2011年4月16日土曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(02) 内田篤人

日本代表には07年4月に初めて招集され、08年6月の南アW杯3次予選バーレーン戦で代表初ゴールを決めた。「20歳87日」でのゴールは、W杯予選における代表最年少ゴール記録である。

10年7月、オファーのあったドイツ1部の名門シャルケに移籍した。本当は海外移籍に乗り気ではなかったという。「イタリア・セリエAでプレーした経験のある鹿島の先輩・小笠原に相談したら、シャルケでプレーすべきと言われたので踏ん切りがついた。そう内田は話していたが、これが大きな勘違い。小笠原は『いつか欧州に挑戦した方がいい』という意味で移籍を勧めただけだった」(サッカー記者)

もともと欧州リーグへの憧れはなく、各国代表の有名選手もロクに知らない。5日の欧州チャンピオンズリーグ準々決勝でインテルと対戦。試合後に日本代表の僚友、インテルの長友に「(インテルの背番号)10番、凄く上手だよねぇ~」と話し掛け、長友に「おいおい、南アW杯でも対戦したオランダ代表司令塔のスナイデルを知らないのか?」と呆れられた。「シャルケを選んだ理由を聞かれて『鹿島に移籍金(1億5000万円)をきっちり払ってくれるところならどこでもよかった。鹿島には愛着を持っている。移籍金が発生しなかったり、安かったりでは恩返しも出来ないからね』と話していた」(マスコミ関係者)

鹿島でも、そしてドイツでも「暇さえあれば寝てる」が口癖。地味なタイプでハデな生活とは無縁。「日本代表のレギュラーに定着し、イケメン選手として女性ファンも急増したが、いつも鹿島の選手寮でゴロゴロしていた。たまに外食に出掛ける時も鹿島のエンブレムのついたジャージーの上下を着たまま、ひとりでファミレスに行ってパスタなどをササッと食べ、そそくさと帰っていく。そんな姿が何度も何度も目撃されている」(前出の記者)

東日本大震災の起きた翌12日、地元でのフランクフルト戦後、「共に生きよう!」など日本語とドイツ語で書かれた自筆メッセージつきユニホームを着てサポーターにアピールした。GKノイアーのフォローがあった。「試合前に『これ(ユニホーム)を見せるのか?』とノイアーに聞かれ、内田は『勝ったら見せる』と答えた。するとノイアーが『オレがきっちり守る。今日は勝てるから』と勝利を約束した。試合は1-1の同点から後半39分、ノイアーが自陣ペナルティーエリア外に飛び出し、ルーズボールを相手ゴール前までロングフィード。これが味方FWの足元にピッタリ届き、決勝ゴールのアシストを記録した。その瞬間、真っ先にノイアーに抱きついたのが、ピッチ内外で仲良しの内田だった」(放送関係者)

試合後、ノイアーがロッカーに戻ろうとした内田をうながし、スタンド前まで連れて行った。そこで内田はユニホームの裾を引っ張り、メッセージを広げるとスタンドから割れんばかりの拍手が送られた。ACジャパン(旧公共広告機構)のCMでお馴染みのシーンである。ちなみに内田のメッセージつきユニホームは大きな反響を呼び、3月27日には近隣のライバル、ドルトムント、ボーフムとの合同チャリティーマッチが行われた。

【うちだ・あつと】 1988年3月27日、静岡県函南町出身。06年に清水東高を卒業して鹿島入りし、クラブ史上初となる高卒ルーキー開幕戦スタメン出場を果たした。04年の16歳以下アジア選手権、07年の世界ユース選手権、08年の北京五輪に出場。シャルケ入りすると日本からの女性ファンが急増。クラブ内で「日本ではモデルをやっていた」という噂が流れ、チームメートから「日本のベッカム」とからかわれている。身長177センチ、体重65キロ。


~日刊ゲンダイ 2011年4月12日付掲載~