2011年6月30日木曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(06) 突然、トルシエ監督の両手ビンタが飛んできた

いきなり力任せに両頬を挟み込むようにバチーン!と強烈なビンタを食らわせた監督がいました。試合中にそんなコトをする監督は……そうです。トルシエです。

00年シドニー五輪本大会での出来事でした。そもそも五輪メンバーに入れるとは思ってもみませんでした。代表合宿には何度も呼ばれたのですが、一度もプレーする機会がなかったからです。なのにボクが代表メンバーに名を連ね、1学年下で五輪候補常連のソガ(曽ケ端準=鹿島)はサブ要員に回り、本大会期間中はスタンドで試合観戦でした。

トルシエはA代表でも「えっ、意外な選手を呼ぶな」と思うことがありましたが、何てことはない、ボク自身も「意外な人選」と周囲は驚いたでしょう(笑)。もっとも正GKは2学年上で奈良県の先輩、ナラさん(楢崎正剛=名古屋)で決まりでした。五輪代表には「23歳以下」の年齢制限があり、3人だけ制限なしのオーバーエージ(OA)枠が設けられていました。OA枠として代表入りしたナラさんがケガでもしない限り、ボクに出番は回ってこないというわけです。

32年ぶりに決勝トーナメントに進出。準々決勝の米国戦の後半30分過ぎのことでした。ナラさんとユージ(DF中沢佑二=横浜M)が激突し、ナラさんは左目の上から出血をしています。ドクターが「×印」を出しています。アップ中のボクはベンチに戻され、ユニホームに着替えました。緊張しないタイプですが、急展開にビビっているように見えたのでしょう。いきなりでした。トルシエが両手を広げたと思ったら、強烈なビンタを食らいました。トルシエ流「目を覚ませ!」だったのでしょう。

確かに目は覚めました(笑)。しかし――。ナラさんは治療を受けて戦列に復帰。試合はPK戦にもつれました。4番手のヒデさん(中田英寿)が失敗。日本はベスト8で涙をのみました。試合後、病院に直行したナラさんは頭蓋骨骨折で全治1ヵ月の診断が下りました。本当は即交代の大ケガだったのです。米国に勝っていれば準決勝の相手はスペインでした。ナラさんの術後の経過が良いことにホッとしつつ、「ナラさんに代わってプレーし、勝ち上がってスペインと戦いたかった」が本音だったことを白状します。

トルシエはシドニー五輪の後、日本代表に呼んでくれるようになりました。当時、3学年上のヨシカツさん(川口能活)とナラさんが代表正GKの座を争っていました。2人の強烈なライバル心を目の当たりにしながら、ボクは「どうして一緒にいて会話を交わさないのですか?」と聞いてみました。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月21日付掲載~