2011年4月27日水曜日

【サッカー日本代表・読んだり蹴ったり】(08) 松井大輔

14歳の春。京都・山科区の大宅中サッカー部でプレーしていた松井大輔は、いきなり「転校したい」と言い出し、周囲をビックリ仰天させた。「松井は小学校時代から天才として知れ渡り、通っていた地元小学校のサッカー部も全国大会で優勝を争うような強豪だった。同級生たちと地元の中学に進むとサッカー部の顧問がサッカーの素人でヤル気もゼロ。松井は中学1年から関西地区中学選抜に選ばれ、選抜チームの牧戸監督に心酔していた。中学2年の夏に牧戸監督の赴任校、伏見区の藤森中に強引に転校した」(サッカー記者)

クラブチーム間の移籍ではない。サッカー留学のために公立中学校を渡り歩く。前代未聞の掟破りとあって、松井は地元でボロクソに言われた。「松井の実家には無言電話がバンバンかかり、牧戸監督は『引き抜きとはえげつない。何でもアリなのか』と陰口を叩かれた」(前出の記者)

04年8月のアテネ五輪代表で背番号10を背負ってプレー。翌9月に仏リーグ2部ルマンに移籍した。チームは松井効果で順位を上げ、1部昇格の立役者となった。地元では、今でも「ルマンの太陽」と呼ばれている。もっとも、仏2部リーグは「ピッチは泥田状態でフィジカル自慢の黒人選手が、悪質極まりないカニ挟みタックルを仕掛けてくる。もうラグビー並みの激しさ。1部に這い上がるためには手段を選ばない連中がゴロゴロいる」(松井)中、持ち味である変幻自在のドリブル突破、ヒールパスなどトリッキーなプレーで相手を翻弄。目の肥えた仏サッカーファンのハートをガッチリ捉えた。

仏リーグで屈強な黒人とマッチアップしているうちに松井は体の使い方やマークのかわし方など黒人選手対処法を体得した。これが南アW杯で大きな財産となった。W杯初戦の相手は、大物FWエトーを擁するカメルーン。フィジカル勝負に持ち込まれると勝ち目はないが、ひとりだけ苦にしない選手がいた。MF本田圭の値千金決勝ゴールをアシストした松井は、果敢に1対1の勝負を挑み、守っては身をていしてカメルーン選手をつぶした。初戦をモノにした日本代表は上昇気流に乗り、望外のベスト16に輝いた。“黒人慣れした”松井の功績だ。

仏で一緒に暮らしていた美人妻と南アW杯前に離婚。理由は諸説ある。「仏移籍後、松井は早い段階で仏語をマスターしたが、地元では『仏人女性とのピロートークを通じてメキメキと上達していった』という噂も流れた。真偽のほどは定かではないが、実際に松井は地元の女性にモテモテだったし、そういう噂が立っても致し方ない面もあった」(マスコミ関係者)

南アW杯後、所属するグルノーブルが仏リーグの2部に降格したこともあり、昨年9~12月にはロシア1部トムスクにレンタル移籍。今年1月、Jリーグ復帰が有力視されたが、最終的に「引退するまで欧州でプレーしたい」と言ってグルノーブルに出戻った。まさか欧州女性にハマったワケでもないだろうが……。

【まつい・だいすけ】 1981年5月11日、京都府出身。京都3年目の03年、現マンチェスター・ユナイテッドMF朴智星とともに攻撃サッカーを展開し、クラブ初タイトルとなった天皇杯優勝に貢献する。J1通算72試合7得点、J2通算54試合9得点。日本代表31試合1得点。身長175センチ、体重68キロ。血液型O型。


~日刊ゲンダイ 2011年4月23日付掲載~