ボール回しの練習中に選手は「パスを回す相手の名前を呼ぶ」のがトルシエ流でした。皆が名前を呼び合う中、カズさんはボクにパスを出す時に「キーパー!」と声を出していました。本人に確認したわけではないのですが、多分、ボクの名前を知らなかったのではないでしょうか(笑)。

01年6月、ブラジル戦で代表デビューを果たしました。ジーコ監督と岡田監督からも代表に呼ばれました。しかし、02年日韓、06年ドイツ、昨年の10年南ア大会とW杯とは無縁でした。

●干されて逃したW杯出場
09年、浦和はフィンケ監督体制になりました。この年、ボクは23試合に出場しましたが、勝ち試合の次の試合の先発から外されたり、理不尽な扱いを受けました。フィンケは「選手に影響力がある」「自己主張をする選手」を排除する傾向にありました。09年オフに名古屋に移籍した闘莉王やボクは、どうも目障りな存在だったようです。

10年シーズンは完全に干され、試合に出られないボクは、当然のことながら6月に開幕した南アW杯メンバーから外れました。当時、岡田監督から「浦和で試合に出られないものなのか?」と何度か言われました。W杯本大会直前に第1GKのナラさん(楢崎正剛、名古屋)に代わって第2GKのエイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)が正GKに抜擢されました。

フィンケが成績不振を理由に09年限りで浦和を辞め、10年もボクが浦和の正GKとしてプレーし、そして第2GKとして日本代表の一員だったとしたら……。南アW杯期間中にボクは出場機会を求めて湘南に期限付きで移籍しました。1シーズン終了後に現役を引退することになりました。

第二の人生をどう送るのか? ボクは政治の道を志しました。全国的な傾向ですが、埼玉でも20~40歳台の投票率が非常に低く、政治に無関心な人が少なくありません。ボクという人間を通して政治に関心を持っていただきたい。サッカー選手としてボクを育ててくれた地元・埼玉に恩返しをしたい。そういう思いから4月の統一地方選・埼玉県議選に出馬しました。次点でしたが、ボクの名前を書いてくれた9704人の期待、熱くサポートしてくれた協力者の熱意を一時も忘れてはいけない。そう思っています。ご愛読ありがとうございました。 (おわり)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月2日付掲載~