2011年8月27日土曜日

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(下)

――家にはサッカーが出来る設備をつくりましたか?
「リビングルームに野球ほどの小さいボール、硬いボール、軟らかいボール、スポンジみたいなボールなど5つくらい転がしていたくらいです。大きいボールでリフティング出来たら、小さいボールで出来るように、足の感覚を養うためにいろんなボールを使うことが大切なんです」
――仕事の合間を縫っては練習に付き合ったりしたのですか?
「学校のグラウンドへ行って、『校長先生に(使用する)許可をもらってきなさい』とよく息子を職員室へ行かせたもんです。練習時間は学校が終わってから7時半くらいまで。コーンを置いて、グネグネしてドリブルさせて、僕がタイムを計る。遅くて正確には誰でも出来るからタイムだけは気にしていた。持ち味の足も無駄になってしまうし」
――練習時間はどれくらいですか?
「土、日はあざみ野FCで一日中練習し、平日は週1、2回1時間半くらいクーバー・コーチングというサッカー教室で練習。その後は公園で練習。雨の日は車を移動させて屋根つきの4台ほど置ける広さの駐車場で練習させた」
――奥さんのサポートは大きかったですか?
「妻なしではここまでこられないよね。食事は出来るだけ手を加えていたものを食べさせていた。でも嫌いなものは残させる。僕も息子もニンジンが嫌いでね。無理やり食べさせるとかえってストレスになる。食事の時間も苦痛になる。栄養は他のもので補えるし」
――学校との両立はどうしていたのですか。
「あるとき宿題をやらなくなることがあった。宿題はサッカーの練習から帰ると夜10時前くらいになる。宿題は先生との約束ごとでしょう。僕はやれないことは約束するなという考え。つまりウソをついてはダメ。先生に出来ないと言ってきなさい。そうしたら堂々と学校に行ける。3人とも先生に言ったら大輔の先生だけ『分かった。ただ出来る時にはやりなさい』と言われたそうです。なので僕もそれなら出来る時にやりなさいと」
――先生は怒ったのではないですか?
「でもおまえの夢は何だって聞いたら『サッカー選手だ』と。そしたらサッカーを中心にものを考えなさいと。学校は義務教育だから行かなきゃいけない。それにある程度知識がないと生きていけない。でも勉強はサッカーが終わってからでも出来る。僕が今から東大に入ろうと思って勉強したら入れるかもしれないじゃない。サッカー選手にはなれないけど」
――練習以外ではどのような指導を?
「ジダン、バッジオ、ロナウドとか一流の選手のテクニックをビデオで見せてあげた。50本はあるね。僕は自分でやって見せて教えることは出来ない。でも見て覚えることは大事。ビデオで世界の一流プレイヤーを見ていたから、Jリーグを見せても意味あるのかなあと思って日本の試合はあまり見せなかったな」
――私生活面ではどんなアドバイスをしていますか?
「私生活がダメな人はいい選手になれない。例えば試合の前の日だけ早く寝てもコンディションは保てない。インタビューでも『きょうはさ、絶対勝ちたかったよね』と『~さ』とか『~ね』とか言う選手がいる。そういうインタビューが僕は大嫌い。子供たちにはインタビューの時にはしっかり話をしなさいとよく言ってます」
――長男は高校3年生の時に風間(八宏)氏の息子とセビリアFC(スペイン)のユースチームに2週間留学しましたね?
「プレーの仕方も、体のでかさも、意識も違う。刺激を持って帰ってくるよね。次男もオランダのユトレヒトに行く時は文化と言葉を早く覚えろと。野球界でも、活躍している外国人選手は言葉も覚えるし、文化も取り入れる。また向こうでは突っ張れと。彼らは自分の意見がしっかりしている分、自分が悪くても謝らない。というのは認めたら自分の責任になるから。謝らないといけないというのは日本人的感覚だし、彼らは謝らなくても(謝らないことを悪いと)思わないからね。まあ、でも行く時は親に相談なんて全くなかったんだけどね」 (おわり)


▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。


~日刊ゲンダイ 2011年8月8日付掲載~

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(中)

――競技は違いますが野球もサッカーも共通する点があるのではないですか?
「どの競技でもスポーツの基本は一緒。個々の選手がベストな状態でプレーすることがチームワークで、仲がいいことじゃない。ある試合で、フォワードの息子がセンタリングされたボールをゴール前で空振りしたことがあった。足に当てれば入るのに。チームメートがしんどい思いをしてパスをしたのに、おまえが下手だとチームワークはガタガタだよと。もっと練習して得点することがチームワークだと話をした。技術は僕が勉強するのではなく子供が勉強すること。だから大人は精神的なものを教える」
――プロとしての考え方はいかがですか?
「僕の父親はサラリーマンで事務系。だから僕はプロ意識はなかったかも知れないが、子供たちにプロの考え方を植えつけることは出来たと思う。例えば給料のうち生活費は半分で十分だとする。余った半分は貯金でしょう? 僕はそれを全部使い切れと言います。そのおカネが大金だと思うとそれ以上のおカネは稼がなくなる。チマチマするな。自然と貯まるようになって初めてプロだ。そういう感覚はプロとして持っておかないといけない」
――高木さんはプロになれと積極的に勧められたのですか?
「高校に進学するときの高校選びの時とかに家族会議を開いた。高校サッカーもあるし(Jリーグの)ユースもある。サッカーをやめることも留学する道もある。それぞれのいい面、悪い面をいろいろ説明して自分で選びなさいと。選択肢は広くしてあげないとね。別にプロにならなくてもいいと言ってました。大人になってやりたいことが見つかれば別なことをやればいい」
――それでも結局、プロに進みましたね。
「長男は最初だから、どこの高校に行くか、このまま契約してプロに行くか、相当悩んだ。サッカーの早慶戦を見に行ったりしていた」
――最後は子どもに決めさせたのですね。
「プロになったからといって(親が)喜ぶわけではない。おまえの人生だし、自分の好きな道を選べと。この高校に行って大学に行かないと一流企業に行けないよ、と言って子供を追い込むことをしたくなかった。よく子供の教育のことで、麻布高から東大に行ってというのがよくありますよね。そういうのは教育ではないんです。でないと決定することができない子になる。何でも親に聞いてくるようなね」
――髪の毛の色ひとつも子供に決めさせるそうですね。
「次男が小学校4年のとき、髪の毛を染めたいと言ってきた。いいよと言った。試合になるとなぜか自分のファウルでないのにファウルにされる。大人を見たら(髪を染めている)おまえの方は悪い子に見えるし、髪の毛の色で人は判断しがちだ。身なりで損をしてはおまえが損だよと教えた。やらせてみないとわからないことってあるでしょう。世の中で難しいことは決定すること。決定の作業は責任を伴うから大変だけれどもとても大切なこと。その決定する力を小さい時から植えつけたかった」
――サッカー評論家の風間(八宏)氏と親交が深いと聞きました。
「ええ。息子のことも気に掛けてくれていたので、昔、息子が点が取れないんですよねえと話したら、『それは(親が)点を取れとか言ってるからですよ。子供は親が見に来てくれたらうれしいし、親の顔を見てプレーするようになる。だから言わない方がいいよ』とアドバイスをもらった」
――風間氏から技術面も教えてもらったのですか?
「僕が中心になってサッカーチームの保護者らとチームをつくったんです。風間さんもチームにいたので教えてもらいました。親が子供と同じポジションを守るのですが、これが難しくてね。ボールが1個ずれただけでボールが蹴れないわけだから。それからは何であそこで蹴れなかったんだ、と息子たちに言うのをやめました」 (つづく)


▼高木豊(たかぎ・ゆたか) 1958年10月22日、山口県生まれ。多々良学園(現高川学園)から中大を経て80年のドラフト3位で大洋(現横浜)に入団。84年に56盗塁で盗塁王を獲得。85年には加藤博一、屋鋪要と共に「スーパーカートリオ」を結成。92年には300盗塁を達成した。94年に日本ハムに移籍し同年引退。通算記録は打率.297、88本塁打、545打点、321盗塁。引退後は01年に横浜のコーチ、03年から04年にはアテネオリンピックの代表チーム内野守備走塁コーチを務めた。現在は野球解説者として活躍。


~日刊ゲンダイ 2011年8月6日付掲載~

【私はこうして3人の息子をサッカー選手にした】元横浜・高木豊(上)

http://gendai.net/articles/view/sports/131887


~日刊ゲンダイ 2011年8月5日付掲載~

2011年8月11日木曜日

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(05) アメリカでサッカーの常識を覆された

広山望の所属するUSL(ユナイテッドサッカーリーグ=独立リーグ)には、他国にはない試合運営方法がある。「試合中に5人の選手が交代可能」「時に2日連続の試合を行う」「シーズンは半年」――。こうしたリーグ方式に最初、広山も戸惑った。「先発と合わせて最大16人の選手を使えるのでどんどん人が代わる。こんなに交代してもいいのかな、なんて思っていると最後に代わった選手が得点を入れて試合を決めたりする。面白いですよ」。選手交代枠5人は、連戦を乗り切るための方策である。

移動にも工夫を凝らす。ワシントンの南150キロにあるリッチモンドからフロリダまで移動する場合、選手は専用バスに乗って十数時間かけて移動する。そのバスにはベッドがあり、ぐっすり眠ることができる「バスは、大げさにいうとホテルみたいに大きいんです。前の方ではサッカーの試合映像が流れているし、移動中に選手同士のコミュニケーションもとれる。確かにバスで移動すれば経費も削減できるし、快適なので選手も肉体的、精神的にも楽になる。ボクは15年ぐらいプロでやってきていますが、アメリカは、いい意味で常識を覆してくれる。こういう経験が今のボクには必要だったのかな、と思ってます」

USLでは、下部組織の育成に力を入れているのも特徴だ。「アカデミー」と呼ばれる16歳以下と18歳以下のチームは全国リーグに参戦中だ。他にも4歳以下のチームから子どものレベルに合わせて多くのチームが組織されている。広山たちプロの契約選手は、こうした育成組織で指導を任されることもある。他クラブと比べ、リッチモンドには女子選手の数が多い。休日のピッチにはスポンサー企業のテントが立ち、親子連れも集まってくる。スクールや下部組織を含めたサッカーが《産業》としてアメリカに根付きつつあるのだ。

その一方で日本はといえば――。Jリーグが発足してもうすぐ20年になる。ドイツのスポーツクラブを参考に組織をつくり、どんどんチームを増やしていった。プロリーグを定着させた功績については評価できるが、クラブ増でレベルダウンを招き、選手は安い給料にあえいでいる。日本経済の地盤沈下とともにスポンサー企業は減り、子どもたちはサッカーに対して夢を抱けなくなっている。日本サッカーは、既成概念を捨てて新たな発想に取り組む時期にきている。そのヒントは、サッカー先進国・欧州のモデルケースにとらわれることなく、柔軟な発想でリーグを運営するアメリカにもある気がするのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太) =おわり


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(04) アメリカ独立リーグは選手が大人だ

6月のキリンカップに来日したペルー代表のことを某テレビ局は「格下」と表現していた。コパ・アメリカ(南米選手権)が好例だ。開催国アルゼンチンがボリビアに続いてコロンビアと引き分け、ブラジルは初戦でベネズエラとドローに終わった。南米には楽に勝てる国なんてない。一部のサッカー中継のアナウンサーや解説者は聞くに堪えないし、日本のスポーツメディアの常識と世界の常識は、いまだに大きくズレている。

ペルー同様、日本で軽んじられている国のひとつにアメリカがある。アメリカは、野球やアメフトなど4大メジャースポーツのイメージが強いが、近年、サッカーも飛躍的に力をつけてきている。W杯には6大会連続で出場し、02年はベスト8に、10年にはベスト16に入っている。

アメリカには元イングランド代表MFベッカムや、元フランス代表FWアンリがプレーしているMLS(メジャーリーグサッカー)というプロリーグがある。広山望がプレーするリッチモンド・キッカーズは、下部組織に相当するUSL(独立リーグ)に所属している。MLSとUSLの交流は盛んで選手の移籍も多い。先日、リッチモンドはUSオープンカップでMLSのコロンバス・クルーに勝利した。そのレベルは決して低くない。

「(リッチモンドの)チーム戦術を比べたら、J1のクラブには劣ると思います。ただ、個人のフィジカル、個人技は非常に高いし、伸びしろもすごくあると思います」。リッチモンドにはブラジル人やドイツ人、あとウガンダやシエラレオネなどアフリカ諸国の代表級選手も所属している。彼らはアメリカの大学を経由してチームに加わっている。これはUSLの特徴である。

「他国リーグと比べると選手が人間としてしっかりしているし、何よりも大人という感じが一番しますね。(年俸が高くないので)サッカーだけやっていればいい――というわけにはいかないことも関係しているかも知れませんが。あくまでメーンはサッカーですが、USLには、社会といろいろなつながりを持っている選手が多いですね」。Jリーグの高卒選手はプロ入り後、数年で解雇される例が多い。かねて社会経験のない元Jリーガーのセカンドキャリアが問題になっているが、アメリカでは「大学を経由する」ことで解決しようとしている。

日本サッカーが、急速に力をつけたことは事実である。しかし、J2は経営が揺れているクラブもあるし、選手は低年俸に喘いでいる。選手の社会教育も十分とはいえない。“格下”アメリカから学ぶべき点はある。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月9日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(03) プレーに先入観を持たれ、それが自分を縛ってしまう

広山望がアメリカ行きを考えたのは、昨年11月のことだった。所属していたJ2草津から「契約延長を行わない」と通告されたからである。10年シーズン、背番号10の広山は38試合中29試合に出場していた。「試合に多く出ているとか、出ていないとか、契約とは関係ないんじゃないですか? チームとして何らかの刺激を与えるために、こうした通告はあるかもしれないという予感はありました」。広山はこう冷静に振り返るが、実に厳しい現実である。この時、彼は33歳になっていた。明らかに年齢によって断行された“リストラ”だった。

選手の節制、栄養学の進化、フィジカルトレーニングの効率化などにより、世界的に選手寿命は伸びている。日本代表監督だったジーコは、マスコミに対して「30歳以上の選手を安易にベテランと呼ばないでくれ」と頼んだことがあった。にもかかわらず、日本では選手を年齢で区切ることが少なくない。

08年シーズン末、東京Vが2度目のJ2降格の憂き目にあい、チーム予算を減らすために自動的に「高額年俸」と「30歳以上」の選手と契約しなかったことがあった。選手の価値を測るにはピッチ内外で多くの変数が存在する。経験や頭脳で加齢によって衰える瞬発力は、それなりに補うことができる。クラブの経営側が、選手の価値を目利きすることができないから、手軽に年齢で区切ろうとするのだ。

草津を離れることになった広山は、知人を介してアメリカのサッカー関係者に自分のプレーを集めたDVDを渡してもらった。その中で練習参加に招待されたのが、独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズだった。アメリカでの3日間の練習参加の後、1人だけ幹部に呼ばれて契約したいと言われた。「Jリーグで何年もやっていると、自分のプレーイメージに先入観を持たれてしまう。また、そのイメージを耳にすることで自分自身が縛られてしまうこともある。それに対して、アメリカ人に思ってもいなかったプレーを褒められると、選手として生き返ったような感覚がしましたね」

日本には、有望な若手選手が多く生まれてきている。そんな若手が、経験値の高い選手と一緒にプレーすれば学ぶことはゴマンとある。日本のサッカー界は、広山に限った話ではなく、有為な人材を数多く無駄にしていると思う。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月8日付掲載~

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(02) 欧州では本田圭はどうしても取りたい選手ではない

広山望は、早くから将来を嘱望される選手だった。20歳以下の日本代表として97年世界ユース選手権でベスト8入りしている。この時のメンバーには中村俊、柳沢、宮本恒らがいた。広山は背番号8をつけていた。

若手選手は、ちょっとしたことがきっかけでサッカー人生が変わる。広山がC大阪でプレーしていた時代、ユースチーム所属の柿谷曜一朗が、トップの練習の参加していた。「あの年代では抜群にうまかったですよ。でも、C大阪ではうまくいかなかった。うまい選手が、そのまま代表などに駆け上がっていくわけではないのです。もちろん柿谷も徳島(J2)で頑張っているので、また挽回するかもしれませんけど」。06年に16歳でプロになり、07年U-17W杯に出場した柿谷は、09年シーズン途中で徳島に出された。

柿谷をはじき飛ばしたのは、1学年上で07年にレギュラーを獲得した香川真司である。後に独ドルトムントで大活躍する香川と広山は、C大阪では“入れ違い”だった。「ボクがC大阪を離れた翌06年、香川が入団してきた。その頃から凄い選手だったけど正直、あそこまで行くとは思っていなかった。いいチームに行きましたね」。広山は、ポルトガルとフランスではチームの方向性とかみ合わず、なかなか出場機会に恵まれなかった。助っ人外国人選手がチームに馴染むかどうか、それには監督や選手たちの受け入れようとする度量の広さが関わってくる。それがドルトムントにはあった。

さらに広山は、自身の経験から国外のクラブでは、突出した“何か”が必要になる、と言う。「たとえば本田圭は非常にいい選手だし、チームを前に進める力があります。欧州のトップチームでも十分に通用すると思います。ただ、どうしても本田を取りたいか、というと話は別、本田圭のようなバランスの取れた選手は世界中にいる。やはり機動力のある香川やインテルの長友の方が、欧州では評価されやすいと思います」。もちろん、本田圭にも強力な武器はある。「何よりも魅力はあのフリーキックです。彼が蹴れば得点の可能性は高まるし、アシストも増えていく。欲しいチームは多くあると思いますよ」

日本サッカー界は、往々にしてバランスの取れた選手を育成することに目が向きがちである。しかし、世界で認められるのはそうではない――。広山自身、サッカー選手としては線が細い。それでも欧米各国から評価されたのは、サイドでのスピーディーなドリブルだった。突出した個性があれば、世界で光ることは出来るのだ。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月6日付掲載~

2011年8月6日土曜日

【日本サッカーを世界のものさしで測る】(01) 長友が海外で成功すると誰が思ったか

日本、パラグアイ、ブラジル、ポルトガル、フランス、そしてアメリカ――。今年4月、元日本代表MFの広山望は、海外5ヵ国目となるアメリカの独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズに移籍した。34歳の広山はこれまで欧州と南米、両大陸の1部リーグでプレーしている。同じ経験をしているのは三浦和(横浜FC)や高原直泰(清水)ら数少ない選手だけである。

広山の経歴には「日本人初」という冠が多い。パラグアイのセロ・ポルテーニョ時代、日本人として初めて南米クラブ王者決定戦・リベルタドーレス杯に出場した。ポルトガルとフランスでは、両国とも1部リーグでプレーした最初の日本人選手だった。今でこそ、多くの日本人選手が当たり前のように欧州でプレーしているが、そうした礎を築いた日本人プレーヤーのひとりなのである。

広山は、2001年にパラグアイでプレーするようになった時から、ずっと日本と国外との「評価の違い」を感じていた。そのいい例が、世界でも有数のビッグクラブのインテルに所属する長友である――と指摘する。「長友のような選手が認められ、成功したことは本当に良かった。しかしながら、彼がイタリアに行く前、Jリーグでプレーする若手の中で誰が海外で通用するか?と意見を求めたとしたら、多分、名前は挙がらなかったと思います。そういう選手が日本とは違った評価を受け、日本人の思っていた以上のレベルのクラブにまで行った」

つまり広山の言いたいことはこうなのだ。日本のメディアを含めたサッカー関係者は、技術が高くて一見、華麗なプレーをする選手を軽々しく“天才”と褒め称える。そして“天才”と呼ばれた選手の多くが大成せず、ツブれてきた。一方、長友のように基本に忠実で正確なプレーが持ち味の選手は、日本では軽んじられる傾向があった。日本のメディアや関係者の多くは、長友の力を見極めた上での評価ではなく、超名門クラブのインテルに移籍したからこそ、こぞって持ち上げているだけなのだ。

「(16~18歳の)ユース年代の選手も、それまで年代別の日本代表に入っていなくても、自分に自信があれば、どんどん海外に行けばいいと思います。長友の例で分かるように、日本国内での評価は、あまりアテにならない。それに振り回されなくてもいいと思います」。広山は、これまで元アルゼンチン代表FWリケルメ、元ブラジル代表MFジュニーニョ・ペルナンブカーノといった本物の天才と対戦してきた。本物の天才は、うまいだけではない。例外なく「強さ」を持っている。その部分も、日本人はいまだに目をつぶりがちである。 (取材・構成=ノンフィクションライター・田崎健太)


ひろやま・のぞみ 1977年5月6日、千葉県出身。習志野高-ジェフ千葉-セロ・ポルテーニョ(パラグアイ)-レシフェ(ブラジル)-ブラガ(ポルトガル)-モンペリエ(フランス)-東京V-C大阪-草津を経て、4月からは米国独立リーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズ所属。日本代表2試合。ジェフ千葉入りと同時に現役で千葉大教育学部に入学して話題を集めた。身長175センチ、体重68キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年7月5日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法+4】(12) 意中の美女には近づくな!

「今、何とか落としたいアラサー女性がいます。行きつけのバーの雇われ店主です。私と同じように彼女を狙っている常連は、少なく見積もって4人。ライバルに勝ちたい」(都内在住のTさん=41歳)

私が最も得意とする分野の相談です。その彼女は元モデルのOLさんで、自他ともに認める美貌の持ち主だとか。言えることはただひとつ。チヤホヤされるのに慣れている女性を口説くには、「むやみにお近づきになってはダメ」。

彼女が立つカウンターの周りでは、ライバルたちが陣取り合戦を繰り広げているようですが、Tさんはその輪に加わってはいけません。生まれた時からチヤホヤされ続けていたら、誰だって「自分は特別」とうぬぼれてしまいます。なので、自分になびかない特異な男性には「なんで?」と疑問を持ち、気になって仕方がありません。ライバルと同じ行動をするのではなく逆の行動をして気を引く。Tさんが取るべき戦法は、いたって簡単です。

具体的には、店主からなるべく離れた位置のカウンター席に座るのがベター。そこで、店のほかの女性スタッフと雑談し、楽しく盛り上がっちゃいましょう! 「何で私じゃないの?」 いつもスポットライトの中心でいたい店主の彼女は、ジェラシーを感じる。そうしたらシメたもの。「どうも初めまして」と、彼女の方から距離を縮めてくるかもしれません。でも、そこでははしゃいじゃダメ。淡々と「君は大勢いる女性の中のひとり」という態度で、余裕を持って接し続けられるかどうか。最後は我慢比べです。 (おわり)


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~日刊ゲンダイ 2011年6月29日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法+4】(11) 文句はナンバーワンになってから言え!

「OLの部下同士の仲が険悪で手を焼いています。口をきかないばかりか、お互いに<なぜ、あのコばかりひいきするのか?>と私に詰め寄ってくる始末……。仲裁すべきか、放っておくべきか。ちなみに2人とも23歳の新卒採用です」。東京在住の40代、Sさんから、こういったお悩みを頂戴しました。

「子どもじゃないんだから、グダグダ言ってないで仕事をしろ!」 個人的には一喝していただきたいところ。2人のOLは、何でも許してくれるであろうSさんに甘えているように感じます。そもそも仕事場ですし、学生気分も卒業してもらわないと!

