2011年7月6日水曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(09) 「街でおいしいモン食ってこい。領収書を持ってこい」

ちょうど1年前になりますね。日本代表が南アW杯でベスト16入りの快挙を達成しました。W杯本大会前にチームの調子が上がらず、岡田武史監督は批判の矢面に立たされました。本番直前にGKをナラさん(楢崎正剛、名古屋)からエイジ(川島永嗣、リールス=ベルギー)に代えました。さらにボール支配率を高めて攻守の切り替えを素早く行う戦法から「まずは専守防衛。1トップに置いた本田圭を中心に前線の3人が攻撃する」に転換しました。

大がかりなチーム改造でした。岡田監督は、W杯で勝ち進むために自説を曲げてまで戦術変更を行いました。でも、選手は素直に受け入れて短時間でモノにし、きっちりと結果を残しました。それもこれも「岡田監督がチームをまとめあげていた」からでしょう。チーム内に「和」がなければ、あのタイミングでのチーム改造は、マイナスに作用する危険性をはらんでいました。しかし、岡田日本はプラスに作用し、さらに結束力を高めていってレベルアップした感があります。

岡田監督をひと言で言えば「オープンな人」でしょうか? 時に日本人指導者から“閉鎖的な部分”を感じることがありました。監督と選手には「適切な距離感」が大事ですが、ことさらに“隔たり”をつくってしまい、意思の疎通が円滑に図れない状況に陥ることがあります。そのあたりも岡田監督は上手でした。

●岡田監督は「安いな」とひと言
09年1月20日、熊本市で11年アジアカップ予選イエメン戦があったのですが、試合後に岡田監督が「街でおいしいモンを食べてこい。店の領収書を持ってこい。後で(お金を)返すから」と言ってくれました。なかなか粋な計らいでした。4、5人のグループに分かれて熊本市内の飲食店街に繰り出し、名物の馬刺しやからしれんこんを食べ、食事の後は飲み屋に。一緒に出掛けたメンバーの中で最年長のボクが両方の支払いを済ませ、2枚の領収書を持ってホテルに帰りました。

食事分の領収書だけを差し出しました。岡田監督は「飲み代の方が高くついた」ことを知っていたはずです。でも、そのことにはあえて触れず、ただ「安いな」と言っただけでした。岡田監督とボクの間には《あうんの呼吸》がありました。

国見高の後輩に当たるヨシト(大久保嘉人、神戸)、浦和時代にチームメートだった闘莉王(名古屋)といった個性的な選手と仲が良かったボクは「選手同士を取りまとめる」役目も任されていたと思います。戦力以外の部分でもチームの役に立ちたい。そう思わせる力が、岡田監督には備わっていたと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月24日付掲載~