2011年7月6日水曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(10) 監督もいろいろ…「選手目線」あり「上から目線」あり

すべての監督が人間的にも指揮官としても素晴らしかった――とは言い切れません。それではキレイ事になってしまいます。

浦和に移籍した翌04年にギド・ブッフバルトが監督に就任しました。ボクを含めて選手は、彼のことを親しみを込めてギドと呼んでいました。ギドが際立っていたのは「人心掌握術のうまさ」です。あの頃の浦和にはアクの強い選手が多く、彼らを気持ち良くプレーさせることで「チーム全体の強さに結びつける」ことにたけていました。

気配り上手の監督でもありました。浦和が初めてJリーグを制した06年。ボクは靭帯断裂などケガに見舞われ、試合に出られないことが多かったんです。シーズンも終盤に差し掛かった30節の横浜M戦はギシ(山岸範宏)が体調を崩し、ボクが先発しました。4月の第10節以来の先発でしたが、試合は1-0の完封勝利。納得のいくパフォーマンスを披露できました。

次節の名古屋戦の前日、ボクはギドに呼ばれました。「オマエさんの(横浜M戦の)プレーは本当に素晴らしかった。次もオマエさんを使いたい。しかし(これまで出場機会の多い)ヤマギシを使いたいという気持ちもある。オレは悩んでいる」と言われたんです。ボクはこう返答しました。「自分は(たとえベンチでも)ちゃんと練習するし、チームに悪影響を及ぼすようなことはしない。とにかく、チームが優勝するためのベストを選択して欲しい」

06年シーズンはギシが24試合に出場。ボクは11試合でした。正直に言ってリーグ優勝は「うれしさ半分」。全試合に出場してチームに貢献し、その上でリーグ初制覇の美酒に酔いしれたかった! でも、ギドはこの年の天皇杯にボクを重用してくれ、07年元日に行われたG大阪戦との決勝戦に勝って天皇杯優勝の喜びをピッチ上で味わうことができました。振り返ると満足のいくシーズンでした。

07年はギドに代わってオジェックが11シーズンぶりに監督に復帰しました。ベテラン選手から「とても厳しい監督だった。ボールに腰掛けただけで怒鳴られた」と聞かされました。実際に厳格な監督でしたね。ギドが「選手目線」だとするとオジェックは「上から目線」でした。反発する選手もいました。

ところが07年6月に開催されたA3(日本、韓国、中国の各リーグ優勝クラブによる東アジアクラブ王者決定戦)で3位に終わった途端、いきなり対話路線に急転換でした。戸惑う選手もいましたが、ボク自身はオジェックを評価しています。勝利のために何をすべきか? 07年のACLを制して年末に開催されたクラブW杯で3位に食い込めたのも、自分を押し殺して方向転換を決断したオジェックの功績が大きかったと思います。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月28日付掲載~