女の争いといえば、ホステス同士も壮絶だろうとゾッとされるでしょう。そのあたりはご想像にお任せしますが……。店のマネジャーは、くだらないヤッカミを言う女のコには決まってこうたしなめていました。「文句はナンバーワンになってから言え!」 低レベルな争い、幼稚な考え方をする者を切る。夜の鉄則です。

「Rチャンばかり、ひいきされてズルい!」 毎日のように出勤して頑張っていたライバルをひがむ後輩もいました。そういった場合は、本人に非があることが多く、辛口なアドバイスをしたのを覚えています。「Rチャンは自分のプライベートを削って働いていたのに、アナタはお姉さんのヘルプにもつかず遊んでいた。努力もせずに<地位>と<自由>の両方をゲットするのは虫が良すぎない?」

険悪なムードになるとか、ショックを受けるとか、そんなのは心配ご無用。最近の女のコはヤワな若手よりオッサンですから。


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~日刊ゲンダイ 2011年6月22日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法+4】(09) カラオケの“モテ歌”はあのグループの…

「カラオケのモテ歌は?」「OL同士の仲が悪く、手を焼いている……」。読者の方々から「ピンポイント相談」がありました。ありがたいことです。そこでお寄せいただいた質問から厳選し、皆さんの救いの一手となるヒントを、お話しできればと思います。もうしばらくお付き合いください。

今回は早速、カラオケです。「何の歌を歌ったらウケる?」などとよく聞かれます。「やっぱり、EXILE、GReeeeNです」などとベタなことは申しません。よく分からない最新ヒット曲は、若手社員に任せましょう。

「とにかく気持ちよく歌いたい」というのであれば、ご自身の十八番で思う存分喉を鳴らしてください。でも、もうちょっとだけ株を上げたいですよね。アイドルグループ嵐の「One Love」を押さえておくと便利です。多少音を外したり、乗り遅れても、「課長ってカワイイ!」と笑って許されやすい。ホステスさんにもOLさんにも、ウケのいい選曲です。もっとも、嵐が恥ずかしいようでしたら、安全パイのSMAPの「夜空ノムコウ」を。

「どんな歌をリクエストしたらいい?」という質問もいただきます。私はホステス時代、メーカーのマーケティング部の課長さん(45)から、「加藤ミリヤは歌えるかな?」と聞かれたことがあります。「そこも押さえているんだ」と、その課長さんとの距離が、一気に縮まったような気がしました。


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~日刊ゲンダイ 2011年6月8日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法+4】(10) モテるハゲになる!

ルーニー選手の植毛が、話題となりました。130万円をかけたハイテクの手術だといいます。ルーニー選手のように、髪の薄さに悩む男性は本当に多いと実感します。

先日も、心理カウンセリングのセミナーに参加された40代半ばのAさんから、「ハゲだから、自分に自信が持てない」と相談を受けました。なので、私はこうアドバイスしました。「ハゲはハゲでも、2種類あるってご存知ですか? 女のコにモテるハゲとモテないハゲ。Aさんもゼヒ、前者になってください」

薄毛でも、すてきな男性はいます。ブルース・ウィリスさん(56)もそのひとり。ハリウッド俳優だけでなく、ホステス時代のお客さまにもたくさんいました。皆さんの共通点は、人一倍仕事に懸命に取り組んで結果を出していること。そして何より、姿勢の良さです。立ち居振る舞いが美しい男性の薄毛は気になりません。

薄毛から丸刈りにしたBさん(47・不動産)は、こんなエピソードを話してくれました。「通り雨に降られて、営業先で頭を拭いていたら、<大変ですね>って言われてね。だから、<ハゲは拭くだけでいいから楽です>なんて雑談をしたら、会話が弾んで。おかげで契約が決まりそうなんだ」。Bさんは<ハゲをバネに仕事を取る男>と評判でした。


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~日刊ゲンダイ 2011年6月15日付掲載~

2011年7月21日木曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(08) 知人→ステキな男性に“昇格”のきっかけは…

ツイッター、フェイスブック、ミクシィ……。ほとんどの女のコは“デジタル日記”を愛用し、他人とのつながりをいつも大事にしています。携帯電話やパソコンを使って、何だか器用そうに見えますが、難なくITツールを使いこなせているかといったら、そうでもなかったり……。

私もそんなITオンチのひとりですが、それでも頑張って初期設定し、つぶやき始めました。ところが、画像処理のノウハウがなく、画像のサイズ比率がうまく合わせられない。せっかくキメ顔で撮影した写真でも、アップすると、実物より横広な顔になってしまいました。

すると、アップして間もなく、知り合いの男性(39)から、「顔写真が膨張しちゃってる。実物と全然違うから残念だよ」といったフォローがあったのです。そのひと言のうれしかったこと! 他人から見れば大したことのない、ささいなことでも、女のコにとっては“一大事”。そんな小さなトラブルを察知してくれる男性は「この人、分かってる!」と好印象につながりやすいのです。その知人は、画像処理の仕方を丁寧にレクチャーしてくれました。キレイな肌に見せるように軽く修正までかけてくれました(笑)。

ささいなことがきっかけで、知人→ステキな男性に“昇格”。これって、女性には、まま「アル」と思います。


☆わたなべ・のりこ 10代で水商売の世界へ。さまざまな恋愛や人間関係の経験をもとにセラピストとして独立。現在は恋愛、結婚、夫婦問題のカウンセリングや講演などを行う。公式ブログhttp://ameblo.jp/liberation-heart/


~日刊ゲンダイ 2011年6月1日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(07) 褒め方が分からない!

「叱るより褒めるのが分からないんだよなあ」。メーカー勤務のAさん(43)はバリバリの管理職。自信満々で働いているとお見受けしていたのですが、意外や、若いOLさんを持て余しているようでした。「うたぐり深いタイプで、言葉の裏を読もう読もうとする。褒めれば、<前置きはそのぐらいにしてください>と聞く耳を持たない。こっちは他意はないのに、どうしたもんだか……」

管理職は大変だなあと思いつつ、私はそのOLさんの気持ちも分かります。なぜって? 私自身がうたぐり深い性格だからです。Aさんの話を聞いた当時は思いつきませんでしたが、カウンセリングの仕事を始めてから気づかされたエピソードがあります。

「アナタは、上司の方から頼りにされているんですね」。お世話になっている得意先の人から、私の仕事ぶりについて上司が褒めていたと聞かされたことがありました。そのうれしかったこと! 上司から面と向かって優しい言葉をかけてもらったことはなかったのですが、直接褒められるよりグッと心に響きました。今から思えば、それは上司の“計画的犯行”だったのでしょう。うたぐり深い私の性格を踏まえた作戦。でも、まんまとハマってしまいました。

褒め言葉は、本人から直接聞くより第三者を介した方が、信憑性が増すことを実感しました。外部の人から褒められて悪い気はしないですし、ヘソ曲がりな若いOLさんも警戒せずに喜ぶのでは? 彼女たちをやる気にさせるのも、意欲を失わせるのも、上司の腕次第。皆さんにオススメしたい人心掌握テクです。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月25日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(06) Re:Re:Re:Re:Re:が好き

「自分は心配性だ」という30代歯科医のお客さまがいました。静かに飲まれる方でしたが、その日は落ち込んでいる様子でした。「どうされたんですか?」と尋ねると、意中の20代女性に送ったメールの返事が、「そっけなかった」。何でも、返信メールの件名がそのまま<Re:>で戻ってきたというのです。

「これって、脈なしメールの典型でしょ?」 その方はたった一度のやり取りでそう決めつけていたので、私はこう話しました。「そうとは限りません。私の場合、Re:Re:Re:……と、たくさん続けば続くほど、<私たちはこんなにやりとりをしてる!>ってうれしくなりますよ」

私の友人の中にもRe:メール愛好者は結構います。年齢は20代前半から半ばの若いコに多いでしょうか。そういうちいさなことに喜びや、つながりを感じるのです。その後、歯科医の方は、再チャレンジされ、無事にRe:マークが十数回続くほどのメル友になり、食事デートをする仲になりました。
一方で、メール依存症で連日連チャンで送り続ける50代会計士の方もいました。<もう少し一緒にいたかったよ> 別れた直後にもかかわらず、まめにメールを送っていたそうですが、男性が軽々しくそぶりのあるメールを送るのはお勧めできません。女性は例外なくアマノジャクな生き物ですから。

女性からのメールで、<また今度>という言葉は要注意。「今度とお化けは出たことがない」などといいますが、その通り。お客さまに<また今度>とレスして、誘いに乗ったことは過去に一度もありません、私も。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月18日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(05) 「貯蓄額いくら?」はタブー

<気になっている女のコの貯蓄額が知りたい> 42歳の読者の方から、こんな質問が寄せられました。どうやら、デートに誘う前に彼女の生活レベルが知りたいようです。

ホステス時代の同僚、ゆきなチャン(20代半ば)は、昼間は化粧品の販売部員として働いていましたが、月給15万円足らず。生活費の足しに、週3日の夜のバイトで稼いでいました。もちろん、水商売のバイトは禁止ですが、ある日突然、会社の上司が店にやって来て、ゆきなチャンは大慌て。源氏名で指名をしたので、計画犯で乗り込んできたのは間違いありませんでした。「ゆきなです、ご指名ありがとうございます。以前、どちらかでお会いしましたか?」 その場は他の女のコが代わりに接客し、逃れたのですが……。

水商売の場合、ゆきなチャンのように生活費を稼ぐためのバイトでも、2、3年働けば、1000万円の貯蓄はラクラクできるかと思います。私の場合、心理学のスクールに通うのに、ほとんどの貯蓄が飛んでしまいましたが、普通のOLさんはどうでしょう?

貯蓄額は同性同士でもなかなか明かさないので、難しい質問。ましてや、男性に聞かれるのも嫌がると思います。なので、生活レベルが知りたいなどと思わずに、直球勝負すること。機転の利く女性なら、どんな店でも喜ぶはず。そうでなければ、それまでの女性ってことです。


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~日刊ゲンダイ 2011年5月11日付掲載~

2011年7月10日日曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(04) 深紅のスケスケTバックは…

深紅のスケスケTバックを誕生日プレゼントにもらったことがあります。ホステス時代の話です。贈り主は、30代SEのお客さまでした。私を笑わせようとシャレで選んでくれたのですが、そのお客さまは普段、冗談ひとつ言わない真面目な性格。かなり無理をして選んでくださった感じがして、逆に申し訳なくなりました。女性の気を引きたくてアノ手コノ手。気持ちはよく分かりますが、一歩間違えると……。

「僕のこと、ター坊って呼んで。ター坊はね、きょう、大口の契約を決めたんだぞぉ~」。新人の女のコに突然、ニックネームで呼ぶように無理強いする50代のお客さまがいました。この方も、普段はそういったタイプではありません。若いコに好かれようと無理やり笑いを取ろうとしたり、自慢話でアピールしていました。

皆さんも心当たりがあるかと思いますが、面白くなくても、面白いフリをしなければならない。かなり気を使います。若い女のコはドン引きです。男女の関係には、足し算と引き算の法則があるのをご存知ですか? 多くの男性は自分の魅力を足そうとしますが、女性は減点法で男性を“品定め”します。「あの人は清潔感がないからNG」「ジョークが寒いところがダメ」。女性が「あばたもえくぼ」と思える相手は、恋をしている男性にだけ。

なので、株を上げようとあれこれ取り入れるより、まずは「自分が持っている能力や魅力に磨きをかける」ことです。無口な男性なら聞き上手になればいいんです。減点法に太刀打ちするには、これが一番!


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~日刊ゲンダイ 2011年4月27日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(03) “透け乳首”が好きなわけでは…

あだ名は「乳首クン」。いつも、ワイシャツからポチポチッと乳首が透けていた30代のお客さまの話です。女のコたちにからかわれていました。ホステス時代に憧れていた40代前半の男性も、いつも素肌にワイシャツでした。“透け乳首”が好みなわけではありませんよ(笑)。

その男性は、透けないように厚手の生地のワイシャツを着ていました。しかも、華美ではないカフスを、さりげなく合わせているところも好感度アップ。会社帰りにフラッと店に遊びに来る男性に会うのが、本当に楽しみでした。

どんな女性も清潔感のない人は苦手。男性は年齢を重ねるほど「清潔感が命」です。パリッとのり付けされたワイシャツと、ハンカチがおすすめです。どちらも白系のカラーを選ぶといいのではないでしょうか。

どんなにキレイに洗ってあっても、シワシワだと清潔感が半減。アイロンがけが面倒だという人は、シワになりづらい洗い方や干し方があるので、チャレンジしてみてください。くれぐれも奥さまに命令口調で指示するのは、ダメですよ。自分で一度試されると、清潔感への意識も高くなるかもしれません。

いつもヨレヨレのスーツを羽織っている40代半ばのお客さまがいました。ひいきにしてもらったのですが、それだけが「残念」でした。そのお客さまは管理職だったので、「部下に私の意思がなかなか伝わらなくてね。困ったもんだよ……」なんて、よく嘆いていました。<汚い身なりでも平気な上司は、仕事もだらしない>。部下のOLさんたちに、そう思われていたのかもしれません。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月20日付掲載~

2011年7月9日土曜日

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(02) 「今のうちに直しておきなさい」

平成生まれの彼女たちは、「昭和生まれのオトーサン上司」が大の苦手。就職難を勝ち抜き、入社したシッカリ者とはいえ、相手は親子ほど年が離れた男性です。思春期の思い出がよみがえり、いきなり「ばっちぃオヤジ」と嫌悪感を抱いてしまう恐れも。私も高校生の頃はそうでした(笑)。

そうならないためにも、とりあえずランチに誘いましょう。どんな店がいい? パスタメニューのある店は“安全パイ”だと思います。パスタが嫌いな女のコはそうはいませんし、皆さんが、若者のつたないお箸の使い方にイライラする心配もありません。ランチに誘うだけでも、これから一緒に働いていく仲間として「君に関心がある」ということをアピールできます。上から目線にならず、歩み寄ってあげてください。

以前、50代のお客さまにフレンチをごちそうしていただいたことがあります。当時の私は恥ずかしながら、フォークとナイフの使い方が分かっていなかった。で、お客さまは、こう優しく指摘してくださったのです。「今のうちに直しておきなさい。他のお客さんと食事に行った時、きれいに使えていたら印象もアップするよ」。グッときました。そして、何より私のためを思って言ってくれているのが分かったのです。

「なんだ、こんなことも知らないのか!?」なんて、ただバカにされていたら、傷ついていたでしょう。私の場合はフォークとナイフでしたが、お箸だって同じ。部下のOLのためを思ってアドバイスすれば、喜んで聞き入れると思います。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月13日付掲載~

【新人OLと仲良くなれる8つの方法】(01) 「いつも楽しませてくれてありがとう」

六本木で8年間、ホステスをしていました。初めまして。恋愛心理セラピストの渡辺紀子と申します。その間、出会った男性は5000人以上。親子ほど年の離れた男女がどうやって仲良くなるか。ホステス時代の経験を生かし、お役にたてればと思っています。

私はサバサバとしたおっさんキャラ。そこに愛嬌を感じてくださったオジサマ方に、ひいきにしてもらいましたが、店には、いろいろなタイプのお客さまがいらっしゃいます。もちろん、モテる男性もいれば、モテない男性もいます。フトコロ? 大盤振る舞いをしなくても、ホステスと恋愛関係になるお客さまがいるんです。

IT関係の仕事をしていた30代後半のAさんは、よく上司に連れられて来ていました。たまに上司が中座して、私と2人きりになると「いつも上司を立てて、楽しませてくれてありがとう」「この仕事って、大変だよね。俺には気を使わなくていいから」と、笑顔を浮かべてくれました。

女は、こういう小さな心遣いに弱いんです。自分が認めてもらえたような気分になれるんです。ホステスはお客さまの愚痴を聞くのも大事な仕事ですが、私はAさんが、「自分はもう年だから」とか「不景気だから」と愚痴っているところも、見たことがありません。Aさんはきっと、職場の女性にも人気があったと思いますよ。若い女性は“男の言い訳”に敏感ですから。

誰だって落ち込むことはあります。でも、モテたいのなら、自分を奮い立たせてください。


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~日刊ゲンダイ 2011年4月6日付掲載~

【特別寄稿】「なでしこジャパン」に2つの重大不安 鈴木良平・初代日本女子代表監督

女子W杯準々決勝で日本代表が開催国ドイツと対戦する(日本時間10日午前3時半開始)。1次リーグ2勝1敗の女子代表は「持ち味」を発揮できないまま、これから強豪ばかりと戦う。

彼女たちの持ち味とは「速いパスワークでボールを回して相手ゴールに迫る」。しかし、1次リーグ1試合目のニュージーランド戦では、相手の肉弾戦に真っ向から勝負して大苦戦。3戦目は対戦したイングランドと同じ戦法、ロングボール合戦を挑んで0-2の敗戦となった。持ち味を出そうとするのではなく、相手に合わせた戦い方に終始したからなのだ。

原因はハッキリしている。フォーメーションに問題がある。女子代表の布陣は、「2トップを置いて両サイドにFW大野とMF宮間をワイドに配置」「守備的MFに沢と阪口」となっている。2トップと守備的MFの間に大きなスペースが生まれ、速いパスワークでボールを回そうにも選手同士の距離が開き過ぎ、効果的なパス回しができないでいる。たとえば、2トップを「1トップとトップ下」にすれば両サイド、守備的MFとの距離感も格段に良くなる。トップ下はFW川澄やMF岩渕でもいいし、サイドから宮間を持っていってもいい。

佐々木監督の選手交代にも疑問がある。イングランド戦の後半30分、守備的MFの阪口をベンチに戻した。目を疑ってしまった。この日の阪口はボール奪取、キープ、パス、位置取りなど完璧な出来栄えだった。MF岩渕と代えるべきは沢だった。イングランド相手に何もできず、ミスも目立った沢をなぜ交代させないのか? 佐々木監督が「大黒柱の沢は何があってもフル出場させる」と思い込んでいるとするならば――。そうでないことを祈るばかりだ。 (ドイツサッカー協会公認S級コーチ)


~日刊ゲンダイ 2011年7月11日付掲載~

2011年7月8日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(14) カズさんは僕の名前を知らなかった(笑)

プロ4年目の2000年にトルシエ監督からシドニー五輪代表に呼ばれ、日本代表にも召集されました。当時の日本代表にはカズさん(三浦和良、横浜FC)やゴンさん(中山雅史、札幌)といったスター選手が名を連ねていました。

こんなエピソードがあります。ボール回しの練習中に選手は「パスを回す相手の名前を呼ぶ」のがトルシエ流でした。皆が名前を呼び合う中、カズさんはボクにパスを出す時に「キーパー!」と声を出していました。本人に確認したわけではないのですが、多分、ボクの名前を知らなかったのではないでしょうか(笑)。

01年6月、ブラジル戦で代表デビューを果たしました。ジーコ監督と岡田監督からも代表に呼ばれました。しかし、02年日韓、06年ドイツ、昨年の10年南ア大会とW杯とは無縁でした。

●干されて逃したW杯出場
09年、浦和はフィンケ監督体制になりました。この年、ボクは23試合に出場しましたが、勝ち試合の次の試合の先発から外されたり、理不尽な扱いを受けました。フィンケは「選手に影響力がある」「自己主張をする選手」を排除する傾向にありました。09年オフに名古屋に移籍した闘莉王やボクは、どうも目障りな存在だったようです。

10年シーズンは完全に干され、試合に出られないボクは、当然のことながら6月に開幕した南アW杯メンバーから外れました。当時、岡田監督から「浦和で試合に出られないものなのか?」と何度か言われました。W杯本大会直前に第1GKのナラさん(楢崎正剛、名古屋)に代わって第2GKのエイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)が正GKに抜擢されました。

フィンケが成績不振を理由に09年限りで浦和を辞め、10年もボクが浦和の正GKとしてプレーし、そして第2GKとして日本代表の一員だったとしたら……。南アW杯期間中にボクは出場機会を求めて湘南に期限付きで移籍しました。1シーズン終了後に現役を引退することになりました。

第二の人生をどう送るのか? ボクは政治の道を志しました。全国的な傾向ですが、埼玉でも20~40歳台の投票率が非常に低く、政治に無関心な人が少なくありません。ボクという人間を通して政治に関心を持っていただきたい。サッカー選手としてボクを育ててくれた地元・埼玉に恩返しをしたい。そういう思いから4月の統一地方選・埼玉県議選に出馬しました。次点でしたが、ボクの名前を書いてくれた9704人の期待、熱くサポートしてくれた協力者の熱意を一時も忘れてはいけない。そう思っています。ご愛読ありがとうございました。 (おわり)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月2日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(13) 「おまえはバカか!」…小嶺先生に怒鳴られたPK事件

中学から高校に進む際、地元の大先輩ナラさん(楢崎正剛=名古屋)が2年生に在学していた奈良育英高に行くつもりでした。ある日、サッカー部の顧問からいきなり「小嶺先生が今日、おまえの自宅を訪問される」と言われました。

「小嶺先生って……あの国見高の小嶺先生!?」 ひとりでいらっしゃった小嶺先生は、両親と酒を飲みながら「国見高は公立。半年前には住民票を移さないと」「今のうちに国見中に転校するという手もある」など話が進んでいきます。ボクは「あれっ? 国見高に行くことに決まったの?」と、キツネにつままれた状態でしたが、悪い気はしませんでした。サッカー名門高の有名監督から直々に誘われたわけですからね。

そうそう、小嶺先生は「来年からウチは坊主(頭)じゃない」と言ってました。長崎に着いて最初にやったことは……やはりバリカンで丸坊主にされてしまいました(笑)。サッカー部は寮生活でした。練習が終わっても気の休まる時間はありません。

1年生は「ご飯3杯ルール」にも苦しめられました。「朝、昼、晩と全部員がご飯を最低3杯ずつ食べる」のがサッカー部の掟。3年生は茶碗で、2年生は丼で、そして1年生はラーメン丼で3杯、必ず食べさせられました。一度、父母会から「毎食ラーメン丼3杯は食わせ過ぎ」と抗議が来ました。「食わせない」ならいざ知らず、食わせ過ぎで文句を言われても「小嶺監督も立つ瀬ないよなぁ~」とボクはクビをかしげたものです。

高校サッカー界の名伯楽、小嶺先生は「データ収集力&解析力」にもたけていました。3年生で出場した高校サッカー選手権2回戦、丸岡高戦は0-0からPK合戦にもつれました。小嶺先生から「相手がPKを蹴る前にオレを見ろ」という指示が出ました。ベンチ前の小嶺先生が「右手を上」に上げるとボールは右上隅に、「左手を下」にするとボールは左下隅に飛んできました。

方向も高さもドンピシャ。3本連続でPKを止めたボクが、勝利の立役者として記者に囲まれました。「すべて小嶺先生の指示通り。完璧でした」。後で大声でどやしつけられました。「おまえはバカか! 種明かしをしたら、次から指示が出せないじゃないかっ!」。3回戦の静岡学園戦もPK合戦。5-6で敗れて準決勝に進めませんでした。実は静学戦でボクはPKのキッカーも務めたのですが、モノの見事に外してしまいました。

高校選手権の思い出はPKを止めても怒られ、外してはガッカリしたことに尽きます。あそこで勝っていたら、憧れの国立競技場に行けたのですから――。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年7月1日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(12) 長友・本田・岡崎…日本代表の若かりし頃

今をときめくインテル所属の長友(佑都)だけど……アイツがFC東京でプレーした頃、実は良く知らなかったんだ。「知らなかった」は語弊があるかな(笑)。ユウトがどんな選手だったのか、「ほとんど印象に残らなかった」という言い方が正確です。理由のひとつに、FC東京には相性が良くて、負けた記憶が1試合ほどしかなく、当然、攻め立てられることも少ない。そうなると左SBの長友が何度も何度もオーバーラップし、ゴールマウスに立ちはだかるボクを慌てさせた……なんて場面は記憶にありません!

