2011年6月24日金曜日

【熱血交遊録~内側から見たJリーグと日本代表】(03) 「監督と揉める」「自分が1番手じゃないとふてくされる」そんなレッテルを貼られた

G大阪での2002年シーズン前期終盤。起用法をめぐって西野朗監督と対立し、後期15試合は出場ゼロでした。「チーム内に居場所はなくなった」。そう感じていたところ、うれしい話が飛び込んできました。浦和レッズから正式オファーが届いたのです。

チーム間で移籍話が進み、浦和強化部の部長と大阪で会いました。その時に犬飼基昭社長(日本サッカー協会前会長)、森孝慈GM(元日本代表監督)、オフト監督(元日本代表監督)から高く評価されていると聞かされ、晴れ晴れとした気持ちになりました。ちなみに強化部長から最初に聞かれたのは「西野さんとの間に何があったのか?」でした。ボクは、ありのままを包み隠さずに話しました。

都築=「監督と揉める選手」というイメージが定着し、さらに「都築は1番手じゃないとふてくされてしまう」というレッテルを貼られていることは、自覚していました。「ちゃんとした競争原理の中で正GK争いができるのなら、たとえ2番手でも3番手でも構いません。これがボクの考え方です」。こう強化部長に伝えました。ウルサ型とみられていたボクをGKとして正当に評価した上でオファーを出してくれた浦和には、本当に感謝の言葉以外ありません。

余談ですが――。大阪市内のホテルで強化部長と会った時点で浦和への移籍話は、まだ正式にアナウンスする前の段階でした。話し合いが終わって部屋を出た瞬間、大勢のマスコミ関係者と出くわしてしまい、もうビックリ仰天でした。翌日のスポーツ紙などに「G大阪GK都築の浦和移籍決定!」と報じられたのですが、実はこの日、日本代表FW高原直泰(当時、磐田所属。現清水)のドイツ・ブンデスリーガ1部ハンブルガーSV移籍の記者会見が開かれ、大挙して押し寄せていたマスコミ関係者に「偶然に見つかった」というわけなのです。

浦和の正GKは、中京大を卒業して01年に入団したギシ(山岸範宏)でした。同い年のライバルです。03年開幕戦はギシが出場しましたが、それからはボクが先発することが多くなり、移籍1年目は20試合(山岸は10試合)に出場しました。プレースタイルもキャラクターも異なるギシとは、身近なライバルとして切磋琢磨する間柄でした。05、07、08年にボクは33試合に出場しましたが、浦和が初めてリーグを制した06年はギシが24試合に出場。ボクは11試合にとどまり、随分と悔しい思いをしたものです。周囲から「都築が移籍してきて山岸もうまくなった」と言われることがありましたが、ボクが浦和で通算198試合に出られたのも、ギシという好敵手がいて自分自身もレベルアップすることができたからだと思っています。 (つづく)


▽都築龍太(つづき・りょうた) 1978年4月18日、奈良県生駒郡平群町出身。平群中から長崎・国見高。96年高校選手権8強。全日本ユース3位。97年にG大阪入り。00年シドニー五輪メンバー。03年に浦和に移籍。抜群の安定感とアグレッシブな存在感を併せ持ったGKとして05年、06年のJリーグ優勝、07年のACL優勝、同年世界クラブ選手権3位の原動力となった。01年コンフェデ杯ブラジル戦で日本代表デビュー。Jリーグ通算250試合出場。


~日刊ゲンダイ 2011年6月16日付掲載~