2011年3月12日土曜日

【TPPに克つ!脱サラ&異端農業成功物語】(04) チーズ職人の頑固一徹

帯広市から車で40分ほど南に下ると、河西郡更別村に入る。そこに一見、ログハウスと見間違えるようなおしゃれな建物がある。大根農家の野矢敏章さん(61)の家だ。大根だけで約20ヘクタールを栽培、年商約1億円の大農家だ。

大根栽培が暇になる冬場、野矢さんは頑固一徹のチーズ職人に変身する。地元の牛乳を使い、発酵用の菌にもこだわる。人工のものではなく、地元で自然に生息しているものを使うのだ。たとえばブルーチーズ用の青かびは、地元のパン屋で培養したものを使った。作業場は自宅横に設置した大きな海上輸送コンテナを改造して再利用。さらに自宅地下を熟成庫に改装した。

10年前、地元の乳製品会社OBにチーズ作りを教えてもらい、趣味で始めたのが、5年前から本業化した。夫婦と息子の3人の手作りで、年間500万~600万円を売るのである。野矢さんが生産するのは硬質の「ゴーダ」タイプのチーズだ。ブランド名は「酪佳」。カシワの木のチップで燻製にした「スモーク酪佳」は、2年前の「十勝産新作ナチュラルチーズコンクール」で優勝した。3年前の「洞爺湖サミット」では、野矢さんのチーズが各国首脳に振る舞われた。

「輸入品並みの品質ですね」と褒め言葉をかけられるようになったが、野矢さんはそれが気に食わない。「私は十勝独特のものを作りたいんですよ」。筆者が訪れると、自慢の「酪佳」を包丁で切っておやつに出してくれた。食べてみると、コクがあり、今までのチーズにない風味だ。1年熟成したものは表面が木の皮のようにザラザラしている。さらに2年ものはブランデーのような風味がする。これをつまみにすれば、いくらでも赤ワインが飲める。

素晴らしいチーズなのだが、ここに至るまでは辛苦がある。野矢さんは43年前、旭川近くの東川町で実家を継いで酪農業に就いた。その3年後、日本列島改造論で全土がバブルに沸き、「ゴルフ場用に農地売ってくれ」と街や地元農協に頼まれた。野矢さんひとりだけが断ったため、地元で村八分にあった。「家族が精神的に参ってしまい、土地を売って酪農をやめることに決めました。ところが決めた途端、ゴルフ場計画が中止になった」

計画は頓挫したが、野矢さんには「町や農協に逆らった男」というレッテルが残った。農協のいじめはずっと続き、野矢さんは架空の借金をでっち上げられ、返済請求の裁判を起こされてしまう。野矢さんは損害賠償請求で逆提訴。結局、裁判は野矢さんの事実上の勝訴で和解・決着したが、その後、野矢さんはより大根栽培に適した更別村に引っ越した。チーズ作りへのこだわりは、不本意な形で酪農からの転身を余儀なくされた野矢さんの複雑な思いの結晶かもしれない。

さて、野矢さんは、農業が抱える課題や自由貿易との関係についても意識が高い。昨年11月、農業大国のキューバを視察、有機栽培の都市菜園が普及していることに驚いたという。キューバでも、安さよりも安全なものを自国で確実に調達することを重視しているのである。「日本の消費者は、遺伝子組み換えもポストハーベストも受け入れる準備ができているのですかね」

安けりゃいいってもんじゃない。設備投資を抑えて100年前の製法にこだわる職人は「手作りチーズの意味が分かった人に食べてもらいたいです」と言う。こうした骨太農家がいる十勝の農業は強い。

井上久男 1964年生まれ。04年朝日新聞を退社してフリージャーナリストに。自動車産業や農業などを精力的に取材。著書に「トヨタ 愚直なる人づくり」。


~日刊ゲンダイ 2011年3月4日付掲載~