長友は人懐っこいヤツだし、よくしゃべるし、とにかく朗らかなムードメーカー。そんな長友が日本代表のレギュラーに定着し、イタリアに渡るとインテルに引き抜かれ、それでも堂々のプレーを見せています。なかなか感慨深いモノがあります。

●しゃべりたくないタイプのはずが…
南アフリカW杯ベスト16入りの立役者のひとり、本田(圭佑)と面識がなかった頃、正直に言って「あまりしゃべりたいとは思わないタイプ」でした。唯我独尊的プレーばかり。年長者にもズバズバとモノを言う。オレ様体質――。そんな風評を耳にしていたからです。

日本代表の合宿で初めて会った時、本田が話し掛けてきました。「都築さん、覚えてないと思いますが、自分がG大阪のジュニアユース時代(99年~01年)、トップチームで練習中の都築さんをよく見ていました」。ボクは97年にG大阪入りし、00年は19試合、01年には29試合に出場しましたし、中学生時代の本田からは“雲の上の人”に見えたのかも知れませんね。いずれにしても噂(?)と違って本田は礼儀正しくて、いいヤツだったし、評価ポイントがアップしたのは言うまでもありません(笑)。

南アW杯予選で活躍した岡崎(慎司)も、最初は「記憶に残らなかった」選手のひとりでした。06年元日の天皇杯決勝戦は浦和と清水の顔合わせ。岡崎にとってプロ入り後、初の公式戦出場だったし、相当に気合が入っていたみたいです。「天皇杯の決勝に先発フル出場しましたが、ゴール前に都築さんがデンと構えて何も出来ませんでした。1-2で負けました。悔しかったです」。日本代表合宿で会った時、ニコニコしながら話し掛けてきた岡崎にボクは「えっ? あの試合に出てた?」とひと言。もちろんワザと冷たく言い放ったのですが、さすがの岡崎も顔が引きつっていましたね(笑)。

3人とも86年生まれでボクの8学年下。年の離れた弟みたいな感覚だけど、日本サッカーのイメージアップのために頑張って欲しいね。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月30日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(11) 闘莉王の「飲んでるから来てよ」攻撃には参った

浦和で一緒にプレーしたFWワシントンが先ごろ、現役引退を表明したみたいですね。06年はリーグ得点王の活躍でリーグ初優勝に貢献し、07年にはACL優勝と世界クラブW杯3位の原動力でした。そのオフに退団することになったが、周囲には「せいせいした」という声も少なくありませんでした。守備意識が希薄な選手だったのでチームメートから「相手ボールの時はサボってばかりじゃないか!」と反感を買うことが多かったからです。

ある時、チームで一番寡黙なヤマさん(山田暢久)が「もっと守備をしないか!」とワシントンを怒鳴ったことがありました。ボクを含めて選手全員が「おおっ! ヤマさんが大声を出した!」と仰天しました(笑)。でも、ワシントンのいない08年、選手の思いは「残って欲しかったなぁ~」に変わりました。やはりFWは店を取ってナンボ。守備で手を抜こうが、ここぞという場面でゴールを決められる選手がチームには必要です。そのことが身に染みたというわけです。

闘莉王(名古屋)が浦和にいた頃、「いつものところで飲んでるからね。早く来てよ!」という電話をよくかけてきました(笑)。ボクが浦和入りした翌04年、闘莉王が入団してきました。アイツにとって浦和での1試合目、アウェイの広島戦でした。闘莉王の背中を見ながら「凄い! 何でも出来るDFって本当にいるんだ!」と大きな衝撃を受けたものです。足元の技術が高く、ヘディングも強い。当たり負けもしないし、読みも鋭い。攻撃参加も効果的だし、シュート力もある。でも、大きな欠点がありました。攻め上がると前線に居座ることがあり、持ち場であるDFの中央が空いてしまい、ピンチになることがあったのです。

ボクと闘莉王は、練習でも試合でも「早く戻ってこい!」「すぐには戻れない!」「だったら上がるなよ!」と怒鳴り合うこともしばしばでした。09年にフィンケ監督が就任後、酒を酌み交わすようになりました。さいたま市内の焼き鳥屋から闘莉王が「待ってるからね!」と電話をかけてくる。「もう夜も遅いし、行かへん」と電話を切っても「まだ?」とすぐにかかってくる。「行かへんって!」ときっぱり断っても、30分ほど経つと「まだ?」。根負けして焼き鳥屋に行くと朝まで付き合ったことも何度か……(笑)。

アイツは先輩後輩の関係をわきまえ、自然体で他人を敬うことの出来るヤツです。だからといって堅苦しいわけではないし、こちらからヘンに気を使われることもない。一緒にいて心地良い気持ちにさせられる選手だった。中位以下に埋もれている浦和を見ると「闘莉王がいたらなぁ~」と思わずにはいられません。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月29日付掲載~

2011年7月6日水曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(10) 監督もいろいろ…「選手目線」あり「上から目線」あり

すべての監督が人間的にも指揮官としても素晴らしかった――とは言い切れません。それではキレイ事になってしまいます。

浦和に移籍した翌04年にギド・ブッフバルトが監督に就任しました。ボクを含めて選手は、彼のことを親しみを込めてギドと呼んでいました。ギドが際立っていたのは「人心掌握術のうまさ」です。あの頃の浦和にはアクの強い選手が多く、彼らを気持ち良くプレーさせることで「チーム全体の強さに結びつける」ことにたけていました。

気配り上手の監督でもありました。浦和が初めてJリーグを制した06年。ボクは靭帯断裂などケガに見舞われ、試合に出られないことが多かったんです。シーズンも終盤に差し掛かった30節の横浜M戦はギシ(山岸範宏)が体調を崩し、ボクが先発しました。4月の第10節以来の先発でしたが、試合は1-0の完封勝利。納得のいくパフォーマンスを披露できました。

次節の名古屋戦の前日、ボクはギドに呼ばれました。「オマエさんの(横浜M戦の)プレーは本当に素晴らしかった。次もオマエさんを使いたい。しかし(これまで出場機会の多い)ヤマギシを使いたいという気持ちもある。オレは悩んでいる」と言われたんです。ボクはこう返答しました。「自分は(たとえベンチでも)ちゃんと練習するし、チームに悪影響を及ぼすようなことはしない。とにかく、チームが優勝するためのベストを選択して欲しい」

06年シーズンはギシが24試合に出場。ボクは11試合でした。正直に言ってリーグ優勝は「うれしさ半分」。全試合に出場してチームに貢献し、その上でリーグ初制覇の美酒に酔いしれたかった! でも、ギドはこの年の天皇杯にボクを重用してくれ、07年元日に行われたG大阪戦との決勝戦に勝って天皇杯優勝の喜びをピッチ上で味わうことができました。振り返ると満足のいくシーズンでした。

07年はギドに代わってオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰しました。ベテラン選手から「とても厳しい監督だった。ボールに腰掛けただけで怒鳴られた」と聞かされました。実際に厳格な監督でしたね。ギドが「選手目線」だとするとオジェックは「上から目線」でした。反発する選手もいました。

ところが07年6月に開催されたA3(日本、韓国、中国の各リーグ優勝クラブによる東アジアクラブ王者決定戦)で3位に終わった途端、いきなり対話路線に急転換でした。戸惑う選手もいましたが、ボク自身はオジェックを評価しています。勝利のために何をすべきか? 07年のACLを制して年末に開催されたクラブW杯で3位に食い込めたのも、自分を押し殺して方向転換を決断したオジェックの功績が大きかったと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月28日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(09) 「街でおいしいモン食ってこい。領収書を持ってこい」

ちょうど1年前になりますね。日本代表が南アW杯でベスト16入りの快挙を達成しました。W杯本大会前にチームの調子が上がらず、岡田武史監督は批判の矢面に立たされました。本番直前にGKをナラさん(楢崎正剛、名古屋)からエイジ(川島永嗣、リールス=ベルギー)に代えました。さらにボール支配率を高めて攻守の切り替えを素早く行う戦法から「まずは専守防衛。1トップに置いた本田圭を中心に前線の3人が攻撃する」に転換しました。

大がかりなチーム改造でした。岡田監督は、W杯で勝ち進むために自説を曲げてまで戦術変更を行いました。でも、選手は素直に受け入れて短時間でモノにし、きっちりと結果を残しました。それもこれも「岡田監督がチームをまとめあげていた」からでしょう。チーム内に「和」がなければ、あのタイミングでのチーム改造は、マイナスに作用する危険性をはらんでいました。しかし、岡田日本はプラスに作用し、さらに結束力を高めていってレベルアップした感があります。

岡田監督をひと言で言えば「オープンな人」でしょうか? 時に日本人指導者から“閉鎖的な部分”を感じることがありました。監督と選手には「適切な距離感」が大事ですが、ことさらに“隔たり”をつくってしまい、意思の疎通が円滑に図れない状況に陥ることがあります。そのあたりも岡田監督は上手でした。

●岡田監督は「安いな」とひと言
09年1月20日、熊本市で11年アジアカップ予選イエメン戦があったのですが、試合後に岡田監督が「街でおいしいモンを食べてこい。店の領収書を持ってこい。後で(お金を)返すから」と言ってくれました。なかなか粋な計らいでした。4、5人のグループに分かれて熊本市内の飲食店街に繰り出し、名物の馬刺しやからしれんこんを食べ、食事の後は飲み屋に。一緒に出掛けたメンバーの中で最年長のボクが両方の支払いを済ませ、2枚の領収書を持ってホテルに帰りました。

食事分の領収書だけを差し出しました。岡田監督は「飲み代の方が高くついた」ことを知っていたはずです。でも、そのことにはあえて触れず、ただ「安いな」と言っただけでした。岡田監督とボクの間には《あうんの呼吸》がありました。

国見高の後輩に当たるヨシト(大久保嘉人、神戸)、浦和時代にチームメートだった闘莉王(名古屋)といった個性的な選手と仲が良かったボクは「選手同士を取りまとめる」役目も任されていたと思います。戦力以外の部分でもチームの役に立ちたい。そう思わせる力が、岡田監督には備わっていたと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月24日付掲載~

2011年7月1日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(08) 週刊誌に「キャバクラ騒動」を書かれたのにはまいった

4日に鹿島で行われた東日本大震災復興支援イベントで「顔も見たくない人」に会いました。ジーコにだけは会いたくなかったのです!

前任者トルシエに続いてジーコ監督も代表に呼んでくれました。後半途中から出場したマレーシア代表戦(鹿島、04年2月7日)の翌々日のことです。代表合宿で缶詰め状態の選手、スタッフのリフレッシュを兼ねて鹿嶋市内の焼き肉屋で食事会がありました。飲み足りなかった選手8人で寿司屋に向かいました。顔ぶれは久保竜彦、小笠原満男、奥大介、大久保嘉人、山田暢久、茂庭照幸、山田卓也。あいにく休業日だったので近くの別の店に入りました。《無断外出してキャバクラ店に入り、女の子の胸をわしづかみ、デブなどと暴言を吐いたり、出前で取った寿司を他の客に投げつけたり、パンツを脱いだ選手もいた》 某週刊誌にこんな形で報じられました。

●飲み直そうと入っただけなのに
何でも禁止、禁止のトルシエと違って、ジーコは「試合、練習以外は束縛せず」でした。外出禁止令も皆無でした。この時も規則を破ったのではなく、ただ単に飲み直そうと思って入ったのがキャバクラだったのです。皆の格好もジャージー姿だったし、寿司にしても寿司屋の大将が「来てくれたのに申し訳ない」とわざわざ届けてくれたもの。ちゃんとおいしくいただきました。確かに賑やかに飲み食いしましたが、週刊誌報道のような立ち居振る舞いはしていません。

ただし――。3日後の12日にイラク戦が、18日にはドイツW杯予選のオマーン戦が控えていました。時期が時期だけに非難されても当然だったと思います。何よりも日本代表を応援してくれるサポーターに「心配をかけました」を改めて頭を下げたいと思います。

この一件は、3月1日に発売された週刊誌に報じられ、8選手は「当分は代表に召集しない」ことになりました。でも、イラク戦には5選手が出場。続くオマーン戦には3選手が出場して、ロスタイムには(久保)タツさんが劇的ゴール。1-0で勝利しました。主軸として期待を寄せていた選手を外さざるを得なかったジーコ監督の胸中は、いかばかりだったのでしょうか。

フィールドの何選手かは04年のうちに代表に復帰し、ボクは06年2月の米国遠征(米国戦)、キリンカップ(フィンランド戦、静岡)、ドイツ遠征(ボスニア・ヘルツェゴビナ戦)でベンチ入りしました。しかし、出場機会は訪れず、同年6月のドイツW杯メンバーにも入れませんでした。ジーコに対して「すいませんでした」「もっと呼んで欲しかった」。いろいろな感情が交錯して「会いたくない」と思ったのでした。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月23日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(07) 「どうして2人はしゃべらないんですか?」 楢崎、川口の両先輩に突っ込んだ

日本代表正GK争いは、90年代半ばから「双璧」の時代でした。98年フランス、06年ドイツW杯はヨシカツさん(川口能活、磐田)がレギュラーでした。02年の日韓W杯はナラさん(楢崎正剛、名古屋)が、ベスト16入りの立役者のひとりとなりました。ボクは00年にトルシエ監督から初めて招集されて以来、ジーコ監督、岡田監督にも代表に呼ばれました。しかし、2強の牙城を崩すことはかなわず、最終的に代表歴は6試合にとどまりました。

同県人のナラさんのプレーを初めて見たのが中学1年生の時。ボクはすでに身長が180センチありましたが、坊主頭でスーパーセーブを連発するナラさんは自分よりひと回り大きく見え、こんな上手なGKがいるんだ!と驚かされたものです。どんな人?と聞かれるたびに「ナラさんは普通にいい人ですよ」と答えます。年上だからといってエラソーにすることはないし、ピッチ内外では感情的に振る舞うこともないし、とても穏やかで優しい先輩です。

ヨシカツさんはタイプが違いますね。若い頃は試合中にミスをした先輩をどやしつけたり、負けるとGKグローブを放り投げたり、感情をダイレクトに表現すると聞かされていました。でも、ボクが代表に呼ばれるようになった頃のヨシカツさんは、まるで別人でした。ただ、ヨシカツさんの周辺から漏れ伝わった「ライバル心が強過ぎてGK同士あまり口をきかない」という噂は……ウソではなかったと思います。

ヨシカツさん、ナラさんと3人だった時に聞いてみました。ボクはそういうことをサラッと聞けるタイプなんです。「どうして2人はしゃべらないんですか? 話したくないんですか?」 2人ともニコニコ笑っています。さらにツッコミを入れてみました。「黙っていると気まずくなりませんか?」 それでも2人はニコニコしていました。ぶしつけなことを後輩のボクが言えたのも、ナラさんとは長い付き合いで気心が知れているし、ヨシカツさんも後輩が言い過ぎても大目に見てくれる大人だったから。ボクもその辺の“空気”をちゃんと把握した上でのツッコミなのです(笑)。

南アW杯の前年(09年)はヨシカツさんの故障もあって、代表GKはナラさん、ボク、エイジ(川島永嗣、リールセ=ベルギー)の3人が呼ばれることが多かった。9月のオランダ遠征ではエイジがオランダ戦(0-3)に出場し、ボクはガーナ戦(4-3)に出ました。01年6月に日本代表にデビューしましたが、02年、06年、10年W杯とは無縁でした。ヨシカツさん、ナラさんにあってボクに足りなかったものは何か? ミスしても「次もお前に任せる」という信頼を得られなかった理由は何か? 現役を引退した今となっては永遠に分からないことかも知れません……。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月22日付掲載~

2011年6月30日木曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(06) 突然、トルシエ監督の両手ビンタが飛んできた

いきなり力任せに両頬を挟み込むようにバチーン!と強烈なビンタを食らわせた監督がいました。試合中にそんなコトをする監督は……そうです。トルシエです。

00年シドニー五輪本大会での出来事でした。そもそも五輪メンバーに入れるとは思ってもみませんでした。代表合宿には何度も呼ばれたのですが、一度もプレーする機会がなかったからです。なのにボクが代表メンバーに名を連ね、1学年下で五輪候補常連のソガ(曽ケ端準=鹿島)はサブ要員に回り、本大会期間中はスタンドで試合観戦でした。

トルシエはA代表でも「えっ、意外な選手を呼ぶな」と思うことがありましたが、何てことはない、ボク自身も「意外な人選」と周囲は驚いたでしょう(笑)。もっとも正GKは2学年上で奈良県の先輩、ナラさん(楢崎正剛=名古屋)で決まりでした。五輪代表には「23歳以下」の年齢制限があり、3人だけ制限なしのオーバーエージ(OA)枠が設けられていました。OA枠として代表入りしたナラさんがケガでもしない限り、ボクに出番は回ってこないというわけです。

32年ぶりに決勝トーナメントに進出。準々決勝の米国戦の後半30分過ぎのことでした。ナラさんとユージ(DF中沢佑二=横浜M)が激突し、ナラさんは左目の上から出血をしています。ドクターが「×印」を出しています。アップ中のボクはベンチに戻され、ユニホームに着替えました。緊張しないタイプですが、急展開にビビっているように見えたのでしょう。いきなりでした。トルシエが両手を広げたと思ったら、強烈なビンタを食らいました。トルシエ流「目を覚ませ!」だったのでしょう。

確かに目は覚めました(笑)。しかし――。ナラさんは治療を受けて戦列に復帰。試合はPK戦にもつれました。4番手のヒデさん(中田英寿)が失敗。日本はベスト8で涙をのみました。試合後、病院に直行したナラさんは頭蓋骨骨折で全治1ヵ月の診断が下りました。本当は即交代の大ケガだったのです。米国に勝っていれば準決勝の相手はスペインでした。ナラさんの術後の経過が良いことにホッとしつつ、「ナラさんに代わってプレーし、勝ち上がってスペインと戦いたかった」が本音だったことを白状します。

トルシエはシドニー五輪の後、日本代表に呼んでくれるようになりました。当時、3学年上のヨシカツさん(川口能活)とナラさんが代表正GKの座を争っていました。2人の強烈なライバル心を目の当たりにしながら、ボクは「どうして一緒にいて会話を交わさないのですか?」と聞いてみました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月21日付掲載~

2011年6月28日火曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(05) 大ゲンカしたトルシエ監督は変人だった

初めて日本代表に召集してくれたトルシエ監督は……あえて断言します。彼は変人です!

2002年日韓W杯の前年にコンフェデ杯がありました。予選B組の日本は初戦のカナダ戦(3-0)、2戦目カメルーン戦(2-0)と先発したヨシカツ(川口能活)さんが無得点に抑え、3戦目のブラジル戦に引き分け以上で準決勝の相手は予選A組2位のオーストラリアとなり、負けるとA組1位のフランスが待ち構えることになる。大一番となったブラジル戦はヨシカツさんがベンチに下がり、正GKを争っているナラ(楢崎正剛)さんが出場。

3番手GKで代表歴ゼロのボクに出番が回ってくることはない――。ボクを含めてチーム全員が、そう考えていたと思います。しかも、ボクはブラジル戦の前日、練習中にトルシエと大ゲンカをやらかしていました。なのでブラジル戦に出るとか出ないとか、それ以前の問題でチームから追い出されてもおかしくない状況だったのです。

トルシエは「GK専用の練習」を重視しないタイプでした。フィールドの選手と同じようなメニューをやらせる傾向が強かった。たとえばGKコーチが左右中央からいろいろな種類のシュートを放ち、必死になってセービングするとか、そういった時間が短かった。練習量が少なく、いつも消化不良気味。どうせ試合に出るチャンスもないだろうし……。気が緩んでいたのかも知れません。

●「ナニ言うてんねん!」
トルシエが通訳を介して「ツヅキ! 集中しているのか!」と言ってきました。ついカチンとしてしまいました。「ナニ言うてんねん! ロクにGK練習もしてないのに動けるかっ! もっと練習させろ!」 トルシエは日本語が分かりません。勢いに任せて通訳にも「おい! ちゃんと訳せよ! 分かったな!」と毒づく始末。もうシッチャカメッチャカです(笑)。ところが、ボクは追い出されることもなく、その翌日には「ブラジル戦に先発させる」と言い渡されてビックリ仰天でした。

トルシエは選手を好き嫌いとか、肌が合うとか合わないとか、そういったことではなくてチームに必要かどうかで評価する監督でした。懐が深く、個人的には好きなタイプの指導者です。それにしても――。負けられないブラジル戦にボロカスに言ってきた代表歴のないGKを先発させるなんて、やはりトルシエは変人としか言いようがないですね(笑)。

ブラジル戦の結果ですか? きっちり抑えて0-0のドロー。ちゃんと役目を果たしました。準決勝のオーストラリア戦はヒデさん(中田英寿)が決勝点を決め、決勝のフランス戦は0-1で敗れましたが、98年W杯王者を最後まで苦しめました。2試合ともフル出場はヨシカツさん。う~ん、2試合とも出たかった! (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月18日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(04) 全盛期の浦和はACミランにヒケを取らなかった

03年に移籍した浦和では、Jリーグや天皇杯のタイトル獲得はもちろんですが、07年AFCチャンピオンズリーグ(ACL)を勝ち抜いてアジアクラブ王者になったことも、素晴らしい思い出として残っています。

ACLでは「アウェイの怖さ」を肌で感じました。浦和は1次リーグE組でケディリ(インドネシア)、シドニー(オーストラリア)、上海申花(中国)と対戦。E組最弱クラブと目されていたケディリと埼玉スタジアムで戦った試合は3-0でしたが、実力差は「10-0で勝ってもおかしくない」レベルでした。ところが、2ヵ月後に敵地で対戦したケディリは、まるで“別人”のようでした。とにかく強かった。選手一人一人がメッチャ頑張るし、うまくなった感じさえしました。3-3で引き分けましたが、負けてもおかしくありませんでした。言い訳にしか聞こえませんが、両サイドはグチャグチャなのにゴール前だけ固かったり、ピッチコンディションに苦しめられました。

移動も気苦労が絶えませんでした。首都ジャカルタに降り立ち、国内便に乗り換えて2時間の距離に相手本拠地はありました。その乗り換え便の航空会社Gは、その年の3月に国内便が着陸に失敗して機体が炎上。死傷者130人の大惨事を起こしているのです。皆が完全にビビってしまい、誰も離陸後に出された機内サービスのオレンジジュースに手を出そうとしません。ボクが「事故を起こした後だからこそ、G航空は世界で一番、安全に気を配っているはずだ」と言っても、ほとんどの選手は「墜落すれば全員が死亡……」と緊張していました。いろいろありましたが、本当に負けなくて良かった!

