2011年7月8日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(13) 「おまえはバカか!」…小嶺先生に怒鳴られたPK事件

中学から高校に進む際、地元の大先輩ナラさん(楢崎正剛=名古屋)が2年生に在学していた奈良育英高に行くつもりでした。ある日、サッカー部の顧問からいきなり「小嶺先生が今日、おまえの自宅を訪問される」と言われました。

「小嶺先生って……あの国見高の小嶺先生!?」 ひとりでいらっしゃった小嶺先生は、両親と酒を飲みながら「国見高は公立。半年前には住民票を移さないと」「今のうちに国見中に転校するという手もある」など話が進んでいきます。ボクは「あれっ? 国見高に行くことに決まったの?」と、キツネにつままれた状態でしたが、悪い気はしませんでした。サッカー名門高の有名監督から直々に誘われたわけですからね。

そうそう、小嶺先生は「来年からウチは坊主(頭)じゃない」と言ってました。長崎に着いて最初にやったことは……やはりバリカンで丸坊主にされてしまいました(笑)。サッカー部は寮生活でした。練習が終わっても気の休まる時間はありません。

1年生は「ご飯3杯ルール」にも苦しめられました。「朝、昼、晩と全部員がご飯を最低3杯ずつ食べる」のがサッカー部の掟。3年生は茶碗で、2年生は丼で、そして1年生はラーメン丼で3杯、必ず食べさせられました。一度、父母会から「毎食ラーメン丼3杯は食わせ過ぎ」と抗議が来ました。「食わせない」ならいざ知らず、食わせ過ぎで文句を言われても「小嶺監督も立つ瀬ないよなぁ~」とボクはクビをかしげたものです。

高校サッカー界の名伯楽、小嶺先生は「データ収集力&解析力」にもたけていました。3年生で出場した高校サッカー選手権2回戦、丸岡高戦は0-0からPK合戦にもつれました。小嶺先生から「相手がPKを蹴る前にオレを見ろ」という指示が出ました。ベンチ前の小嶺先生が「右手を上」に上げるとボールは右上隅に、「左手を下」にするとボールは左下隅に飛んできました。

方向も高さもドンピシャ。3本連続でPKを止めたボクが、勝利の立役者として記者に囲まれました。「すべて小嶺先生の指示通り。完璧でした」。後で大声でどやしつけられました。「おまえはバカか! 種明かしをしたら、次から指示が出せないじゃないかっ!」。3回戦の静岡学園戦もPK合戦。5-6で敗れて準決勝に進めませんでした。実は静学戦でボクはPKのキッカーも務めたのですが、モノの見事に外してしまいました。

高校選手権の思い出はPKを止めても怒られ、外してはガッカリしたことに尽きます。あそこで勝っていたら、憧れの国立競技場に行けたのですから――。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月1日付掲載~