●カカ、セードルフで決勝点
決勝トーナメントでは、全北現代、城南一和の韓国勢相手に勝ち上がり、決勝では、イランのセパハンを2試合合計3-1で下し、アジアクラブ王者タイトルを獲得しました。07年12月、日本でFIFA世界クラブ選手権が開催され、準決勝でイタリアの名門ACミランと対戦しました。後半23分にMFカカに左サイドを破られ、ゴール前でフリーのMFセードルフに決勝ゴールを叩き込まれました。相手は世界有数のビッグクラブ。結果は順当です。でも、ボク自身は「先に1点を取ったら勝てる」と感じながらプレーしていました。

後でDVDで試合を見直したら、確かにトラップの正確性やパススピードの速さなど違いはありました。けれど、ゴールマウスを背に90分間、彼我の戦いぶりを集中してみている限り、はっきりとした実力差は感じなかったし、勝つチャンスは十分にありました。ボクは強かった浦和の一員として世界に挑戦できたことを今でも誇りに思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月17日付掲載~

2011年6月24日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(03) 「監督と揉める」「自分が1番手じゃないとふてくされる」そんなレッテルを貼られた

G大阪での2002年シーズン前期終盤。起用法をめぐって西野朗監督と対立し、後期15試合は出場ゼロでした。「チーム内に居場所はなくなった」。そう感じていたところ、うれしい話が飛び込んできました。浦和レッズから正式オファーが届いたのです。

チーム間で移籍話が進み、浦和強化部の部長と大阪で会いました。その時に犬飼基昭社長(日本サッカー協会前会長)、森孝慈GM(元日本代表監督)、オフト監督(元日本代表監督)から高く評価されていると聞かされ、晴れ晴れとした気持ちになりました。ちなみに強化部長から最初に聞かれたのは「西野さんとの間に何があったのか?」でした。ボクは、ありのままを包み隠さずに話しました。

都築=「監督と揉める選手」というイメージが定着し、さらに「都築は1番手じゃないとふてくされてしまう」というレッテルを貼られていることは、自覚していました。「ちゃんとした競争原理の中で正GK争いができるのなら、たとえ2番手でも3番手でも構いません。これがボクの考え方です」。こう強化部長に伝えました。ウルサ型とみられていたボクをGKとして正当に評価した上でオファーを出してくれた浦和には、本当に感謝の言葉以外ありません。

余談ですが――。大阪市内のホテルで強化部長と会った時点で浦和への移籍話は、まだ正式にアナウンスする前の段階でした。話し合いが終わって部屋を出た瞬間、大勢のマスコミ関係者と出くわしてしまい、もうビックリ仰天でした。翌日のスポーツ紙などに「G大阪GK都築の浦和移籍決定!」と報じられたのですが、実はこの日、日本代表FW高原直泰(当時、磐田所属。現清水)のドイツ・ブンデスリーガ1部ハンブルガーSV移籍の記者会見が開かれ、大挙して押し寄せていたマスコミ関係者に「偶然に見つかった」というわけなのです。

浦和の正GKは、中京大を卒業して01年に入団したギシ(山岸範宏)でした。同い年のライバルです。03年開幕戦はギシが出場しましたが、それからはボクが先発することが多くなり、移籍1年目は20試合(山岸は10試合)に出場しました。プレースタイルもキャラクターも異なるギシとは、身近なライバルとして切磋琢磨する間柄でした。05、07、08年にボクは33試合に出場しましたが、浦和が初めてリーグを制した06年はギシが24試合に出場。ボクは11試合にとどまり、随分と悔しい思いをしたものです。周囲から「都築が移籍してきて山岸もうまくなった」と言われることがありましたが、ボクが浦和で通算198試合に出られたのも、ギシという好敵手がいて自分自身もレベルアップすることができたからだと思っています。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月16日付掲載~

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(02) 大逆転負けの後、西野監督にホテルの部屋に呼ばれ、突然、切り出された

●「一緒にサッカーができない」
G大阪2年目にJリーグ出場を果たし、3年目・2試合、4年目19試合、そして5年目の2001年シーズンは29試合に出場しました。6月に開催されたコンフェデレーションズ杯のブラジル戦で日本代表としての初キャリアを刻むこともでき、ボク自身も高いモチベーションを持ちながらプレーしていました。翌02年も開幕から正GKとしてゴールマウスを守りました。

しかし、8月3日のJリーグ前期第12節の磐田戦が、大きな転機となりました。後半37分まで4-2とリードしながら、終わってみれば4-5と大逆転負けを喫し、前期優勝が絶望的となりました。次節の東京V戦の前夜、宿泊先のホテルでのことです。西野朗監督に呼ばれて「おまえのことは信頼している。しかし、明日の試合には使わない。フィジカル、メンタルを含めて状態の良い選手を使いたい。今は松代(直樹=現G大阪ユースGKコーチ)を評価している」と通告されたのです。若気の至りと言ってしまえばそれまでなのですが、ボクは口にしてはいけないことを言ってしまいました。「信頼しているなら使って下さい。外すということは、信頼していないということになります」

結局、磐田戦後の前期残り3試合は先発落ちが続きました。このことはスポーツ紙に大きく報じられました。ボク自身も「西野さんとは一緒にサッカーができない」と報道陣に話してしまい、すると「都築が決別宣言!」と書き立てられ、大きな反響を呼んでしまったのです。振り返ると冷静さを欠いていました。いや、感情的と言っていいかも知れません。

●「都築と話をするな」
後期開幕戦の横浜M戦(8月31日)の前日、西野監督と話し合いを持った時にも「ベンチではチームをサポートできない。メンバーから外して欲しい」と口走ってしまいました。選手起用は監督の専権事項です。「試合に出して欲しい」と訴えるならいざ知らず、「先発できないのならメンバーから外して欲しい」なんて前代未聞。とんでもない話です。プロとして間違った言動を取ったことに西野監督、スタッフ、サポーターに改めて「迷惑を掛けました」と言いたいと思います。

02年後期、チームは過去最高位の2位に入りました。西野監督は、就任1年目に素晴らしい結果を残しました。選手起用は正しかったのです。この一件で学んだことは「外された時にこそ不平不満を封印し、一生懸命に練習して捲土重来を期す」。感情的になってはいけない――は言うまでもないでしょう。プロ野球でもそうですが、サッカー界でも「監督批判はご法度」です。あの頃、G大阪のチームメートがボクと明らかに一線を画していました。チーム内に「都築と話をすると監督に嫌われる」という雰囲気があったようにも思います。ともあれ、当時は「選手生命は終わってしまった」と思ったこともありました。それだけに浦和レッズから届いたオファーには、本当に勇気づけられました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月15日付掲載~

2011年6月21日火曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(01) 割り切れない気持ちで参加したチャリティーマッチ

●「トンネルしたらカッコ悪いなぁ」
GKグローブをはめてゴールマウスの前に立ったのは……6ヵ月ぶりになるかな。現役時代から緊張しないタイプだったけど、さすがにブランクも長いし、緊張というよりも「トンネルしたらカッコ悪いなぁ~」と不安もよぎりました。

4日に鹿島スタジアムで行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチ「FOOTBALL STARS AID」に出場しました。元日本代表監督ジーコ率いる鹿島OBチームと、元Jリーガー選抜チームが対戦しました。ボクは元日本代表の小島伸幸さんと元JリーガーチームのGKを務めました。後半から出場したのですが、自殺点を含めて2失点でした。試合はジーコが見事な先制点を決めたり、とても盛り上がりました。

そうそう、ジーコに先制ゴールを決められた(小島)ノブさんが練習中に「(ボールのスピードに)目を慣らさないと」と言って笑わせてくれ、チームの緊張を和らげました。45歳の大先輩ノブさんが、現役を引退されたのは6年前。確かに「目を慣らす」は切実な問題ですが、試合序盤には素晴らしいセーブを披露され、慣習を大いに沸かせました。現役選手の頃から周囲を和ませてくれる楽しい人でした。

●選挙に落選したのに「議員さん」
正直に言います。今回のチャリティーマッチに誘われた時、一度はお断りさせていただいたのです。ボクは2月に引退した後に「埼玉維新の会」を設立して、4月10日に投開票された埼玉県議選(南11区・定数1)に無所属新人として立候補しました。結果はトップ当選者と3000票余りの差で次点に終わり、涙をのみました。政治の道を志し、落選して時間も経っていないのにサッカーをやることにボク自身、割り切れないものがあったのです。

そんな時に鹿島OBチームでプレーされた元代表DFの秋田豊さんから「なぜ断ったの? 落選したからこそ『レッズGK都築龍太』として出ないといけないよ」という電話をいただきました。前日練習の時に顔なじみの選手たちから「議員さん」と呼ばれるたびに「いや、落選しましたから」と苦笑いをするしかありませんでしたが、試合中にトンネルをすることもなく(笑)、有意義な時間を過ごすことができました。お世話になった人に恩返しをと思ってチャリティーマッチに参加し、本当に良かったと思います。今後もこういう機会がありましたら、微力ではありますが、復興支援のお手伝いをできたらと思っています。

ボクは生まれ故郷の奈良県から長崎・国見高にサッカー留学し、卒業した97年にG大阪入りしました。6シーズン目の02年は忘れることのできない年になりました。ボクは西野朗監督に選手として言ってはならないことを口走ってしまい、翌03年にはチームを去ることになったのです。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月14日付掲載~

2011年6月5日日曜日

2011年5月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

5月2日付
「菅の宣伝と延命に手を貸しているだけ この顔ぶれ、何が目的でこんな無意味な会議に参加しているのか」
5月5日付
「菅首相のままなら間違いなく崩壊するこれだけの理由 希望もなく絶望もなくケセラセラ」
5月7日付
「亡国の菅首相の存在 菅存命に国民は絶望的気分」
5月9日付
「この国はフシギだ 『なぜ』が多過ぎる津波と原発」
5月10日付
「この国の行方に庶民から悲観論 嘘つき菅政権が語らない真相」
5月11日付
「福島原発は本当はどうなっているのか 旧自民以上、菅政権の反国民性」
5月12日付
「『死の町』さながらの夜の東京 震災・原発災害・菅無能政府でこの国は」
5月13日付
「この国を予想 震災大不況は来るのか来ないのか」
5月14日付
「菅と小沢、どちらが悪いか 血迷う菅首相、力なき小沢一郎」
5月16日付
「この国の科学技術は低開発国レベル 根本的対策全くなしの恐怖」
5月17日付
「震災2ヵ月、拡大する災厄 最悪政権を即刻代えろの声」
5月18日付
「亡国の挙、劣悪政府の居直り 2ヵ月も過ぎて予算も財源もなぜ決まらない」
5月19日付
「怪物化した福島原発 政府・東電は絶対真相を語らない」
5月20日付
「虚妄の楽観的言説 お先真っ暗この国の景気経済の行方」
5月21日付
「誰にも分からぬ見通し 国家崩壊の始まりのこれから」
5月23日付
「現政権で対応はとても無理 沈黙の小沢一郎やっぱり無力か」
5月24日付
「亡国内閣の諸相がもたらすもの 今首相交代こそ重大な意義がある」
5月25日付
「海水注入中断の真相 原発災害は菅政権の対応に真因」
5月26日付
「菅は無能の上に極めてズルい ニヤつく卑劣漢に危機のこの国は任せられない」
5月27日付
「この国の科学技術低レベルの実情 すべて嘘と利権で動くこの国」
5月28日付
「震災が暴露、自民党はつくづく悪党だった 国難に『脱小沢』で果たしていいのか」
5月30日付
「フランスに逃亡中の菅首相に国民の視線 帰国後クビになる可能性」
5月31日付
「『菅内閣不信任』は理の当然 永い闇を彷徨するこの国のこれから」

2011年4月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

4月1日付
「問題は『美徳』とされる国民性 『忍耐』や『我慢』が為政者の思うツボ」
4月2日付
「福島原発放射能の真相 東京に住んでも大丈夫なのか」
4月4日付
「被災の現実と空虚な楽観論 この国では指導層を信じたらバカを見る」
4月5日付
「菅無能有害首相は何のために被災地視察に出かけたのか 無用な会議乱立のデタラメ対策ばかり」
4月6日付
「右往左往お手上げの官邸 このまま菅政権なら絶望のこの国」
4月7日付
「大地震で民主政策はすべて破算 再び画策する疫病神仙谷を断罪する」
4月8日付
「被災地惨状報道はもう沢山だ この国の経済・産業・景気のこれからはどうなるのか」
4月9日付
「この世に希望はあるか、それを考えたくなる福島原発災害への菅政権と東電と報道の対応 原発と津波被災のこれから」
4月11日付
「お先真っ暗、八方ふさがりのこの国 日を追って絶望的気分広がる」
4月12日付
「民主党大惨敗の重大選挙結果 これで辞めなければ菅は国賊」
4月13日付
「数多の魑魅魍魎が蠢き始めた 東北の復興のこれからの茨の道」
4月14日付
「まるで難民キャンプ 震災・原発・被災民を放置する菅無能政権を追及」
4月15日付
「福島原発恐怖の結末 シミュレーション炉心溶融から爆発まで」
4月16日付
「菅首相はまさに無能だ どうなるどうするこの国のこれから」
4月18日付
「【昔】軍部批判は『国賊』といわれた 【今】『菅無能首相批判』を有事だからやめろと合唱されている 震災後菅首相の右往左往と日本の復興」
4月19日付
「行方知れずの原発と復興 暗中模索の菅政府ではとても無理」
4月20日付
「誰も信じない東電の原発収束工程表 東電は賠償を払うのか税金が使われるのか」
4月21日付
「どちらが正しいのか 大震災を利用して政権延命の悪辣」
4月22日付
「首相のアタマは変だ マトモな思考力・判断力なき指導層の歴史」
4月23日付
「この危機に私利私欲の菅政権 このままやらせたらどうなるこの国」
4月25日付
「菅退陣で識者13人の見方 ドン底へ向かうこの国の解決策 政権交代は間違っていたのか」
4月26日付
「誰も語らない恐怖 『立ち直る日本』の本当の真相」
4月27日付
「なぜ福島原発を封印しないのか 真相が分からぬ福島原発の現在」
4月28日付
「国民負担はいくらになる 庶民の収入と生活は極貧へ向かいそう」
4月29日付
「この危機に菅直人が首相である偶然の凶事 塵埃の中で懊悩する庶民の生活」
4月30日付
「放射能地帯の真相 『この国は立ち直る』のウソとマコト」

2011年5月28日土曜日

2011年5月2日月曜日

【サッカー特別インタビュー】災害もサッカーも史実に関心を持って対処 サッカージャーナリスト・賀川浩

恐らく世界最年長の現役サッカージャーナリストは、積み重ねてきた見識の高さでつとに知られ、さらには阪神大水害(38年)、阪神・淡路大震災(95年)など「自然災害の猛威」を目の当たりにした人物でもある。大正13年に生をうけ、今なお精力的に健筆を振るう香川浩氏(86)の波乱万丈の半生をたどりながら、東日本大震災や日本サッカーの今昔、そして未来について聞いた。
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●7階建ての自宅マンションが6階建てに
――東日本大震災(3月11日)が起き、29日に復興支援チャリティーマッチが大阪・長居で行われました。こうしたサッカー界の取り組みについてどう思われますか?

「サッカーを含めたスポーツ選手は《恵まれた健康体》だからこそ出来るもの。体や心にハンディキャップを抱えている人、経済的に苦しんでいる人、今回のように大震災で被災した人に心をひとつにしてシンパシーを寄せ、次に《自分に何が出来るのか》を考え、恒常的に手を差し伸べていく。こういう気持ちは当然のことだと思います」
――70歳で阪神・淡路大震災を経験されました。
「本や資料で埋まった隣の部屋のソファベッドで寝てたんですが、朝の5時くらいに目が覚めました。起きて仕事をするかな、と思っていたところにグラグラと揺れてドス~ン!ときた。ガスの臭いがするし、屋外に逃げたら駐車場部分の1階がつぶれていて、7階建てのマンションが“6階建て”になってしまいました」
――16年後に東日本が甚大な被害を受けました。
「この16年で“日本人の意識の変化”を感じさせられました。阪神・淡路大震災の時は、合言葉が《がんばろう神戸!》。今回は《がんばろうニッポン!》でした。太平洋戦争で焼け野原になり、ニッポンと口にするのもはばかられ、長い間、日本国という概念が希薄になっていた。サッカーがメジャースポーツになると日本代表を《自分たちのチーム》として親しみの気持ちで応援するようになった。期せずしてニッポン!と連呼したり、日の丸も掲げられるようになり、皆が日本チームの一員という意識が芽生えました。今回の《がんばろうニッポン!》が素直に受け入れられたのも、サッカーの力が大きかったと思っています」

●日本サッカーのスタイルはある
――神戸一中2年生(38年)の時です。600人以上の死者が出た阪神大水害に直面しました。

「梅雨の長雨の後、7月3日から5日にかけて大雨が降り続け、小さな谷から流れる溝や川が瞬く間に大きな川となり、土砂などを運んで土石流となって流れていった。当時は《山津波》と言っていました。海の津波とは規模が違いますが、山津波の凶暴さも凄まじかった。今でも鮮明に覚えています。神戸一中のコンクリート造りの校舎の2階の窓から、グラウンド東側の細い川が10メートルに盛り上がったのが見え、すると木造2階建ての運動部の部室20棟を引きずり込み、木っ端みじんに粉砕しました。2日後、三宮駅周辺に行くと土石流に流された電車が民家に突っ込んだり、流された馬が死んでいたり、元の姿に戻るのにどれだけかかるのか、と思いました」
――神戸一中の最終学年(5年生)にレギュラーとして試合出場。明治神宮大会で優勝しました。
「背は低い(身長153センチ)けど、相手ゴール前でチャカチャカと動き回りながら、パスをダイレクトやワントラップしてシュートし得点を重ねました。2歳年長で中肉中背だった兄貴(元日本代表MF太郎氏=故人)が『サッカーはチビの方がええのかな?』と聞いてきた。南アW杯予選で優勝したスペインのイエニスタ(170センチ)がチョコマカ動くと、ドイツの大男は足をバタバタさせて抜かれていた。サッカーは体力勝負だけのスポーツではありません。子供の頃から、サッカーが上手な日本人をたくさん見てきた。日本人がサッカーに向いていないとか、思ったことは一度もないです」
――今回の大震災を踏まえた上で今後の日本サッカーは、どうあるべきなのでしょうか?
「東日本大震災は想定外のことが起きたといわれているが、西暦869年の平安時代の記録(日本三代実録)に大地震と大津波があったとされる。経験の範疇ではなく、史実に関心を持って対処していたら……と思います。サッカー界も同様。歴史を振り返ることで将来の指針だったり、強化のヒントも生まれてくる。東京五輪前にクラマーさんが来たけど、本人に『短いパスを回しながら時に長いボールを入れ、相手DFの裏を突く戦法を生み出したのは?』と聞いたところ、日本サッカーの歴史を調べた上で(ベルリン五輪FW)川本泰三や(元五輪監督)竹腰重丸と相談しながら日本人選手の特徴を考えて決めたと話してくれた。バルサにはバルサのサッカーがあるのに『日本のサッカーがない』とよく言われるが、そんなことはない。昔から日本サッカーのスタイルはあった。もちろん、スタイルがあるだけでは勝てませんからね。技術を高め、フィジカルを鍛えないといけない。ボールをたくさん蹴り、もっと練習をやれば、これからも日本サッカーは強くなりますよ」

●若き日の岡田監督
69年のとある日。サンケイスポーツ運動部長に就いた頃の話。卒業したらドイツにサッカー留学に行きたいと言い張る中学2年生がいて、困り果てた父親が知人を介して相談係を依頼してきた。待ち合わせ場所の喫茶店に行くとひょろっとした中学生が、丸メガネをかけて座っていた。「岡田武史」と名乗った。

「君の体つき、まだ骨組みも出来ていない。ドイツ人は大きいしケガさせられるだけだ。高校を卒業してからにしたらどうだ?」 そう言ってサッカーの強い私立を薦めると校風が合わない、名の知れた公立でやったらどうかと聞くと受かる自信がありません、と言う。受験前から自信がないでは困ると言ったら、膨れっ面して帰っていった。父親と電話で話をしたら「諦めたようです」と聞かされた。

それから何年か経ち、忙しさにかまけて岡田少年のことを忘れてしまった。何の試合だったか、日本代表の試合前に整列している選手の前を通ったら、「賀川さん、ドイツの件ではお世話になりました」といきなり声を掛けられた。誰なのか分からず、う~んと生返事をした。関係者に聞いたら早大出身の岡田武史と教えられた。後に食事をした際、もしドイツに行っていたら……という話題になった。岡田は「ケガをして(選手生命が)終わっていたかも知れません」と笑っていた。

かがわ・ひろし 1924年12月29日、神戸市生まれ。神戸一中(現神戸高)から神戸商大(現神戸大)。52年から産経新聞のスポーツ記者、サンケイスポーツ編集局長などを経て現在はフリーランス。W杯は74年西ドイツ大会から連続9大会取材。欧州選手権5回、南米選手権1回取材。2010年に「日本サッカー殿堂」入り。芦屋市在住。「賀川サッカーライブラリー」(http://library.footballjapan.jp/)を主宰。


~日刊ゲンダイ 2011年5月5日付掲載~

2011年4月27日水曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(09) 森本貴幸

04年、東京Vのジュニアユースに所属していた中学3年生の森本はトップチームのアルディレス監督の目に留まり、卒業式を待たずに3月13日の磐田戦に途中出場した。史上初の中学生Jリーガーの誕生である。5月5日にはJ初ゴール(15歳11ヵ月28日=最年少記録)。シーズン通算4得点を挙げてJ新人賞に選ばれた。

06年7月、17歳でイタリア・セリエAに昇格したカターニアにレンタル移籍。「当初は武者修行を兼ねた1年のレンタル移籍の予定だったが、本人自身もビックリするほどイタリア生活に馴染んだ。07年6月、森本本人のたっての希望でカターニアへの完全移籍が決まった」(サッカー記者)。ストライカーとしてゴール前で虎視眈々とゴールを狙う。日本もイタリアも同じだが、日本では先輩後輩の関係などピッチ外で息の詰まることも多い。天然系自然児タイプの森本には、肩の凝らないフランクな付き合いの出来るイタリアの水が合ったのである。

小学4年生で東京Vのジュニア入り。ジュニアユースからユースを飛び越してトップに昇格。イタリアに移籍するまで東京Vひと筋だった。当時の森本を知るマスコミ関係者は「どんなイタズラをやっても、どこか憎めないヤツだった。勉強は大の苦手。ボキャブラリー不足も目立ち、言葉遣いもいい加減だった」と振り返る。そんな森本が海を渡り、半年もしないうちにイタリア語の会話をマスター。前出の記者もビックリ仰天である。「日常会話に困ることはないし、イタリア人記者のインタビューも過不足なくこなす。仲間内では『日本語でのやりとりの方が“子供っぽい”感じです。森本にとってイタリア語は、すでに母国語も同然』と話しているところ」(前出の記者)

所属クラブのカターニアは「足先のボール」に当たるシチリア島の東部が本拠。イタリア本土中央やや北、チェゼーナ出身の日本代表ザッケローニ監督が視察に訪れて声を掛けた。しかし、森本との会話には難渋してしまった。「彼のシチリアなまりがひどくて何を言っているのか、あまり分からなかった」(ザッケローニ)からである。「ザッケローニはインテル所属の長友を視察した際に『彼は正しいイタリア語を話す』と驚いていた。長友は日本にいる時から将来を見据え、イタリア語の文法なども勉強していた。森本の場合は『赤ちゃんが耳から入ってくる単語をひとつずつ覚え、それを適当につなげながら会話する』やり方だった。森本にとってはシチリアなまり=イタリア語。もしかしたらなまっていることに気付いていないかも知れないが……」(マスコミ関係者)

右腕に「獅子王」のタトゥーを入れている。「森本は某有力宗教団体を信心している家庭に生まれ育ち、団体の現名誉会長から『獅子王のようにプレーして勝て!』とゲキを飛ばされ、それでタトゥーを入れたといわれている」(消息筋)。08-09年シーズン23試合7得点、09-10年シーズン5得点と結果を残してきたが、今シーズンは11試合1得点とベンチを温めることも多く、森本は「(来季は)絶対に残ることはない」と宣言している。セリエAの中堅パルマ、キエーボ以外にスペインからもオファーが届いているという。 (おわり)

【もりもと・たかゆき】 1988年5月7日、川崎市出身。東京Vから06年7月にカターニアに移籍。5ヵ月はユースチームでプレー。ゴールを量産して同年12月にトップに引き上げられ、翌年1月のアタランタ戦の後半39分にセリエAデビュー。4分後に初ゴールを決めた。3月に左ヒザ前十字じん帯断裂。全治半年の大ケガを負った。08年北京五輪代表。09年10月に日本代表デビュー。10年南アW杯メンバー入りしたが、本大会出場なし。身長180センチ、体重75キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月25日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(08) 松井大輔

14歳の春。京都・山科区の大宅中サッカー部でプレーしていた松井大輔は、いきなり「転校したい」と言い出し、周囲をビックリ仰天させた。「松井は小学校時代から天才として知れ渡り、通っていた地元小学校のサッカー部も全国大会で優勝を争うような強豪だった。同級生たちと地元の中学に進むとサッカー部の顧問がサッカーの素人でヤル気もゼロ。松井は中学1年から関西地区中学選抜に選ばれ、選抜チームの牧戸監督に心酔していた。中学2年の夏に牧戸監督の赴任校、伏見区の藤森中に強引に転校した」(サッカー記者)

クラブチーム間の移籍ではない。サッカー留学のために公立中学校を渡り歩く。前代未聞の掟破りとあって、松井は地元でボロクソに言われた。「松井の実家には無言電話がバンバンかかり、牧戸監督は『引き抜きとはえげつない。何でもアリなのか』と陰口を叩かれた」(前出の記者)

04年8月のアテネ五輪代表で背番号10を背負ってプレー。翌9月に仏リーグ2部ルマンに移籍した。チームは松井効果で順位を上げ、1部昇格の立役者となった。地元では、今でも「ルマンの太陽」と呼ばれている。もっとも、仏2部リーグは「ピッチは泥田状態でフィジカル自慢の黒人選手が、悪質極まりないカニ挟みタックルを仕掛けてくる。もうラグビー並みの激しさ。1部に這い上がるためには手段を選ばない連中がゴロゴロいる」(松井)中、持ち味である変幻自在のドリブル突破、ヒールパスなどトリッキーなプレーで相手を翻弄。目の肥えた仏サッカーファンのハートをガッチリ捉えた。

仏リーグで屈強な黒人とマッチアップしているうちに松井は体の使い方やマークのかわし方など黒人選手対処法を体得した。これが南アW杯で大きな財産となった。W杯初戦の相手は、大物FWエトーを擁するカメルーン。フィジカル勝負に持ち込まれると勝ち目はないが、ひとりだけ苦にしない選手がいた。MF本田圭の値千金決勝ゴールをアシストした松井は、果敢に1対1の勝負を挑み、守っては身をていしてカメルーン選手をつぶした。初戦をモノにした日本代表は上昇気流に乗り、望外のベスト16に輝いた。“黒人慣れした”松井の功績だ。

仏で一緒に暮らしていた美人妻と南アW杯前に離婚。理由は諸説ある。「仏移籍後、松井は早い段階で仏語をマスターしたが、地元では『仏人女性とのピロートークを通じてメキメキと上達していった』という噂も流れた。真偽のほどは定かではないが、実際に松井は地元の女性にモテモテだったし、そういう噂が立っても致し方ない面もあった」(マスコミ関係者)

南アW杯後、所属するグルノーブルが仏リーグの2部に降格したこともあり、昨年9~12月にはロシア1部トムスクにレンタル移籍。今年1月、Jリーグ復帰が有力視されたが、最終的に「引退するまで欧州でプレーしたい」と言ってグルノーブルに出戻った。まさか欧州女性にハマったワケでもないだろうが……。

【まつい・だいすけ】 1981年5月11日、京都府出身。京都3年目の03年、現マンチェスター・ユナイテッドMF朴智星とともに攻撃サッカーを展開し、クラブ初タイトルとなった天皇杯優勝に貢献する。J1通算72試合7得点、J2通算54試合9得点。日本代表31試合1得点。身長175センチ、体重68キロ。血液型O型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月23日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(07) 長谷部誠

浦和入りして4年目、05年のことだった。「カズが『日本人選手でカカに似ている選手を見つけた。それは浦和の長谷部だ』と話していることをことを聞き及び、本人にお礼を言ったところ、メシでも食べようということになった。それから個人的な付き合いがスタートした」(サッカー記者)

08年1月、ドイツ1部ボルフスブルクに移籍したが、長谷部は05年の頃から「欧州でプレーしたい」と考えていた。それをカズに訴えると「チャンスがあったら迷わずに移籍すべき。それも出来るだけ若いうちに」とアドバイスされた。ドイツに渡った長谷部は本職のボランチ(守備的MF)以外に右MFや右SBなどマルチにこなしながら活躍。09-10シーズンにはリーグ優勝を果たした。日本人のドイツリーグ制覇は、奥寺康彦(古河=現千葉から移籍したケルンで77-78年シーズンに優勝)以来31年ぶりの快挙である。

南アW杯でブラジル代表の背番号10を背負ったMFカカ。スペインの名門レアル・マドリードに所属するスーパースターと「長谷部はプレースタイルが似ている」と言われ、一部のサッカー関係者から「和製カカ」と呼ばれている。「本人もそう呼ばれるのがうれしくて自慢話をするようなキャラではないのに、一時期問わず語りに『似ているなんてとんでもない。大物過ぎて比較対象にもなりません』という言い分で和製カカをアピールする時期があった」(前出記者)

カカの持ち味は足元の確かな技術、卓越した戦術眼、高い決定力。さらに「トップスピードでドリブル突破が出来る」。「実は、長谷部が一番カカに似ている部分が、このドリブルの速さなんです。中盤の底で攻守のつなぎ役をテキパキとこなすイメージが強いが、浦和時代から足の速さには定評があり、ここぞという場面でドリブル突破を図ってシュート!というのが、長谷部の一番の魅力です」(前出記者)

静岡の有名進学校・藤枝東高の出身。静岡の公立高には「裁量枠入試」というスポーツ推薦枠があるが、長谷部は一般受験で入学。高校時代の成績も良く、浦和入りしていなかったら「成績優秀者対象の指定校推薦枠で青山学院大に進むことになっていた」(マスコミ関係者)。品行方正、柔和な性格、面倒見の良さなどで「生来のキャプテン気質の持ち主」(前出記者)ともっぱらだ。「南アW杯の前、いきなり岡田監督(当時)に呼ばれ、長くゲームキャプテンを務めていた中沢に代わってキャプテンマークを巻くように言われてビックリ仰天。“荷が重すぎてムリです。返上します”と岡田監督に泣きを入れた。結局は“おまえしかない”と言われて観念。それでもキャプテンをしっかり務め上げ、精神的支柱として代表チームメートからの信頼も厚い」(雑誌編集者)。長谷部は岡田監督に足を向けて寝られない。

南アW杯ベスト16の日本代表をまとめ上げたキャプテンとしてメディアから大モテ。知名度は飛躍的にアップした。先月末に著書「心を整える。」を出した。「勝利をたぐり寄せるための56の習慣」とサブタイトルが付けられた自己啓発書だが、発売1週間で7万部の大ヒットは、何よりも「日本代表のキャプテン」というブランドの高さのたまものである。「中村俊、岡崎、長友らと同じ事務所に所属しているが、7月に個人事務所を立ち上げて独立する予定。大震災のチャリティー関連イベントなど積極的に手掛けるようです」(前出編集者)

【はせべ・まこと】 1984年1月18日、静岡県島田市出身。藤枝東高時代に総体準優勝。02年に浦和入り。プロ1年目は出場機会ゼロも2年目からレギュラー確保。06年2月、日本代表に初選出されたが、同年ドイツW杯メンバーには選ばれなかった。オシム代表監督時代は代表から外れることも多かったが、岡田監督体制後は不動のレギュラーとなり、南アW杯ベスト16の原動力となった。身長180センチ、体重72キロ。血液型はO型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月22日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(06) 川島永嗣

http://gendai.net/articles/view/sports/130072


~日刊ゲンダイ 2011年4月21日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(05) 宮市亮

最大の武器は「100メートル10秒84」の俊足を生かした高速ドリブル。ただ単に足が速いだけではない。身長182センチの恵まれたフィジカルを利し、ドリブルの際に「歩幅の長短」をうまく組み合わせ、相手DFを腰砕けにしてしまうのだ。

宮市はまず細かいステップでDFのボディーバランスを崩し、ここぞという瞬間に大きな歩幅をとり、一気にトップスピードに乗る。DFは体勢を崩し、宮市の後ろ姿を拝み続けることになる。「抜き去る瞬間を撮るとDFがよろけている写真が多い。宮市は“このタイミングで仕掛けたらDFが体勢を崩す”ポイントを先天的に会得している。同じように相手DFがよろける写真の多い選手は、比較するにも大物選手過ぎるが、あのレアル・マドリードに所属するクリスティアーノ・ロナウドです。彼と対峙したDFは、よろけてピッチに両手をついたり、挙句にシリモチをつく選手までいる。宮市がフィジカルを鍛え、駆け引きを覚えたらクリ・ロナのレベルに近づく可能性はある」(某カメラマン)

愛知・中京大中京高の3年に在籍していた10年8月、イングランドの名門アーセナルの入団テストに臨み、そこで名将ベンゲル監督のお眼鏡にかない、卒業前の今年1月に「5年契約」を結んだ。しかし、日本代表歴のない宮市の場合、英国の労働許可証の発給条件にある「過去2年、自国代表の試合の75%以上に出場していること」に引っ掛かり、英国ではプレーできない。もちろんベンゲルは百も承知。入団と同時にオランダのフェイエノールトにレンタル移籍させた。オランダで試合をこなしてより一層レベルアップしろ――というワケだが、さすがのベンゲルも宮市がオランダで早々に大ブレークするとは想定外だった。

オランダデビューとなったアウェイのフィテッセ戦(2月7日)で相手DF網をズタズタに切り裂き、目の肥えたサポーターの胸を瞬時にわしづかみ。1週間後の地元でのヘラクレス戦には、宮市見たさにスタジアムは今季初の超満員4万2000人に膨れ上がった。ここで宮市は素晴らしい先制ゴールを決めてみせ、「点の取れるサイドアタッカー」として欧州中に名前をとどろかせた。「中京大中京高サッカー部の監督というのが、ベンゲルがJ1名古屋で采配を振っていた時代からの知り合い。そのツテで宮市を売り込んだ。ベンゲルは“スピードとフィニッシュの精度の高さが素晴らしい。近い将来に英国で結果を残せる選手になる”とひと目惚れした」(マスコミ関係者)。17日のウィレムⅡ戦でも2得点と勝利に貢献した。

サッカーの能力もさることながら、宮市は大きな武器を持っている。それは異国暮らしへの適応能力の高さである。「中学2年を終えた春休み期間中、宮市は現在の所属先であるフェイエノールトのジュニアユース(15歳以下)で2週間の短期留学を行った。ホテルも食事もちゃんと用意され、サッカーに専念出来る環境だったが、それでも慣れない異国暮らしにストレスをため、体調を崩す選手も少なくなかった。でも、宮市だけは“オランダに生まれ育った日本人”みたいな雰囲気でリラックスしながらサッカーボールを追い掛けた。当時のフェイエノールトの関係者は『海外でプレーするために生まれた選手』とベタ褒めしていた」(前出の関係者)。ピッチ内外で大物感を漂わせているのである。

【みやいち・りょう】 1992年12月14日、愛知県岡崎市出身。中学2年から各年代別日本代表に選ばれ、17歳以下日本代表の一員としてFIFA主催の17歳以下世界大会に出場した。「18歳1ヵ月23日」のオランダリーグデビュー戦、翌週の初ゴールともに「欧州主要リーグにおける日本人最年少記録」。地元での呼び名は「リオ」。先日、イタリアの地元メディアが、セリエAで優勝争いを演じているナポリが宮市を狙っている――と報じた。


~日刊ゲンダイ 2011年4月19日付掲載~

2011年4月21日木曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(04) 本田圭佑

サッカー専門誌の人気4コマ漫画に登場する本田圭は、いつもふんぞり返って鼻息を荒くしながら、相手が誰であってもエラソーな態度で“タメ口”を利いている。「確かにG大阪のジュニアユース時代から高校年代のユース、トップの年長選手に命令口調で話し掛けたり、いつも“オレ様が一番”的オーラを出していた。しかし、ジュニアユース時代の同期生で現在スペイン1部マジョルカに所属するMF家長が“カリスマ性を出しているけど、本当は(オレ様)キャラなんかじゃない。(日本代表の常連になって)オレが壊してやる”と豪語している」(サッカー記者)。名古屋入り当時は「元フランス代表MFジダンに憧れる」と話し、趣味を聞かれると「読書とカラオケ」と応える純朴な好青年だった。今の本田圭像は「かなりムリしてつくった」モノなのだ。

石川・星稜高から05年に名古屋入り。08年6月に日本代表に初召集。エースとして臨んだ南アフリカW杯では、ベスト16入りの立役者となった。順風満帆のサッカー人生に見えるが、実はG大阪ジュニアユース時代に大きな挫折を経験している。「ジュニアユースからプロ予備軍のユースに昇格できず、石川まで“都落ち”することになったのです。青天の霹靂で、サッカーをやめると口走るほどのショックを受けていた。同じ誕生日で同じ左利きの家長をライバル視しており、その家長が高校2年途中でトップに昇格した時には、じだんだを踏んで悔しがったといいます」(前出の記者)。もっとも、昇格失敗のトラウマを引きずりつつも、そのショックをバネに努力を重ね、日本代表の大黒柱の座を手中にした。08年2月の右ヒザの大ケガもあり、日本代表に定着できない家長とは立場が逆転した。

本田圭といえば「両腕に腕時計を巻く」ことで有名。理由を聞かれるたびに「ボディーバランスを保つため」と答えて周囲をケムに巻いている。「この“ボディーバランスを保つ”発言は、本田圭に言わせると“そんなバカな!”と突っ込んでもらうためのジョークらしい。でも、インタビュアーが真に受けてしまうことが多く、コメントが独り歩きしてしまった」(マスコミ関係者)

最近は「クラシックを追い求めている」とコメントすることが増え、周囲からは「意味不明」といぶかられている。「何てことはない、小さい頃から元アルゼンチン代表の天才マラドーナに憧れ、そのマラドーナが両腕に腕時計を巻いていたので真似しただけのこと。一時期、イタリアの高級時計メーカーガガミラノ製を好んで着けていた」(前出の関係者)。ちなみにマラドーナは両腕に腕時計の理由を聞かれると「遅刻しないため」と、平然と答えるのが常。マラドーナの真意は今なお謎のまま――。

プロ入りの頃は黒髪だったが、オランダ移籍前から「短めの金髪」に。南アW杯の活躍もあって、「10年メンズ髪型オーダー人気ランキング」で俳優の成宮寛貴と並んでランキング1位になった。

【ほんだ・けいすけ】 1986年6月13日、大阪府摂津市出身。摂津FCからG大阪ジュニアユース-石川・星稜高を経て05年に名古屋入り。08年にオランダ1部VVVに移籍。09-10年シーズン途中にロシアの強豪CSKAモスクワに移籍金12億円で引き抜かれた。年俸は名古屋時代の2000万円がオランダで7000万円となりロシアでは1億4000万円に倍増した。CM契約などで年収3億円といわれている。身長182センチ、体重75キロ。血液型AB型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月18日付掲載~

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(03) 岡崎慎司

兵庫・滝川二高3年時に清水と神戸から誘われた。迷っているとサッカー部の監督から「おまえはプロで数試合ほど出られたらオンの字。大学に行け」と言われて逆に奮い立った。

「地元(滝川二高の所在地は神戸)だと甘える。清水で頑張ってみせる」(本人)。もっとも、入団してみたら「通用すると思ったスピードとスタミナもプロはケタ外れだった」(本人)。当時の長谷川健太監督に「FW8番目の選手」と酷評されて意気消沈。するとクラブ幹部からは「いや、おまえは登録30選手中の30番目」とダメを押された。それが、今ではブンデスリーガ名門のレギュラーを張っている。変われば変わるモンである。

プロ2年でリーグ8試合出場0得点とパッとしなかったが、ニアサイドに頭から突っ込んでいくアグレッシブなプレースタイル、ゴールの枠をきっちり捉えるシュート感覚を武器に3年目から頭角を現していった。「岡崎の座右の銘は『一生ダイビングヘッド』です。中学時代に所属したクラブチームのコーチから『ヒザから上のボールは全部ヘディング』と命じられた。かなり無謀な指示だが、今でもバカのひとつ覚えのようにやろうとする。これこそが岡崎の魅力です。もともと勉強なんて大キライでサッカーも“頭で考えながら”プレーするのが苦手なタイプ。なので何が何でもヘディング!が性に合った。相手のスパイクの裏が見えても頭から飛び込み、体のどこかに当たって入ってもゴールはゴール――というのが生来の“何も考えない系”の岡崎にぴったりとフィット。一気に日本代表主力選手にのし上がっていった」(サッカー記者)

1月31日。ブンデスリーガ1部の名門シュツットガルト移籍が発表された。年俸1億4000万円の3年半契約。清水時代の3500万円から4倍にアップした。もっとも、契約日をめぐって清水が移籍に難癖をつけて大モメ。「ウチとの契約期間は1月31日まで」をタテに「契約期間中の移籍なので認められない。(発表しない)違約金も請求する」と言い出し、ドイツデビュー予定だった2月12日のニュルンベルク戦は出場できなかった。結局、FIFA裁定で暫定登録が認められ、同月20日のレバークーゼン戦でドイツデビューを果たした。「欧州では、1月1日から31日までが『冬の移籍期間』となっており、前所属との契約期間とは関係なく、便宜上、1月31日が契約日となる。清水は欧州サッカーの常識を知らず、杓子定規に『二重契約!』と騒ぎ立てて欧州中からバカにされた」(マスコミ関係者)

いきなり移籍トラブルに巻き込まれ、所属事務所など周囲はヤキモキするばかり。ところが当の岡崎は「なるようにしかならない。何とかなる」と平然としていた。「シュツットガルト市郊外でホテル暮らしをスタート。英語もドイツ語も話せず、右も左も分からないのに散歩に出掛けたり、チームメートに誘われると待ち合わせ場所のレストランを探して食事をしたり、ノビノビと暮らしているみたいです」(前出の関係者)。ピッチ内外で野生児ぶりを発揮。異国暮らしを堪能しているのだ――。

【おかざき・しんじ】 1986年4月16日、兵庫県宝塚市出身。中学までクラブチームの宝塚ジュニアFC。滝川二高から05年に清水入り。08年10月のUAE戦で日本代表デビュー。09年1月のイエメン戦で初ゴール。同年6月の南アW杯予選ウズベキスタン戦で日本の4大会連続W杯出場を決めるゴールを決めた。11年1月のアジアカップ・サウジ戦で3得点。自身3度目のハットトリックを達成した。日本代表の最多ハットトリックは釜本の8回。岡崎の3回は三浦カズと並んで歴代2位タイ。身長174センチ、体重77キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月13日付掲載~

2011年4月18日月曜日

【底流を読む】東日本大震災 過度の自粛は自粛を

大震災に見舞われた11日午後4時すぎ、東京都千代田区の帝国ホテルで知人に会う予定があり、歩いて赴いた。地震発生後のロビーは人でごったがえしていた。その後JRが不通と決まり、そのまま同ホテルに「籠城」することになった。

宿泊客ではない。追い出されても文句は言えないが、ホテル側は親切だった。夜に入り、地下のレストラン街から2階宴会場の廊下まで、2000人に膨れあがった帰宅難民に対し、イスや毛布にカンパン、水を用意。要所に配置したテレビや館内放送で地震・交通情報を絶やさず、携帯電話の充電サービスまでする心配りに感謝の声が上がった。同様のサービスは他のホテルや百貨店でも聞かれた。今回の震災では被災者の整然とした行動が海外メディアからも評価されたが、同時にそれを支える流通業やサービス業の地道な活動も評価されよう。

被災地ではヨークベニマルなど、店内に残っていた食品や飲料水を周辺住民に無償提供するスーパーや食品店も目立った。灯油を無償提供するガソリンスタンドもあった。「ここが自分たちの生活基盤。地元客が困った時に支援するのは当たり前」と店主らは語る。日本の流通・サービス業の底力がここにある。人と人とのつながりを大切にする姿勢だ。日本の繁栄と安定を支えてきた最大の原動力は大中小の企業の真摯で地道な営みにあるという事実を、震災が浮き彫りにした形だ。

その視点から一つ提案したい。過度の自粛をやめるということだ。今「不要不急の消費」を控える動きが全国に広がっている。百貨店や居酒屋、都市ホテル、ゴルフ場、観光地では顧客が激減している。「被災地の人々の苦労を思うと消費を楽しむ気になれない」「不謹慎と言われかねない」というムードが背景だが、流通・サービス業側の自粛姿勢がこれに拍車をかけている。店頭の看板の照明を消したり広告宣伝を抑制したり。暗い街路は消費するのがいけないかのような雰囲気を醸し出している。

エアコンの温度を調節したり派手なネオンを抑えるなど一定の自粛は必要だろう。だが過ぎたるは及ばざるがごとし。計画停電も加わって世の中が暗いムードに沈めば、消費は大幅に冷え込んでしまう。それは経済復興を遅らし、被災地の再建にもマイナスだろう。人々が消費を楽しんでカネが回るから経済が動き、景気がよくなる。商いの基本は人とのつながりを大切にする地域貢献とともに、人々を明るくさせる工夫(マーケティング)にある。その底力を今こそ発揮してもらいたい。 (編集委員・井本省吾)


~日経流通新聞 2011年3月28日付掲載~

【論点】劇場型首長に対する議会の責任 客員論説委員・有馬晋作

全国の注目をあびた阿久根市長選で、議会と対立しリコールされた竹原信一氏の三選はなかった。しかし来月は、減税をめぐり議会と対立し、議会へのリコール運動を主導し自らは市長辞職した河村たかし氏が、名古屋市長選に臨む。また橋下徹大阪府知事は、大阪市を解体し府を都とする「大阪都」構想実現のため、春の統一地方選の議会選挙で構想支持の候補者を多く擁立しようとしている。

今や変革を訴え議会と激しく対立する「劇場型首長」が話題であるが、最近の社会の閉塞感や地方の疲弊から、どこでも登場しかねない状況である。行政学・地方自治論を専門とする立場から、「劇場型首長に対する議会とは、どうあるべきか」を論じてみたい。

劇場型首長には、リーダーシップを評価する声もあるが独断的な面も多々あり、批判の論調は、本来、民主的な制度は権力分立なので独裁型はいけないというものである。一方、劇場型首長は、自分の方が民意を代表しており、議会が議案否決などで足を引っ張り変革できないと主張する。その理由は、日本の地方自治が首長も議会も住民が直接選挙する「二元代表制」のため、首長と議会の二つの民意があり、議会には立法のほか首長を監視(チェック)する役目もあるからである。

だが、日本の二元代表制の実態は、首長優位型である。アメリカの大統領制に似てはいるが、アメリカは法律も予算も議会に最終決定権があり、大統領には一定の拒否権はあるものの議案提出権はない。一方、日本は、条例案・予算案などの議案提出権や議会を開けないときの専決、さらに議会招集権も首長が持つ首長優位型である。

これに対し、欧米の地方自治は多様な制度を採用しているが、議会優位型が比較的多い。アメリカやイギリス、フランスの自治体は、議会から議員を出して執行部である理事会や参事会を設置したり、シティー・マネジャーを雇う方式など一元型の議会優位も目立つ。この議会優位には、「住民代表の議員の議論によって政策を決める」という基本的考えがある。

そもそも住民にはさまざまな意見があるのに、それを、たった1人の首長が一つの意見(民意)として集約できるのだろうか。まして、劇場型首長の得意な単純な構図に集約できるとは思えない。また、マニフェストも政策パッケージなので、全項目に住民が賛成したとは限らない。むしろ、多くの住民代表で構成された議会の方が多様な意見を反映するのにふさわしい。

以上のことから、わが国の二元代表制での自治体議会とは、首長の主張する民意を、議論によって住民の多様な意見を反映させ、チェックしたり承認する機関だと分かる。だが現在、日本の議会は議論をしていない。本会議の議案採決で最後に数人が賛成・反対を表明する「討論」はあるが、通常の審議は、執行部に質問や要望するのみである。阿久根市議会を傍聴した市民が、市長と議員は平行線との感想が多かったのは、首長と議員は自分の意見を言うだけで、議論が成立しないからだ。

では議論するには、どのような仕組みが必要だろうか。それは、本会議で再質問できる「一問一答方式」を採用し、首長・執行部には議員の質問に対する「反問権」を与えること、また委員会では、議員同士の「自由討議」つまり議論を認めることである。

例として、委員会での保育所民営化に関する議案審議をあげると、執行部による議案説明後の質疑のあと、一般住民、関係者の意見を聞き論点を整理し、先進地の施策も調査した上で、議員間の十分な自由討議を経て採決すべきである。さらに、議論に住民の声を反映するため、議会として「議会報告会」を積極的に開催することが、特に重要である。住民に分かりやすく審議結果を説明し意見交換するのは、住民と議会との信頼関係の構築にもなる。

このように、日ごろから「議論をする」「幅広く住民に説明し意見を聞く」努力を怠らない議会こそ、劇場型首長が陥りやすい住民不満をエネルギーとするポピュリズムへの有効な対抗策になるであろう。 (宮崎公立大教授)


~南日本新聞 2011年1月24日付掲載~

2011年4月16日土曜日

2011年3月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

3月1日付
「刻々迫る予算成立後の破局 この国は菅の独裁政治なのか」
3月2日付
「菅退陣もなく総選挙もない 支持率最低で居直る菅 鉄面皮の亡国」
3月3日付
「民主党にはガッカリだ 支離滅裂菅政権に国政は無理」
3月4日付
「菅首相延命に動く大マスコミ報道 『政局緊迫』と煽るメディアへ重大疑問」
3月5日付
「小沢排除は陰謀だった 小沢一郎と造反16人は正論だ」
3月7日付
「菅ボロ内閣、参院で頓死 国のため即刻総辞職すべきとアキレた声」
3月8日付
「前原辞任、ドミノで菅政権崩壊 小沢予想的中『破れかぶれ解散』」
3月9日付
「小沢一郎の呪い 予測通り小沢なき民主党は消滅する」
3月10日付
「亡国の政治はまだ続く 政権危機タレ流し情報の虚実」
3月11日付
「独裁化する菅直人の正体 本性はファシストだった菅市民運動家」
3月12日付
「菅首相は極悪人だ 試されている日本の民主主義」
3月14日付
「震度5強、東京大パニック 東北地方太平洋沖地震 震度7襲来なら首都全滅」
3月15日付
「けさ11時、福島原発3号機も爆発 史上最大地震、日本沈没 東京被曝迫る」
3月16日付
「福島原発最悪事態 2号機爆発、4号機火災 100キロ圏内も被曝恐怖 チェルノブイリと同じ」
3月17日付
「話にならない無能バカ政府 なぜ自衛隊を使って被災地に食料、毛布を投下しないのか」
3月18日付
「空中バケツリレーの愚 無能無力菅内閣の右往左往の危機対応、この国は救われないどころか崩壊へ」
3月19日付
「官邸脳死、外資のエジキ 福島原発爆破“臨界”近づく 30キロ圏内でも死者が出る 東京来週も大停電の覚悟」
3月21日付
「予測不可能なこれからのこと 菅政権では復興は到底無理」
3月23日付
「亡国の菅政権 痴呆的無能菅政権に怒りの罵声 このままやらせていたら国民皆殺し」
3月24日付
「無力無用有害の菅マヌケ政権 『政権延命が人命より大事』の菅直人」
3月25日付
「小沢排除の菅民主党、それが悪夢の始まりだった 地震の復興、小沢の出番だ」
3月26日付
「小沢一郎に『期待』と『不審』の二つの声 東北復興にゼネコンの小沢が最大のカギ」
3月28日付
「不安を煽るばかり政府対応、この先この国はどうなるのか 挙国一致の対応は菅退陣が条件」
3月29日付
「救い難い無能政府 『菅退陣、救国内閣を』が国民の要求」
3月30日付
「巨大地震が暴露したもの この国の再生復興などとても無理」
3月31日付
「本当は何が起きているのか 現実から逃亡する菅亡国政権」

大震災でも小沢待望論

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(02) 内田篤人

日本代表には07年4月に初めて招集され、08年6月の南アW杯3次予選バーレーン戦で代表初ゴールを決めた。「20歳87日」でのゴールは、W杯予選における代表最年少ゴール記録である。

10年7月、オファーのあったドイツ1部の名門シャルケに移籍した。本当は海外移籍に乗り気ではなかったという。「イタリア・セリエAでプレーした経験のある鹿島の先輩・小笠原に相談したら、シャルケでプレーすべきと言われたので踏ん切りがついた。そう内田は話していたが、これが大きな勘違い。小笠原は『いつか欧州に挑戦した方がいい』という意味で移籍を勧めただけだった」(サッカー記者)

もともと欧州リーグへの憧れはなく、各国代表の有名選手もロクに知らない。5日の欧州チャンピオンズリーグ準々決勝でインテルと対戦。試合後に日本代表の僚友、インテルの長友に「(インテルの背番号)10番、凄く上手だよねぇ~」と話し掛け、長友に「おいおい、南アW杯でも対戦したオランダ代表司令塔のスナイデルを知らないのか?」と呆れられた。「シャルケを選んだ理由を聞かれて『鹿島に移籍金(1億5000万円)をきっちり払ってくれるところならどこでもよかった。鹿島には愛着を持っている。移籍金が発生しなかったり、安かったりでは恩返しも出来ないからね』と話していた」(マスコミ関係者)

鹿島でも、そしてドイツでも「暇さえあれば寝てる」が口癖。地味なタイプでハデな生活とは無縁。「日本代表のレギュラーに定着し、イケメン選手として女性ファンも急増したが、いつも鹿島の選手寮でゴロゴロしていた。たまに外食に出掛ける時も鹿島のエンブレムのついたジャージーの上下を着たまま、ひとりでファミレスに行ってパスタなどをササッと食べ、そそくさと帰っていく。そんな姿が何度も何度も目撃されている」(前出の記者)

東日本大震災の起きた翌12日、地元でのフランクフルト戦後、「共に生きよう!」など日本語とドイツ語で書かれた自筆メッセージつきユニホームを着てサポーターにアピールした。GKノイアーのフォローがあった。「試合前に『これ(ユニホーム)を見せるのか?』とノイアーに聞かれ、内田は『勝ったら見せる』と答えた。するとノイアーが『オレがきっちり守る。今日は勝てるから』と勝利を約束した。試合は1-1の同点から後半39分、ノイアーが自陣ペナルティーエリア外に飛び出し、ルーズボールを相手ゴール前までロングフィード。これが味方FWの足元にピッタリ届き、決勝ゴールのアシストを記録した。その瞬間、真っ先にノイアーに抱きついたのが、ピッチ内外で仲良しの内田だった」(放送関係者)

試合後、ノイアーがロッカーに戻ろうとした内田をうながし、スタンド前まで連れて行った。そこで内田はユニホームの裾を引っ張り、メッセージを広げるとスタンドから割れんばかりの拍手が送られた。ACジャパン(旧公共広告機構)のCMでお馴染みのシーンである。ちなみに内田のメッセージつきユニホームは大きな反響を呼び、3月27日には近隣のライバル、ドルトムント、ボーフムとの合同チャリティーマッチが行われた。

【うちだ・あつと】 1988年3月27日、静岡県函南町出身。06年に清水東高を卒業して鹿島入りし、クラブ史上初となる高卒ルーキー開幕戦スタメン出場を果たした。04年の16歳以下アジア選手権、07年の世界ユース選手権、08年の北京五輪に出場。シャルケ入りすると日本からの女性ファンが急増。クラブ内で「日本ではモデルをやっていた」という噂が流れ、チームメートから「日本のベッカム」とからかわれている。身長177センチ、体重65キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月12日付掲載~

2011年4月11日月曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(01) 長友佑都

自他共に認める“ゴリラ顔”だが、女性サッカーファンの間から「長友ってイケメンだよね」という声が急増中だ。「昨年7月、大ファンと公言していた女優の堀北真希と『ロッテ ガム友大使』の就任会見に出席した。イタリア・セリエA入りが発表される前だったし、南アW杯で名を上げたとはいえ、堀北真希よりも格下感がアリアリで『ミスマッチ』の声も多かった。それが世界十指に数えられるメガクラブ、インテルに移籍して活躍すると広告業界などでは『堀北真希クラスでは長友とは釣り合わない』と言われるようになった」(放送関係者)。1日、スポーツ飲料「ポカリスエット」のキャラクター契約を結んで話題を集めた。

小学1年生でサッカーを始め、中学に進学する際、地元のJ2愛媛のジュニアユース(中学1~3年)の入団テストに失敗。中学卒業後はサッカー強豪校・東福岡高校に進んだが、地域選抜、年代別代表とは無縁の存在だったので大学サッカー部のスポーツ推薦が受けられず、進学した明治大学には指定校推薦で入った。「入学して患ったヘルニアに苦しみ、2年の途中まで試合に出られない時はスタンドで応援部隊のタイコ係だった。このタイコが“リズム感抜群で最高”と評判を集め、J1鹿島の有力サポーター団体から“ウチで叩かないか?”とスカウトされた」(サッカー記者)

大学3年時にFC東京との練習試合で東京関係者の目に留まり、大学サッカー部をやめて辞めてプロ契約を結んだ。小学3年で両親が離婚。「女手ひとつで姉、自分、弟を育ててくれた母親を経済的に助けたかった」とコメント。ちなみに姉はモデル並みの美貌の持ち主だ。

W杯後に20年ぶりにセリエAに昇格したチェゼーナに引き抜かれ、シーズン半ばが経過した1月末、強豪インテルに電撃移籍を果たした。「日本サッカー協会には各都道府県、全国9地域などで有望選手を発掘していくトレセン制度がある。そこから16歳以下代表、20歳以下代表など年代別代表に吸い上げていき、次代の五輪代表、日本代表選手を育てていくものだが、長友は県選抜にも選ばれなかった。それが、今ではインテル所属選手ですからね。サッカー協会公認ライセンス保有指導者の見る目のなさ、トレセン制度の不備がクローズアップされている」(前出記者)

FC東京時代の年俸は2500万円。それがチェゼーナ移籍で6000万円に跳ね上がり、そして今のインテルでは2億円! ついに高給取りの仲間入りを果たした。「かなり厳しい状況となったが、セリエA優勝に欧州チャンピオンズリーグ優勝のタイトルを獲得すれば、長友の来季の年俸は倍増4億円といわれていた」(地元紙記者)。5年ほど前までタイコを叩いていた男の成り上がりストーリーは、世界中のサッカー選手垂涎の的なのである。

【ながとも・ゆうと】 1986年9月12日、愛媛県西条市出身。明治大在学中の07年にFC東京の特別指定強化選手としてJリーグに出場。翌年にプロ契約。同年5月のコートジボワール戦で日本代表デビュー。同年11月のシリア戦で代表初ゴールを決めた。南アW杯全4試合にフル出場。決勝戦では試合途中から左MFにポジションを移し、FW李の決勝ゴールをアシストした。身長170センチ(体重69キロ)は公称。実際は168センチ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月9日付掲載~

【特別インタビュー】日本サッカー協会は東電に130億円の借りがある ジャーナリスト・刈部謙一

東京電力福島第1原発から約20キロ、同第2原発から約10キロにJヴィレッジ(福島県楢葉町・広野町)がある。広野火力発電所に隣接する町有地に東電が約130億円で建設。97年に完成した。94年8月27日付の読売新聞は「東電は第1原発の原発増設計画を発表。見返りの地域振興策として提案されたサッカーのナショナルトレーニングセンター(NTC)は、電力丸抱えの新地域振興策として注目を集めそう」と書いた。東電=福島原発とJヴィレッジとの緊密な関係性を考えると日本サッカー協会(JFA)は、何らかのアクションを起こすべきではないのか? 16年前に週刊誌上でリポート「サッカーW杯誘致と原発の談合構造」を発表したジャーナリストの刈部謙一氏に聞いた。

●「原発は安全なんです」と協会幹部
――そもそも日本サッカー協会は、Jヴィレッジに「どんな役回り」を期待していたのですか?
「計画が発表された95年当時は2002年W杯誘致を巡り、韓国と激しい戦いを繰り広げていました。サッカー協会は招致レースにひとつでも有利な材料が欲しかった。しかし、お金がない。そこで東電の構想に乗った。サッカー人気、W杯人気が原発建設の見返りに利用されたのです」
――W杯招致委員会の担当者だった小倉JFA専務理事(現JFA会長)からも、興味深いコメントを引き出しています。
「95年2月に香港で行われたダイナスティ杯を取材し、現地で小倉会長から『NTCは地域振興のため。我々としてやりたいし、やらなければならないもの。アジア初のNTCだし、(W杯招致活動の)目玉にもなります』と聞いた。そういえば『原発は安全なんですよ』と明快に応えていたのが印象的でしたね」
――東電と国が推進してきた原発の安全神話は完全に崩壊し、日本国民の不安は募るばかりです。
「2日に菅総理がJヴィレッジを視察。自衛隊員らを激励しました。そのJヴィレッジは、一週刊誌によると東電が管理して不評ですから、JFAがもっと積極的に関与すべきです。東電から提供された施設をJFAは、ずっと甘受してきた当事者でもあるのですから」

●1997年、福島第1原発の見返りにNTC建設の談合構造
――16年前に週刊誌上でサッカーと原発について踏み込んだ特集記事を掲載したのは、どういう思いからだったのですか。
「はたして原発は本当に安全なのか? 簡単に東電の言うことに乗っかっていいのか? そう問題提起をしたかった。当時のJFA事務局長を取材すると『原発を絡めるとややこしくなると思っていましたけど、東電からは原発の建設とは関係なくやりますと聞いています。とにかくNTC建設は、ひたすら我々の悲願なんです』と話していました。しかし、選手は困惑していました。加藤強化委員長(当時)は『見返りなら考え直す必要があるでしょう』、柱谷代表主将(当時)は『こうした施設(NTC)は税金で造って欲しい。こんな形(東電全額負担)とは思わなかった。一企業や一自治体だけで運営は難しいと思う。だからこそ国にやって欲しい』とJヴィレッジの東電丸抱えに否定的でした」
――これからJFAは何をすべきでしょうか。
「自分のWEBマガジンにも書きましたが、JFAは、いわば東電に130億円の借りがある。ならば責任を持ってその金を集め、復興のための費用とする。たとえば130億円プロジェクトと名付け、チャリティーマッチを積極的に推し進めているJクラブとも連携を取りながら、サッカー界全体の取り組みとしていくべきだと思います。あと、もうひとつ」
――何でしょうか。
「12月に日本でクラブW杯が予定されますが、絶対に開催すべきです。すでに世界各国による『日本脱出勧告』がなされており、これが“日本は危険”という風評被害を増長させている。大会を開催すれば、世界中から多数のプレスが殺到し、彼らの報道を通して“日本は安全な国”を世界に証明できます。正確な情報発信も重要です。たとえば全国各地のスタジアムの放射能データを定期的に発表してもいいでしょう。早く関係組織を立ち上げ、出場するクラブに安心材料を積極的に提供していくべきです」

かるべ・けんいち 1949年12月27日、東京都生まれ。法政大除籍。編集プロダクション「K&K事務所」主宰。WEBサイト「Football Weekly」(http://footballweekly.jp/)発行人。
参考:【発行人から】福島原発に対する日本サッカー界の責務
http://news.livedoor.com/article/detail/5433664/


~日刊ゲンダイ 2011年4月11日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(12) 「やってはいけない」と「何もしない」の違い

「やってはいけない」と言うと、「じゃあ、何もしなければいいのだ」と誤解を招くことがあるようです。しかし、従業員として「しなければならないことをしない」のは、従業員にとって「やってはいけないこと」なのです。

「しなければならない義務」がある人がそれをしないと、刑事責任を含め、さまざまな責任を負わされます。例えば、食品や家庭用品の製造販売、ホテル・旅館などのサービス行、建物管理業などは、他人の身体、生命に危険をもたらす恐れのある業務です。これらの仕事に従事している人が、自分が何もしないことによって、死傷者が出る可能性があるのに、それを予見しなかったり(予見義務違反)、予見はしたが、そのようなことにはならないだろうなどと、安易に考えて何もしなかった(結果回避義務違反)。その結果、人を死亡させたりケガを負わせてしまうと、業務上過失致死傷罪として、5年以下の懲役もしくは禁錮。または50万円以下の罰金に処せられます。

サラリーマンにも、地位やポストに応じていろいろな義務があります。それらの義務を誠実にこなすことが、従業員の義務です。たとえ前記の刑事責任を負わない場合でも、なすべきことをしないと懲戒処分を受けたり、それによって生じた会社の損害を賠償する義務という民事責任を負います。

そうならないためには、どうするか? 例えば、製品の製造販売過程において、漠然とでも危険を感じたらただちに上司に報告、会社として調査をし、安全性を確認する。危険性を察知したら、直ちに製品を回収(リコール)したり、使用者に十分な警告を与える処置をするなどをやるべきです。 (小林総合法律事務所代表=小林英明) =おわり

~日刊ゲンダイ 2011年4月2日付掲載~

2011年3月28日月曜日

講談社にとって、夏場の計画停電に伴うクーラーの使用禁止は耐え難い苦痛らしい。(呆)

朝日新聞社が発行する週刊誌「AERA」の表紙が、放射能汚染を面白おかしく煽っていて不謹慎だとして、ネット上で謝罪したらしい。

 東京に放射能がくる|AERA-net.jp
http://www.aera-net.jp/summary/110319_002288.html
http://megalodon.jp/2011-0320-0029-09/www.aera-net.jp/summary/110319_002288.html

確かに、この見出しは誤解を招きかねない。しかし、関東の一部地域では原発事故後、大気中の放射線量が一時上昇したのは事実だった。もっと酷いのは福島県で、福島第一原発から40キロ離れた土壌から高濃度のセシウム137が検出され、最悪の場合、土壌の入れ替えも必要なほど深刻な状況だという。

原発から40キロの土壌、高濃度セシウム 半減期30年
http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY201103230215.html
http://megalodon.jp/2011-0323-1312-24/www.asahi.com/national/update/0323/TKY201103230215.html

2ちゃんねるやTwitterの書き込みを見る限りでは、震災発生時から冷静な情報発信と、放射能に関する解説が鋭かったとして、NHKを称賛する声が多かった。逆に、今回の震災で一番不評だったのは、フジサンケイグループをはじめとする(自称)保守系マスコミの報道姿勢であることは明白だろう。中でも産経新聞・読売新聞は、この期に及んで政権批判を展開し菅内閣の打倒を図ろうとしたのだから呆れるほかない。そういうことは、震災が落ち着いてからにしてくれ。フジテレビに至っては、被災地での冷血な取材ぶりや、菅首相会見での報道スタッフの暴言が生放送中の電波に乗って全国に発信されてしまうなど散々だった。

雑誌はどうか。講談社系の週刊現代・日刊ゲンダイのここ数日の主な見出しを見てみると、「クーラーのない生活耐えられますか?」「計画停電で暴動が起きるんじゃないか」「電車通勤できないサラリーマンは虫けらか」etc…「甘えてんじゃねえ!」の一言に尽きる。

しかし、今回の震災での最大の極悪人は、民主党を原発推進政党に転換した張本人であり、地震発生後1週間も雲隠れした小沢一郎である。その小沢一郎であるが、きょう28日に地元・岩手県に入り達増知事と会談、ドヤ顔で政府・東電批判を展開した。「国民の生活が第一」というキャッチフレーズも、今となっては笑い話のタネにもならなくなってしまった。

小沢元代表 岩手県知事と会談
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110328/t10014946781000.html
http://megalodon.jp/2011-0328-2222-09/www3.nhk.or.jp/news/html/20110328/t10014946781000.html

ちなみに、記事の中で小沢が発した「日本沈没」という言葉。どこかで見たことあるな~、と思ったらこれだった。

http://twitpic.com/49vux0

2011年3月26日土曜日

【プロが教える職場の法令順守】(11) 「法に反しなければ大丈夫」の落とし穴

法令に書かれていることは、「やってはいけないこと」です。そのせいか、「法令に違反することさえしなければ大丈夫」と考えがちです。たしかに、法令に違反しなければ、罰を科せられたり、損害賠償の責任は負いませんが、注意しなければいけない点があります。「法令の解釈はひと通りではない」です。

「行列のできる法律相談所」というテレビ番組では、4人の弁護士が1つの問題についてそれぞれ意見しますが、一致する例はほとんどありません。どんな行為がどんな法令に違反するかの解釈は、人によって異なるからです。つまり、自分では法令に違反していないと判断しても、他人の解釈では法令違反だと判断されることはよくあります。

解釈が分かれた場合、統一的な解釈をする権限は裁判所にあります。法令違反だと裁判所が判断して初めて、責任を負うのが正しいのです。ところが、日本ではそうはなっていません。裁判での有罪確定前でも、警察の捜査で容疑者となった者は罪を犯したと決めつけられがちです。

06年の「ライブドア事件」を思い出してください。当時社長だった堀江貴文氏には、実はまだ最高裁判所の判決が示されていません。しかし、ライブドアや同氏の自宅に家宅捜索が入った時点で世間から指弾を受け、それに伴う社会的、経済的制裁を受けました。権力機関から法令違反の疑いを持たれた段階で、事実上の制裁を受けてしまった典型例です。

私たちは、「法令に違反することをやってはいけない」だけでは足らず、「法令違反ではないかという疑いを権力機関から向けられるような行為」すら、やってはいけないことになります。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年3月26日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(10) 書籍のコピーを社員研修に使うと犯罪

「5ページから8ページまでコピーしてください。研修資料にします」「25部ですね」。日常的に交わされているやりとりですし、書籍のコピーなど、日常茶飯事のように行われていますが、これは著作権法違反という犯罪です。

思想・感情を創作的に表現したものを著作物といいます。著作物を創作した者は、著作権者とされ、著作物の複製(コピー、録画)等を禁止する権利、すなわち著作権を持ちます。書籍の著作権者は作者です。テレビ番組はいろいろな著作権が交じり合い、原作者や監督、脚本家など、多くの人が著作権者となるケースもあります。

著作権者の承諾がない限り、複製を作ることはできません。だから、書籍やテレビ番組の複製(コピー、録画)は、原則禁止です。コピー機やテレビ録画機器が至るところにあるじゃないか、という疑問をお持ちでしょう。著作権者の承諾なく複製(コピー、録画)できる例外も、認められているからです。代表的なものが「私的使用のための複製」です。

すべての著作物の複製を認めなければ、我々の生活は著しく制限されてしまいます。一方、個人的な使用目的による複製ならば、著作権者にそれほど経済的損失を与えません。私的使用のための複製が例外なのは、このような理由からです。どこまでが私的使用の範囲内かは不明確な部分もありますが、大まかにいうと、自分と家族の使用、親しい数人の友人との使用は、私的使用とされるケースが多いでしょう。

しかし、数人の友人との私的な勉強会ならともかく、企業の社員研修は私的な使用とはいえません。企業研修とは、営利を目的とする会社が、その営業成績を上げる目的や、社員の質を向上させ、ひいては会社の業績を上げることが目的だからです。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年3月19日付掲載~

2011年3月12日土曜日

【プロが教える職場の法令順守】(09) どこまでがインサイダー取引か?

「聞いちゃったかといえば、聞いちゃったんですよね」。このセリフ、覚えている方もいるでしょう。発言者は村上世彰氏。ニッポン放送株の売買がインサイダー取引に当たるとして、証券取引法違反の罪に問われ、06年に記者会見したときのセリフです。

超低金利の現在、株式投資は大きなリターンが期待できる資産運用法のひとつ。株式売買をしているサラリーマンも少なくありません。儲けるには、他人より早く正確な情報を入手することが必要ですが、公表前の会社の重要情報、つまり「インサイダー情報」を知り、それに基づいて株取引をすると犯罪なのは、誰でも知っているはず。ところが、「どこまでがインサイダー取引を満たす要件か」は、意外に知られていません。

インサイダー取引は、「その会社の役職者、取引先、または契約締結している者」と、「その者から一時的に情報を入手した者」のみが、処罰の対象とされています。ですから、一時的に情報を入手した者からさらに情報を得た人は「二次的情報取得者」とされ、処罰されません。

例えば、営業に行った得意先で、「今後は増配する予定」と聞いた人がその会社の株を買うと、犯罪です。得意先での雑談など、正式な場ではなく、小耳にはさんだ会社の重要情報で株を買っても、犯罪となることがあります。ところが、その者からさらに同じ情報を聞いた人が、それを基に株を売買しても、犯罪にはなりません。株で儲け続ける人の中には、こういう人もいるのです。

ただし、二次的情報取得者のように見えても、一時的情報取得者と同じ会社に所属する場合は、一時的情報取得者とされるケースもあります。生半可な知識で、このような情報を基に取引をするのは無謀ですし、ヤケドのもと。やめた方が賢明でしょう。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年3月12日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(08) 退職後の企業秘密漏洩も犯罪になる

今やサラリーマンは、外部に知られると致命的となる会社の機密情報に接することは日常茶飯事ですが、これらを漏洩することも、もちろん許されません。

先日、ホテルの飲食店でアルバイトをする女性が、Jリーガーとモデルのデートをツイッターでつぶやき、解雇される騒動があったばかりです。従業員は会社と雇用契約(労働契約)を締結しており、賃金を得る見返りに会社に対して誠実に労働する義務を負っています。職務上知り得た秘密を漏洩し、会社に損害を与えることは、雇用契約違反です。

就業規則には、「業務上の重大な秘密を社外に漏らしたこと」が懲戒事由として書かれています。違反すると懲戒に処せられたり、時として懲戒解雇されることもあります。皆さんも、このことはよくご存じで、注意しているでしょう。しかし問題は、「会社を退職した後であれば、退職前の企業秘密を漏らすことは問題ない」と思っている人が意外に多いことです。

確かに、雇用契約義務や就業規則は、現職従業員のみが対象です。情報漏洩した人が退職していれば、雇用契約上の義務違反で損害賠償を請求されたり、就業規則違反だと懲戒処分をされることもありません。しかし、退職後でも企業の機密漏洩が犯罪になるケースはあります。「不正競争防止法」という法律です。

市場における競争の過程での不正を防ぐために設けられた法律です。販売に関する情報(販売ルート・販売計画・顧客情報等)、製造に関する情報(製造技術・パテント・開発研究資料など)、コンピューターソフトなどの情報を、企業の機密として保護しています。具体的には、顧客名簿、大口受注契約書、製品の設計図、実験データ、仕入れリスト、販売マニュアルなどを不正な手段で取得したり、これらの行為で取得した機密を使用、開示すると犯罪になります。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年3月5日付掲載~

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(05) ホルスタインなのに驚異のうまさと安全性

十勝地方の河西郡芽室町にユニークな畜産農家がいる。農業生産法人株式会社「オークリーフ牧場」を経営する柏葉晴良氏(54)だ。国内でBSEの問題が顕在化する前、正確にいうと17年前から、どのようなプロセスで肉を生産したかを消費者に開示することを強く意識し、治療歴や子牛の出生地などのデータを管理。抗生物質は一切使わず、非遺伝子組み換えやノンポストハーベスト(収穫後農薬未使用)の穀物飼料しか与えず、牛を飼育してきたのだ。

肉牛の場合、子牛を育てる「素牛農家」と、それを肉用に飼育する「肥育農家」に分かれる。柏葉氏は両方を一貫生産しており、価格の安い乳牛の「ホルスタイン」の牡牛、3000頭近くを食肉用として飼育する。「多くの消費者が食べる低価格の肉の安全性を担保することに意義がある」と考えたからだ。「未来めむろうし」というブランド名をつけ、スーパーなどに販売している。

柏葉氏は08年5月、地元の農家有志に協力を募り、地元で焼き肉店「KAGURA」をオープンした。柏葉氏の牛肉や地元でとれた野菜を食材に使う。店舗は芽室農協の古い倉庫を改築した。「一番おいしくて安全なものを地元の人に食べてもらう。それが口コミで広がり、都会の人にも来てもらう。それが地域のためにもなる」と柏葉氏は言う。相当分厚く切ったステーキや、せいろで蒸したリブロース。これらをわさび醤油で食べる。地元でとれた「山わさび」を使う。味は有名な和牛と全く変わらない。

「農家だからやれる焼き肉屋を目指したい」。柏葉氏はこう胸を張ったが、ここまでは紆余曲折があった。親から事業を引き継いだ直後、オイルショックの影響などで1億円を超える借金を背負ったのである。借金返済のため、利益重視、効率性を徹底的に貫いた。「当時は抗生物質やホルモン剤を使いまくっていました」。億単位の利益を上げることに成功して借金も返済、事業も順風満帆だったところで、柏葉さんは目標を失ってしまう。

そこに転機が訪れた。94年、広大な農場内で宿泊体験してもらう「ファームイン」を始め、消費者の声を直接聞いて、「安全で安心なものを生産することが農業の基本」と考え始めたのである。「どん底と大もうけの両方を経験した結果、自分が存続できるための利益だけでいいと思うようになりました」。安全性を求めると、生産性は低下した。年間で1700万円近いコスト高になったそうだ。しかし、こうした肉が評価される時代が来ると思った。部位も偽装されないように1頭単位でしか売らないことにした。BSE騒動の前からだから、先駆者である。

柏葉氏はいま、牛肉の輸出を検討している。海外から引き合いがあるという。そこに「規制」の壁が立ちはだかる。食肉を輸出する場合、国際的な衛生基準「HACCP(ハサップ)」の適用を受けた処理場で解体しなければならないが、それが地元にはないからだ。国内では群馬県と鹿児島県にしかない。輸出コストを考えれば、割に合わない。しかし、柏葉氏はメゲていない。「昨年11月に豪州を視察して、規模の拡大競争ではかなわないと痛感しました。安易な経営拡大より、きめ細かに一頭ずつ育てていくことの方が競争上、優位になる」。ここに日本農業が生き残るヒントがある。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月5日付掲載~

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(04) チーズ職人の頑固一徹

帯広市から車で40分ほど南に下ると、河西郡更別村に入る。そこに一見、ログハウスと見間違えるようなおしゃれな建物がある。大根農家の野矢敏章さん(61)の家だ。大根だけで約20ヘクタールを栽培、年商約1億円の大農家だ。

大根栽培が暇になる冬場、野矢さんは頑固一徹のチーズ職人に変身する。地元の牛乳を使い、発酵用の菌にもこだわる。人工のものではなく、地元で自然に生息しているものを使うのだ。たとえばブルーチーズ用の青かびは、地元のパン屋で培養したものを使った。作業場は自宅横に設置した大きな海上輸送コンテナを改造して再利用。さらに自宅地下を熟成庫に改装した。

10年前、地元の乳製品会社OBにチーズ作りを教えてもらい、趣味で始めたのが、5年前から本業化した。夫婦と息子の3人の手作りで、年間500万~600万円を売るのである。野矢さんが生産するのは硬質の「ゴーダ」タイプのチーズだ。ブランド名は「酪佳」。カシワの木のチップで燻製にした「スモーク酪佳」は、2年前の「十勝産新作ナチュラルチーズコンクール」で優勝した。3年前の「洞爺湖サミット」では、野矢さんのチーズが各国首脳に振る舞われた。

「輸入品並みの品質ですね」と褒め言葉をかけられるようになったが、野矢さんはそれが気に食わない。「私は十勝独特のものを作りたいんですよ」。筆者が訪れると、自慢の「酪佳」を包丁で切っておやつに出してくれた。食べてみると、コクがあり、今までのチーズにない風味だ。1年熟成したものは表面が木の皮のようにザラザラしている。さらに2年ものはブランデーのような風味がする。これをつまみにすれば、いくらでも赤ワインが飲める。

素晴らしいチーズなのだが、ここに至るまでは辛苦がある。野矢さんは43年前、旭川近くの東川町で実家を継いで酪農業に就いた。その3年後、日本列島改造論で全土がバブルに沸き、「ゴルフ場用に農地売ってくれ」と街や地元農協に頼まれた。野矢さんひとりだけが断ったため、地元で村八分にあった。「家族が精神的に参ってしまい、土地を売って酪農をやめることに決めました。ところが決めた途端、ゴルフ場計画が中止になった」

計画は頓挫したが、野矢さんには「町や農協に逆らった男」というレッテルが残った。農協のいじめはずっと続き、野矢さんは架空の借金をでっち上げられ、返済請求の裁判を起こされてしまう。野矢さんは損害賠償請求で逆提訴。結局、裁判は野矢さんの事実上の勝訴で和解・決着したが、その後、野矢さんはより大根栽培に適した更別村に引っ越した。チーズ作りへのこだわりは、不本意な形で酪農からの転身を余儀なくされた野矢さんの複雑な思いの結晶かもしれない。

さて、野矢さんは、農業が抱える課題や自由貿易との関係についても意識が高い。昨年11月、農業大国のキューバを視察、有機栽培の都市菜園が普及していることに驚いたという。キューバでも、安さよりも安全なものを自国で確実に調達することを重視しているのである。「日本の消費者は、遺伝子組み換えもポストハーベストも受け入れる準備ができているのですかね」

安けりゃいいってもんじゃない。設備投資を抑えて100年前の製法にこだわる職人は「手作りチーズの意味が分かった人に食べてもらいたいです」と言う。こうした骨太農家がいる十勝の農業は強い。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月4日付掲載~

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(03) 無添加ミートソースで大成功

帯広市の西部に位置する、河西郡の芽室町。ほとんどの農家は「主力4産品」で生計を立てている。小麦、大豆、ビート(甜菜)、でんぷん原料用馬鈴薯だ。これらはかつての米と同様、「政府管掌作物」といわれた。政府が全量を買い上げる形で小麦粉や砂糖などに加工されて消費者の元に届いていた。だから「私たちは公務員と同じなんですよね」(地元の農家)といった声をよく聞く。ところが、07年度から政府の買い上げがなくなった。民主党は農家への個別補償政策を打ち出しているが、多くの農家は「国が財政破綻寸前の状況で、いつまでも農家への優遇が続くはずがない」と思っている。

「農家も国の世話にならないで生きる時代が来ていますよ」と話すのは、同町で約30ヘクタールの畑作をしている農家の主婦、鈴木由加さん(45)だ。鈴木さんは美容師出身。彼女の自信には理由がある。「農村起業」で成功しているのだ。

10年前、800万円を借り入れて、計1000万円の投資をした。自宅の横に加工場を設け、農作業の合間に自宅でとれた野菜を材料に無添加のミートソースや五目ご飯などを作り、真空パックにして売るビジネスを始めたのである。地元の直売所やレストランに売るほか、電話やインターネットでの注文にも応じる。商品ブランド名は「すずきっちん」で、これがうまい。何より無添加だから、安心、安全。こうした試みが、新しいビジネスと顧客をつくるのだろう。「本業の農業以外に年間約600万円の売り上げがあり、パートも2人雇っています。借金も1年前倒しで昨年返済が終わりました」

鈴木さんは「北海道女性農業者倶楽部(マンマのネットワーク)」のメンバーでもある。料理家や主婦、農家の奥さんらが主なメンバーで、年1回、素材や加工品を持ち寄り、外部の評価も受ける。若手もアドバイスを求めて訪ねてくる。主力4商品だけでは生き残れない。トマトを栽培してピューレとして売れないか。そんな相談である。

鈴木さんは「やっと地元に根付くことができた」と言うが、彼女に起業を決意させた動機は実は、「農家にやさしい習慣」だった。北海道には独特の金融制度がある。北海道の農家は夏から秋にかけて収穫する。収入は冬に集中し、それを農協の「組合員勘定口座」に入れておくと、夏場に残高が足りなくなっても冬の売り上げを見込んだ信用決済をしてくれるのだ。

これは便利な制度だが、半面、家計は「どんぶり勘定」になりがちで、“甘えの構造”にもつながっていく。「北海道では大規模な機械化が進んでおり、高額の設備投資が不可欠であるためキャッシュが乏しい。でも、働いているのは夏場の4ヵ月で、冬場は何もしていないんですよ」。ドンブリ勘定からの脱却と現金を稼ぐことの必要性を痛感した鈴木さんは、起業を決意したのである。

いま、鈴木さんは事業を拡大させ、「農村レストラン」を検討している。農水省は現在、農業の「6次産業化」を推進する。直接生産する1次産業、加工する2次産業、流通・サービスを担う3次産業をドッキングさせて1+2+3で6次産業というわけで、農業の付加価値を高め、地域の活性化にもつなげていこうという試みである、鈴木さんに比べると、中央官庁の試みは遅すぎるのではないか。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月3日付掲載~

2011年3月6日日曜日

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(02) 自然栽培で年商1000万円以上

「この4年間、試行錯誤を繰り返しながら自然栽培に取り組み、ようやく成功しました」。こう話すのは、とかち帯広空港近くの帯広市愛国町で野菜農家を営む薮田秀行さん(54)だ。きのう、この欄で紹介した「やぶ田豚」の養豚家、薮田貞行さんの実兄である。自然栽培とは農業、有機肥料を使わないのはもちろん、耕さず、草取りもしない。畑にそのまま種をまくのである。その方が土壌が軟らかくなり、水や空気がよく根にしみこむ。病気にもならないし、収穫量も変わらないそうだ。

さて、秀行さんも脱サラ組である。近畿大学農学部を卒業後、18年間、大手食品会社に勤めた。しかし、添加物の入った食べ物を売ることに疑問を持ち、安全で安心な食べ物作りに取り組みたいという思いから農業に転じた。

動きは弟よりも早かった。サラリーマン時代の1995年から帯広市内で開かれていた年2回の実地教育と通信教育で構成される農業入門塾に参加、就農準備を始めた。「入塾後はボーナスには一切手をつけず、約1000万円の自己資金を準備しました」。98年に退職して帯広市に引っ越し、準備期間を経て99年から有機農業を開始。02年に借りていた農地も買い取った。栽培面積を徐々に増やし、今は約6ヘクタール。周辺の平均的な大農家に比べれば5分の1程度の面積だが、ホウレンソウ、マメ、カボチャ、カブなど約90種類の野菜を栽培。夫婦で切り盛りしている。

とはいえ、当初の年商はわずか300万円程度だったという。「良い土壌がなかなか完成せず、自分が理想とするような野菜ができなかった。売り上げ確保のため、他の農家から野菜を仕入れて売ったこともありました」。07年に土壌がよくなり、野菜の品質が飛躍的に向上、年商も1000万円以上になったという。

薮田秀行さんは、販売方法も面白い。農協には一切出荷せず、十勝地方の主婦ら個人への口コミ販売が中心なのだ。自宅横に直売所もある。また、顧客名簿には全国で1000人近くが登録されており、注文があれば、1箱3000円で12~13種類の野菜を詰めた「宅配有機野菜」を送る。3年前には畑の横に加工場を設置し、煮豆やトマトのピューレ、ピクルスなどを瓶詰めにして販売する新規事業も始めた。売り物にならないくず野菜は実弟、貞行さんの豚の飼料に回す。「大量生産の農家は目指しません。コミュニティーとのお付き合い。お客さんから農場を支えてもらう。私の畑は皆でシェアしているという考えで農業に取り組んでいきたいと思います」

こうした取り組みは、サラリーマン時代の経験を生かしてのものだ。秀行さんが勤めていた会社はコンビニ向け弁当やサンドイッチの食材を加工していたが、そこで事業部長や工場長なども経験した。製品開発や品質管理だけではなく、コストの管理でも大いに腕を発揮したという。これが生きた。「設備投資を抑えて固定費を下げた農業をしないと、投資を回収しようと必死で売ることばかり考えて品質がおろそかになりがちです。お客さんのためにあえて資本投下しないという考えが自然栽培につながりました」

企業が乗り出す大規模農業が進む米国でも、「CSA(コミュニティー・サポーテッド・アグリカルチャー)」と呼ばれる方法が活性化しつつある。生産者が消費者に直接販売し、地域や消費者も生産者を支える動きだ。「TPPなど経済のグローバル化は避けられないのでしょうが、各農家が消費者を意識して力をつけていくしか生き残りの方法はないと思います」。秀行さんの言葉は力強い。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月2日付掲載~

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(01) 口の中でとろける豚肉はこうしてできた

東京・丸の内のビルの地下1階の飲食店街に一風変わった飲食店がある。「とかちの…」。アスパラガスやトウモロコシ、ジャガイモなど北海道の十勝地方でとれた旬の食材を使った料理が出る。これだけなら、単なる郷土料理の店だが、面白いのはすべての食材に「ストーリー」があることだ。生産者がその食材を育み、店に届けるまでの「ストーリー」を聞いていると、今の農業が抱える問題点、課題が浮き彫りになってくる。農薬の使い方、農協との付き合い、流通コストとの闘い、後継者育成、国の補助金政策のあり方などだが、こうした問題点に立ち向かっている人々は実は、脱サラ組だったりする。そこがまた、興味深い。

さて、「とかちの…」でもっとも人気が高いメニューのひとつが「やぶ田豚のメンチカツ」だ。口の中で肉が溶けるようで脂臭さがない。その生産者の薮田貞行さん(50)を訪ねた。帯広市内から車で約30分の上川郡清水町。ここの養豚場に薮田さんの豚、約600頭が飼育されている。薮田さんは日本大学農獣医学部畜産学科を卒業後、飼料会社に就職した。営業や研究開発に携わったが、脱サラして北海道に移住。2001年から養豚業を始めた。経営環境が厳しい養豚への新規参入は全国でもまれだ。なぜ?と聞くと、「独立のきっかけは、サラリーマン時代に売っていた飼料に疑問を持ったことだ」というのだ。「抗生物質が混じっていて、家畜にこんなものを食べさせていいのかという思いが長年ありました。いつか理想の餌で養豚に取り組みたいと思っていました」

00年に飼料会社を退職して帯広市の施設で就農の研修を受けた。その後、約10ヘクタールの農地を購入して養豚業をスタートさせた。飼料には抗生物質を一切加えない特製の餌を使う。地元で収穫される有機野菜のくずも与える。こうして育てると、肉の脂分が低い温度で溶けるため、とろけるような味わいになる。しかし、商品化までは苦労の連続だったという。「大学では子豚は10棟程度まとめて飼育するものだと習いました。でも、いざ、現場でやってみると違うんですね。手伝ってくれる妻は子どもを育てるような感覚で1頭ずつチェック、世話をした。この方が育ちは良かったのです」

こうした試行錯誤に加えて、穀物相場上昇などで予期せぬコスト高に戸惑った。「農協が取る中間マージンの額も思っていた以上に高かった」と言う。「それに農協経由だと、抗生物質を使った豚と一緒に出荷されてしまう。私の豚は本当に価値がわかってくれる人だけに食べてもらいたかった」。そこで、09年3月から農協経由での出荷をやめ、「やぶ田豚」というブランド力で売ることに注力したのである。そうしたら、経営は軌道に乗り、安定した。食肉処理するハム会社に依頼し、豚にICチップをつけて、誰が育てた豚か分かるようにしたうえで食肉に加工してもらう取り組みもした。そのハム会社から自分が育てた豚を買い戻し、個人向け営業も強化した。アトピーの子どもに悩んでいる母親らの間で口コミで広まり、売れている。

今、農家はTPP問題で大きく揺れている。安い外国産の農産物がどっと入ってくれば、潰れる農家が続出するかもしれない。しかし、薮田さんは「お客さんが評価してくれるものを生産していきたい」と淡々と言う。脱サラ農業家の挑戦が日本の農業を変えるヒントになる。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月1日付掲載~

2011年2月28日月曜日

2011年2月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

2月1日付
「菅政権3月退陣 首相交代でも解散・総選挙」
2月2日付
「どっちが悪党なのか 衆院解散で政権を作り直せの声」
2月3日付
「小沢起訴、大マスコミ報道に重大疑問 小沢はなぜ離党も辞職もしないのか」
2月4日付
「いまこの国の政治は破局へ向かっている 菅政権はなぜこれほど不人気なのか」
2月5日付
「呪われた政権 『菅は去れ』と大多数の国民の声」
2月7日付
「歴史的政権交代をブチ壊した菅の背任 自公野党は民主党政権倒閣に即刻動け」
2月8日付
「全部デマカセだった民主党の政権公約 公約見直しなら選挙をやり直せ」
2月9日付
「菅首相しがみつき欺瞞に重大疑義 また自民と同じ顔ぶれで税制改革」
2月10日付
「なぜか消えた3月政変 大増税が実現の悪夢のシナリオ」
2月11日付
「一体誰のため何のための首相なのか 解散も総選挙もなし、泥沼政局」
2月14日付
「小沢処分でも菅支持率は上がらない これは史上最低の暗愚宰相だ」
2月15日付
「死に体にしがみつかれては国民が迷惑 やぶれかぶれ解散もできない」
2月16日付
「役立たずの菅首相が『小沢処分』のナンセンス 民主政権は瓦解の始まり」
2月17日付
「菅民主党は独裁政権なのか 危険水域に来たこの国の民主主義」
2月18日付
「菅政権は即刻退陣 何が目的で首相にしがみつくのか」
2月19日付
「悪あがきし踠く菅無能政権 解散必至、脱小沢民主党は溶解する」
2月21日付
「自民末期より無残、民主政権 余命いくばくも無し菅首相」
2月22日付
「にっちもさっちも行かない菅政権 無力なくせに強気なチンピラ丸出し菅直人」
2月23日付
「政権私物化は許されない 何のための政権交代だったのか」
2月24日付
「菅首相は誇大妄想だ 自民も民主もダメ、菅政権の罪は重大」
2月25日付
「結局誰のためになったのか 自公と同じ民主菅政治の性悪」
2月26日付
「ヤマ場の政局 国民生活より権力維持が第一の菅首相」
2月28日付
「菅無能は辞めるべきだ もう一度総選挙で政府を作り直せ」

毒電波発信中

2011年2月27日日曜日

【プロが教える職場の法令順守】(07) 「不正を認めなければ処分なし」は通用せず

今回はやや視点を変えてみましょう。テーマは「やってはいけないことをやってしまったとき、どうするべきか」です。方法は「自分がやったことを正直に話す」か、「最後まで嘘をつき通し、自分がやったと認めない」のどちらかです。

不正の証拠を会社側に握られているなら、「自分のやったことを正直に話す」が得策です。「たとえ不正行為をやっても、自らそれを認めなければ処分されない」と考えるのは大きな間違い。さまざまな証拠をもとに、不正行為の存在が認定されれば、処分されてしまいます。しかも、最後まで嘘をつき通し、自分のやったことを認めなかったのは、反省の色が全く見られないということ。処分はより重くなります。

大相撲の野球賭博疑惑を思い出してください。日本相撲協会に十分な調査能力がなく、処分されたのは自ら不正を認めた力士のみ。否定し続けた力士は、何ら処分されませんでした。今回の大相撲八百長疑惑も、似た雲行きになりそうな気配です。

八百長相撲をやったと自ら認めたものが重く処分される一方、メールという動かぬ証拠があり、重要な証拠である携帯電話を壊したりしながら八百長への関与を否定し続けた者は、認めた者より軽い処分で済むのではないか……。このような「正直者がバカを見る」は、組織では絶対にやってはいけないことです。まかり通ってしまうと、今後は誰も正直に自分の不正を認めなくなってしまうからです。サラリーマンの皆さんも八百長疑惑事件を見て、「不正行為をやっても、自ら認めなければどうにかなる」などと思わないよう、くれぐれもご注意ください。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年2月26日付掲載~

2011年2月23日水曜日

【ザ・コラム】河村市長再選 「減税は経済拡大」は錯覚だ

名古屋市長選挙では河村たかし氏が市民税減税を訴え、圧勝した。ここで改めて、減税は本当に市民のためになるのか考えてみよう。減税を実施すれば、不足する財源は議員報酬の削減だけでは到底足りず、公共サービスを減らすしかない。したがって、この政策の是非は、サービス減を補うだけの経済拡大があるかどうかにかかっている。しかし、減税では経済は拡大しない。理由は次の通りだ。

これまで1億円だった税負担を7千万円に減らすとしよう。人々は3千万円助かるが、公共支出も3千万円減らさざるを得ない。公共支出の削減が、介護や教育などの公共サービスで行われるなら、そこで働く人たちへの給与支払いも減る。つまり3千万円は、公共サービスで働く人から納税者への再分配である。これでは、市民全体が使えるお金の総計は変わらないから需要も増えず、経済は拡大しない。介護や教育のサービスが減るだけである。

支出削減が社会保障費などの各種補助金を対象にするなら、補助金を受けていた人から納税者への単なる再分配であり、これでも経済は拡大しない。公共事業削減なら、コンクリート代が減るだけで、人への支払いは減らないと思うかもしれない。しかし、コンクリート代とは砂利や石灰石を掘った人への給与である。つまり、人件費でも材料費でも、削減すればすべて誰かが受け取る金額の減少をもたらす。

このように、減税をすればその分財政支出が減って、人々の収入が減る。反対に公共サービスを増やして給与を払えば、それに充てる増税で納税者の負担を増やす。いずれにしてもお金は増えず、再分配だけである。それなら、公共サービスが提供された方がよい。公共サービスの効果はこれだけではない。雇用の拡大でデフレと雇用不安が軽減され、消費が刺激される。その結果、所得も増え、経済が拡大して新たな税収も生まれる。このとき、経済拡大の要因は人々にお金を渡すからではない。雇用拡大で消費を刺激するからであり、所得が増えるのはその結果だ。減税なら、サービスも雇用も何も生まないから、所得も増えない。

河村氏はさらに、減税すれば外から企業や人々が入ってくるから、税収も増えるという。公共サービスが貧弱な地域に人が来るか疑わしいが、たとえうまくいって名古屋に人が集まったとしても、日本の他の地域が衰退する。これでは近隣窮乏化政策であり、他地域の犠牲の下でしか成り立たない議論だ。

減税すれば、とりあえずお金が増えて景気を刺激する、という見方もある。しかし、減税でいきなり手元資金が増えるわけではない。日々の所得から納める額が減ると同時に、財政支出も日々削られるから、人々の手元資金は増えず、時差がもたらす景気への効果もない。財政支出を抑えずに公債でまかなえば、お金は増えると言う人もいる。しかし、公債が積み上がれば、将来、利子付きで税負担がある。それを考えれば人々は消費を増やさない。たとえ将来の税負担を忘れて消費を増やしても、利子付きで負担が来るときには消費が減り、今の消費増加を相殺する。

このように減税は、公共サービスを減らして再分配を起こすだけである。再分配自体が経済への拡大効果を生むとしたら、消費性向の低い人から高い人に再分配される場合である。同じお金が、より多く消費する人に回るからだ。就業者から失業者への再分配は一例である。そのときでも直接お金を回すより、少しでも役に立つ仕事をしてもらって給与で渡す方がよい。総消費が増える上に公共サービスが提供され、国民の便益になる。雇用も拡大するから、消費をさらに刺激する。

減税によるばらまきでは経済は拡大せず、公共サービスの低下だけに終わるから、お金の取り合いによる悪者探しが始まる。その典型が公務員批判である。議員や公務員の報酬が適切かの議論もすればよい。しかし、それは純粋に分配の問題であり、経済の拡大や地域の発展とは無関係だ。

身内を無駄だ非効率だと攻撃し、減税というばらまきで、人々に経済が拡大するという錯覚を起こさせる手法は、周回遅れの小泉改革である。そこからは、公共サービスの低下と格差拡大だけで、何も生まれない。公共サービス削減のキャンペーンは、政策を考える側の自己否定だ。自分はお金を有効に使えないから、何もせずお金を返すということだ。経済にとって税金をそのまま戻すのがいいのか、雇用をつくって公共サービスを提供し、給与で戻すのがいいのか、答えは明らかだ。需要が旺盛で人手不足なら、公共サービスを減らして人手を民間に向ければよい。でも今は、人が余って雇用が足りないから、公共サービスを充実させる方がよい。

国民が考えるべきは、政府にどのような公共サービスを充実させるかだ。それが、国民自身の生活の質の向上につながり、就職に苦労する若者や失業に苦しむ人々への応援にもなる。 (大阪大学フェロー=小野善康)


~朝日新聞 2011年2月23日付掲載~

2011年2月22日火曜日

【鈴木良平の視点】移籍騒動のゴタゴタ引き起こした古巣のJ清水にひとこと言いたい

シュツットガルトFW岡崎慎司の新天地デビュー戦(18日の欧州リーグ・ベンフィカ戦)は、これ以上にない「困難な状況を乗り越えて」実現したものだった。

慣れないドイツでの暮らし。チームメートの特徴も分からない。地元スタジアムでのデビューではなく、ポルトガルでの完全アウェイ戦。さらにもうひとつ、遠征メンバーに選ばれてリスボンに到着した時点では「試合に出られる」確証はなかった。

前所属のJ1清水が「シュツットガルト移籍には問題がある」とFIFAに異議申し立てを行っていたからである。試合直前にFIFAから「ドイツ協会への暫定登録が認められた」との連絡が入り、スタメンに名を連ねることになったが、よほど強靭な精神力がないと平常心で試合に臨むことはできない。それだけにベンフィカ戦の岡崎には「良くやった」と声を掛けたい。

役回りは「左サイドのアタッカー」だったが、攻撃だけでなく、激しく動き回って守備にも奔走。チームに好影響を与えた。シュツットガルトは現在、ブンデスリーガ(18チーム)で降格圏内の17位に低迷している。岡崎のようなアグレッシブなタイプは、チームを上昇機運に乗せる起爆剤としてうってつけの存在だ。20日夜には、ブンデスリーガで2位に付ける好調レバークーゼンと地元で対戦する。ベンフィカ戦でのハツラツとしたプレーを見せてもらいたい。

一連の移籍騒動にひと言。シュツットガルトにとって、清水の言い分は「欧州の常識では理解できない」モノだ。シュツットガルトにモラルに反する行為、非常識なルール違反があったわけではない。「清水が欧州移籍を容認した」選手を獲得したに過ぎない。

多くの日本人が海を渡り、欧州で貴重な経験を積んでレベルアップを図ることは、取りも直さず「日本サッカー全体の底上げ」に直結する。ドイツを中心に欧州各国クラブが、日本人選手に深い関心を寄せているさなか、今回の清水の動きは「欧州での日本人人気」に冷や水を浴びせるようなもの。清水関係者の善処を強く望みたい。 (ドイツサッカー協会公認S級コーチ)


~日刊ゲンダイ 2011年2月21日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(06) 偽名でホテルにチェックイン……文書偽造罪

人目を避けてホテルに泊まりたい。こういうこと、誰でもあるでしょう。もちろん、ひとりで人生を真剣に考えたいという真面目な人もいるでしょうし、不倫にふけりたいという、ちょっとふらちな人もいるでしょう。しかし、偽名でホテルに宿泊すると、犯罪になるケースがあります。

チェックインの際、宿泊申込書に偽名を書くことは、文書偽造罪です。文書の作成名義人を偽って領収書や請求書、契約書など「権利義務もしくは事実証明に関する文書」、つまり「法律上重要な文書」を作ると成立する罪です。宿泊申込書は、客とホテルとの間で締結される宿泊契約の申込書に当たります。つまり、「権利義務に関する文書」といえます。ですから、別人が宿泊していると思い込ませるために別人の氏名を書けば、私文書偽造罪です。実在する人物の氏名ではなく、架空の人物の氏名でも同じです。

会社の経費で接待したのに、飲食店から領収書をもらい損なった場合も気をつけてください。「実際に店にカネを払ったのは間違いない」と、飲食店名義の領収書を作って精算してしまう。サラリーマンはやりがちですが、犯罪です。多くの人が誤解していますが、文書の作成名義人、つまり「誰がこの文書を作ったのか」を偽ることが、「文書を偽造する」ということ。それを偽らなければ、たとえその文書の内容が虚偽であっても、文書の偽造とはなりません。法律は、文書の内容の真実性よりも、作成名義の真実性を重視しているからです。

ただし、公務員が作る文書は別。虚偽の文書を作成すると、文書偽造罪とは別の罪、つまり「虚偽(公)文書作成罪」が成立します。公務員の作る文書については、その内容の真実性についても、刑罰で保護しようとしているのです。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年2月19日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(05) 発注者に価格を耳打ちされ……入札妨害罪

競争入札では、入札者間で入札価格や落札者を決めると犯罪になることは、前回説明しました。しかし、入札をめぐる犯罪には、発注側が絡むケースも少なくありません。

工事を発注するなら、なるべく安く済ませたいのが当然でしょう。ところが中には、価格が高くてもいいからその企業に受注させたいケースがあるのです。入札前から特定の企業にその工事のアドバイスを受けたり、特定の企業でないと工事がスムーズに進まないなどの事情が影響するのです。だったら発注者は、特定企業に受注するよう素直に依頼すればいいと思うでしょうが、そうもいきません。

公的機関の工事発注は、特定の企業を選んでの契約(随意契約)はできないのが原則。必ず競争入札にしなければならないのです。それでも発注者側は、特定の会社に入札に関する情報(最低入札価格など)を教え、その企業が情報を基に落札してしまうことがあります。

落札した企業も、仕事を出す側が入札予定価格を教えてくれたのだし、それを参考に受注したのだから、問題のあることだと思わない。そもそも発注者が承知しているのだから、罪にはならない――こう思う傾向がありますが、これは間違い。「入札妨害罪」という立派な犯罪です。まして発注者が公の機関の場合、発注者が支払う代金は国民の税金です。たとえ公の機関の担当者がよいと言っても、それで済む問題ではないのです。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年2月5日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(04) 親睦会に参加しただけで談合に?

国や自治体が発注する工事は、競争入札で受注業者が決められます。競争入札なら、最も安い価格を申し出た企業に工事を発注でき、国や自治体が払う代金が安く済むし、税金もムダ遣いせずに済みます。

しかし、受注する企業にすれば、安く受注=儲けが少ないことを意味します。営利目的の企業なら、面白いはずがありません。そこで、入札前に入札者間で落札者(チャンピオン)をあらかじめ決め、その企業が落札できるよう入札額を事前に打ち合わせをする。これが「談合」です。入札企業が入札額を示し合わせれば、チャンピオンが工事を受注、多額の儲けを出すことができます。そしてチャンピオンを順番にやることにすれば、各企業とも利益を出すことができます。

サラリーマンに注意してほしいのは、談合というと、入札企業が一堂に会し、談合の綿密な話し合いが長時間行われると思っている人が多いこと。ところが、実際の談合は、思いがけない形で行われているのです。

例えば、「業界の新年会に参加したら、次の案件はウチに取らせてくれと言われ、うなずいてしまった」「電話で、ウチは入札を降りるから、その代わり下請けに入らせてくれと言われた」などです。このような気軽な会話が談合と認定され、犯罪とされてしまいます。実際、談合に参加しなくても、談合の疑いをかけられて、捜査の対象とされてしまうこともあります。

単なる業界の親睦会に参加したつもりでも、その場で他企業の人々の間で談合の話し合いがなされれば、たとえその会話に参加していなくても、捜査機関には「立派な談合の一員」と映ってしまうのです。談合がよく行われる親睦会などに参加すること自体、リスクがあります。注意してください。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年1月29日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(03) 友人でも公務員との飲食は贈賄罪に!?

賄賂というと、公務員に何か「不正な依頼」をしてそれを実現してもらい、見返りとして金品を渡すことだと思われているようです。でも、不正な依頼(請託)はもちろん、何のお願いや依頼をしなくても、その公務員の職務に関して金品を提供するだけで、贈賄罪となります。

「職務に関して」とは、その公務員が具体的に担当する事務である必要はありません。職務行為自体でなくとも、職務に密接な関係を持つ行為も含む、とされています。例えば、その公務員があなたの会社の営業について許認可権を持つなどの直接的権限がなくても、それについて多少でも影響力を与える権限があれば、「職務に関して」と認定されることが多いのです。

また、賄賂というとお金ばかりを思い浮かべますが、人の需要・欲望を満たすものであれば、一切の利益がこれに当たります。飲食の提供、就職の斡旋、あるいは部屋のベッドに女性を送り込むのも賄賂ですし、リクルート事件では、未公開株式の譲渡も値上がりが確実だったとして、賄賂に当たるとされました。

サラリーマンが注意してほしいのは、飲食の提供です。公務員と飲食した際、相手が学校の同窓だったり、同郷だったりすると、サラリーマンはつい相手分の代金も支払ってしまいがちです。しかし、相手が公務員なら要注意。相手が職務に関係のある部署にいると、賄賂と認定されてしまう恐れがあります。

中元・歳暮などの社会的儀礼の範囲であれば、金品を提供しても賄賂にはならないといわれますが、友人間で中元などとしてよくやり慣れている数千円程度の贈り物でも、職務に関して授受された場合には賄賂と判断されます。中元・歳暮でも、公務員に贈るのは避けた方が無難です。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年1月22日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(02) 勝敗が不確定ならすべて賭博になる

賭博というと、ルーレット、サイコロ、花札など、結果がすべて偶然によって左右される勝負事に金品を賭けることだけが対象だと思われがちですが、それは間違いです。「多少なりとも結果が偶然に左右される事柄」であれば、すべて賭博の対象です。他人が行う相撲、野球、ボクシングは、賭ける当人には、勝敗は偶然以外の何ものでもありませんから、賭博の対象ですし、自身が行うスポーツや、将棋や囲碁などの娯楽競技であっても、同じことです。

これらは、技術や実力が大きくものをいいます。しかし、結果には個々の技術などが大きい割合を占めるとはいえ、多少なりとも偶然が左右することは否定できません。例えば、10回やって10回勝つほど技術が優れているゴルファーも、何かの拍子で調子を崩し、負ける可能性は否定できません。勝負には、番狂わせの可能性が常にあるのです。そういう事柄を賭けの対象とすると、賭博罪となります。

また賭博は、賭ける人同士の合意で行われることが多いのですが、それだけではありません。ゴルフなら、プレーヤー間で「にぎろう」と約束すれば賭博ですが、ゴルフコンペそのものが賭博となることもあります。参加者からお金を集め、それを賞金に充てたり、景品を買って配るケースです。コンペ幹事=胴元で、参加者は儲かるかもしれないが、損をする可能性もあるという状況に置かれるからです。

参加者から参加費などの名目で金品を集めず、幹事がすべての商品を他人から調達し、参加者も負担なしで商品が得られる状況ならば、賭博にはなりません。ただし、コンペの幹事が取引先などから強制的に商品用の金品の提供を求めたりすると、別の犯罪になってしまうことがありますので、注意してください。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年1月15日付掲載~

【プロが教える職場の法令順守】(01) 「ネット掲示板に真実を公表」は名誉毀損罪

何げなくやっていることが、実は犯罪になる。意外に多いものです。サラリーマンの皆さんに注意してほしいものとして、名誉棄損罪があります。

「立派な経歴の持ち主を装い、エラソーなことを言っているが、その経歴は全くのウソ。とんでもないヤツなので、インターネットの掲示板サイトに、真実を書き込んでやった」。こんなケース、よくありそうです。「他人のウソをばらし、真実を伝える」。悪いこととは思えません。ましてや犯罪になるとは。名誉棄損罪は知っていても、「内容が真実であれば罪に当たらない」と思っている人がほとんどでしょう。

しかし、それは間違いです。「世間で定着している社会的評価であれば、それが虚偽のものであっても守られるべきである」というのが、法律の考え方です。そのため、人の社会的評価を落とす事実を公然と発言すると、その内容が真実であっても、名誉棄損罪に問われるのです。

ポイントは、「公然と」という語。「公然と」とは、「不特定または多数人が知りうる状態」のこと。「知りうる状態」とは、他人に伝わる可能性(伝播可能性)がある状態を指します。ですから、たとえ限られた人数に対する発言でも、その内容が他人に伝播する恐れがある状態ならば、「公然と発言した」ことになります。

インターネットがなかった時代は、文書を大量にばらまくか、多数が参加する集会で他人の悪口を言うなどしなければ、「公然と」の要件を満たしませんでした。しかしネットは、これを簡単にクリアしてしまいます。ホームページは、不特定多数がアクセスできるもの。そのため、ホームページ上に、人の社会的地位を落とすような事実を記載すれば、多くはその段階で名誉棄損罪が成立してしまいます。たとえ内容が真実であっても、またアクセスがほとんどないホームページであっても、です。

例外は、公共の利害に関する事実であって、目的が専ら公益を図ることにあり、当該事実が真実であることを立証できた場合。これは罰せられないこととされています。 (小林総合法律事務所代表=小林英明)


~日刊ゲンダイ 2011年1月8日付掲載~

×国民の生活が第一  ○国会の政局が第一

小沢系会派離脱 政権党の自覚と責任を持て
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-173671-storytopic-11.html

>小沢氏が離脱の動きに関わっているのかは不明だが、
>いずれも小沢氏を「師」と仰ぐメンバーだ。ならば小沢氏は
>16人に国会審議に専念するよう促すべきだろう。

この部分が全てを物語っている。結局、小沢は国民生活のことなんかこれっぽっちも頭にない「政治屋」なのだ。

本当に救うべき国民がこの国には山のようにいる。

被扶養前提非正規の壁 母子世帯年収 平均の4割未満
http://www.kyoto-np.co.jp/info/syakai/hitorijanaiyo/110216.html

2011年2月18日金曜日

2011年1月 日刊ゲンダイ1面煽り文句一覧

1月5日付
「正念場の1年が始まった 解散総選挙、朝鮮有事不況」
1月6日付
「小沢のカネがそんなに大問題なのか 一平卒の小沢を誰が恐れ何が怖いのか」
1月7日付
「盗人猛々しい菅首相 人品卑し過ぎる菅直人の挙動」
1月8日付
「今の政治の話はアタマに来る 悪いのは菅なのか小沢なのか」
1月10日付
「菅直人とは何者か 即刻辞めさせないと国が滅びる」
1月12日付
「泥船内閣、悲惨な改造 延命のため最後の悪あがきの行方」
1月13日付
「彼は何をやりたいのか 菅政権は限りなく自公のいいなりになる」
1月14日付
「政権交代は1年余で夢と消えた 財界・米国・官僚による菅政治への重大疑問」
1月15日付
「改造内閣の寿命は僅か3ヵ月 この期に及んで選挙民を愚弄する菅無能首相の内閣改造」
1月17日付
「狂気の沙汰の内閣改造 完全に旧自民化した裏切り菅政権」
1月18日付
「酷評された菅内閣再改造 3月まで持つのか廃材大臣内閣」
1月19日付
「国民の半分以上が不支持、菅改造内閣 子ども手当廃止・大増税、反国民政治が始まる」
1月20日付
「墓穴を掘った内閣改造 暗愚で狂者ならどうなるこの国」
1月21日付
「民主党四人組の卑劣 小沢排除で支持率上昇狙いの菅首相の邪悪」
1月22日付
「なぜか権力に弱いジャーナリストたち この国の混乱の現状は第一線記者の責任」
1月24日付
「与謝野に乗っ取られた菅政権 デタラメ麻生内閣の亡霊が復活」
1月25日付
「菅ご臨終国会始まる 政治混乱は殿ご乱心が原因」
1月26日付
「国会を台なしにしているのは誰なのか 菅政権は『小沢のカネ』より政策実現が先決だ」
1月27日付
「菅政権は詐欺師集団 自民と何も変わらぬ悪政の始まり」
1月28日付
「こんなハズではなかった政権交代 『国民生活第一』を棄てた権力亡者の黒い正体」
1月29日付
「菅政権には失望した 自民化するなら総選挙をやり直せ」
1月31日付
「菅首相は米国の手先だ 小泉時代へ逆行、対米隷従菅政権」


よくもまあこんなに思いつくもんだね